第2話 死ぬ前に、本音を返す
「――あなたは、まだ死んではいけない」
静寂の回廊に落ちたその言葉は、命令のようで、祈りのようでもあった。
冷え切っていた胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
戦場で無数の命を刈り取ってきたと噂される「死神騎士」の腕は、驚くほど温かかった。
漆黒の軍服越しに伝わる体温が、今にも消えてしまいそうだった私の身体を、確かにこの世へつなぎ止めている。
「ルキウス、様……」
私は我に返り、慌てて身を起こそうとした。
これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
それに、こんなところを誰かに見られれば、彼にあらぬ噂が立ってしまう。
「申し訳、ありません。立ちくらみが、少し……」
強がって立ち上がろうとした私を、ルキウス様は無理に抱き留めなかった。
けれど、完全に離れることもせず、私が自力で立てるように、そっと腕を支えに回してくれる。
その踏み込みすぎない優しさが、かえって胸に痛かった。
「馬車まで送る」
「ですが、特務騎士隊長であるあなたが、私のような……本日付で婚約を破棄された身の女を気遣う必要など」
「俺が、送りたい」
低い声で遮られ、私は言葉を失った。
その声に、同情の色はなかった。
憐れみも、好奇心もない。
ただ、私を放っておけないという、静かな意志だけがあった。
「……ありがとうございます」
私は小さく礼を言った。
ルキウス様はそれ以上何も言わず、私の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出した。
一切の隙のない歩き方なのに、常に私を庇うような位置にいてくれる。
王宮の出口に、ローゼンベルク公爵家の馬車が待っていた。
御者が慌てて扉を開ける。
私が馬車に乗り込もうとした時、背後から名を呼ばれた。
「カミラ嬢」
振り返ると、ルキウス様が手を差し出していた。
その手のひらの上には、美しい漆黒の石が乗っている。
夜空を切り取ったように深い色をした、小さな黒曜石だった。
「これは……?」
「通信石だ。俺の魔力が込めてある」
ルキウス様は、私の手にそっとその石を握らせた。
指先が触れ合う。
ほんのわずかな体温が、また私の手に移った。
「困った時は、これを握って少しだけ魔力を流してくれ。どこにいても、必ず気づく」
「そんな……これほど貴重な魔道具を、いただくわけにはまいりません」
特務騎士隊長に直接つながる通信石など、国家機密に近いはずだ。
私が慌てて返そうとすると、ルキウス様は無表情のまま、わずかに眉根を寄せた。
「頼む」
たった一言。
けれど、その短い言葉には、ひどく切迫した響きがあった。
「お守りだと思って、持っていてほしい」
その瞳の奥にある真摯な光に射すくめられ、私は小さく頷くしかなかった。
「……お借りします」
「返さなくていい」
「では、大切にします」
そう答えると、ルキウス様の黒曜石の瞳が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
馬車が動き出す。
窓の外を見ると、ルキウス様は真っ直ぐに立ったまま、私が見えなくなるまでこちらを見送っていた。
◇ ◇ ◇
公爵邸に戻ると、私専属の侍女であるマルグリットが、血相を変えて駆け寄ってきた。
「カミラ様! お顔色が真っ青です。一体、王宮で何が……」
彼女は幼い頃から私に仕えてくれている。
侍女というより、姉妹のように育ってきた大切な存在だった。
私が感情を殺して王太子妃教育に耐えてきた日々を、一番近くで見ていた人。
私が泣けない代わりに、いつも悔しそうに泣いてくれた人。
「マルグリット。人払いを」
私の声に、マルグリットは息を呑んだ。
けれど、すぐさま表情を引き締め、他の使用人たちを下がらせる。
自室の扉が閉まる。
ソファに腰を下ろすと、マルグリットが温かいお茶を淹れてくれた。
私はその湯気をしばらく見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「今日、フェリクス殿下から婚約を破棄されました」
ガチャン、と音がした。
マルグリットの手から、ティーカップの乗った盆が落ちていた。
「……は?」
彼女は一瞬、意味を理解できないように瞬きをした。
そして次の瞬間、顔を真っ赤にして震え始める。
「な、何を……! カミラ様が、どれほど殿下のために尽くしてこられたか、あの方はご存じないのですか!? ご自分が投げ出した政務も、慈善院への手配も、貴族方との調停も、全部、全部カミラ様が――」
「マルグリット」
私は静かに名を呼んだ。
彼女は唇を噛み、言葉を止める。
「怒ってくれてありがとう。でも、私は婚約破棄を受け入れました」
「受け入れた……?」
「ええ。むしろ、心が軽くなったくらいよ」
マルグリットは信じられないという顔をした。
私は、ルキウス様から渡された黒曜石の通信石を、そっとテーブルの上に置いた。
「それから、もう一つ。あなたにだけ、伝えておかなければならないことがあります」
私の声が、少しだけ低くなったのを感じ取ったのだろう。
マルグリットは、泣きそうな顔のまま姿勢を正した。
「今日、グレアム先生に診ていただきました」
「お身体のことですね。やはり、どこかお悪いのですか?」
「星涙症だそうです」
マルグリットの表情が、凍りついた。
星涙症。
その名を、彼女も知っていたのだろう。
古い物語に出てくる、不治の病。
涙が星屑のように光り、最後には星脈が止まる病。
「余命は、三ヶ月ほどだそうです」
私がそう告げると、マルグリットは彫像のように固まった。
しばらく、何の音もしなかった。
やがて、彼女の大きな瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ちる。
「嘘……嘘です。そんな、そんなこと……」
マルグリットは私の足元に崩れ落ち、ドレスの裾を握り締めた。
「あんまりです……! カミラ様が、何をしたというのですか! 自分の心を押し殺して、誰よりも立派に、王家のために尽くしてこられたのに……!」
彼女の声が震える。
「どうして、神様はこんな酷いことをなさるのですか……っ」
泣きじゃくるマルグリットの頭を、私はそっと撫でた。
不思議だった。
私の命が消えようとしているのに。
私自身よりも、彼女の方がずっと苦しそうに泣いている。
そのことが、悲しくて。
そして、少しだけ嬉しかった。
私の命を、こんなにも惜しんでくれる人がいる。
「泣かないで、マルグリット」
「泣きます……! 泣かない方がおかしいです!」
「そうね。あなたは、いつも私の代わりに泣いてくれるものね」
「代わりではありません! 私は、私が悲しいから泣いているのです!」
その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れた。
私は、小さく微笑む。
「ありがとう」
「お礼を言わないでください……そんな、そんな顔で……」
「私はね、少しだけホッとしているの」
マルグリットが涙で濡れた顔を上げる。
「もう、完璧な淑女を演じなくていい。殿下のために、自分を擦り減らすこともない。残りの三ヶ月は、私のための時間よ」
「カミラ様……」
「死ぬ前に、言えなかったことを伝えたいの」
ずっと、自分の感情に蓋をして生きてきた。
波風を立てないため。
公爵令嬢としての矜持を守るため。
王太子妃候補として、間違えないため。
飲み込んできた言葉が、無数にある。
「お世話になった人には、ありがとうを。不義理をしてしまった人には、ごめんなさいを。間違っていると思ったことには、間違っていると。嫌だったことには、嫌だったと」
もう、取り繕う必要はない。
「最後くらい、私の言葉で生きてみたいの」
マルグリットは涙を拭い、震える手で私の手を握った。
「……分かりました」
その声はまだ震えていた。
けれど、瞳には強い光が宿っている。
「どこまでもお供いたします。カミラ様の気が済むまで、私がすべてを手配いたします」
「ありがとう、マルグリット」
私は最初の清算の相手を、もう決めていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
私は、王都の端にあるノーランド男爵家の屋敷を訪れていた。
ローゼンベルク公爵家の屋敷と比べれば、ずっと小さく、質素な屋敷だ。
けれど窓辺には丁寧に手入れされた花が飾られていて、暮らしている人の誠実さが伝わってくる。
応接室に通されると、そこにはひどく怯えた様子のセシリアが立っていた。
私の姿を見るなり、彼女はびくりと肩を跳ねさせ、顔を青ざめさせる。
「カ、カミラ様……本日は、どのようなご用件で……」
声が震えていた。
無理もない。
婚約破棄された公爵令嬢が、自分から王太子を奪った男爵令嬢の家へ直接やって来たのだ。
怒鳴り込まれるか、平手打ちのひとつも飛んでくると思っていても不思議ではない。
私は静かにソファへ腰を下ろし、彼女にも座るよう促した。
「怯えなくて大丈夫です。あなたを責めるために来たのではありません」
セシリアは戸惑ったように目を瞬かせた。
「私は今日、あなたと話をしに来ました」
「話、ですか……?」
「ええ」
私は彼女を真っ直ぐに見た。
「私はフェリクス殿下とやり直すつもりはありません。だから、殿下を返してほしいと訴えに来たわけではありません」
セシリアの唇が震える。
私は続けた。
「ただ、あなたが本当に自分の意思であの方の隣に立っているのか。それだけは、確かめたかったのです」
「私の、意思……」
「フェリクス殿下は、私がどれほど冷たい女か、あなたに話していたのではありませんか?」
セシリアの顔が、さらに青くなった。
「……殿下は、カミラ様はいつも殿下を見下しているとおっしゃっていました。公爵家の権力を振りかざして、殿下を縛りつけていると。殿下は、本当の愛を知らずに苦しんでいるのだと……」
「そう」
「だから、私が殿下をお支えしなければと……殿下を癒せるのは、私だけなのだと、そう思って……」
セシリアの瞳に涙が浮かぶ。
「でも、違ったのですね」
私は何も言わなかった。
責める言葉を飲み込んだのではない。
今の彼女は、もう自分で気づきかけていたからだ。
セシリアは両手で顔を覆った。
「私、本当は……カミラ様にずっと憧れていました」
「私に?」
「はい。夜会で初めてお姿を拝見した時、なんて気高く、美しい方なのだろうと思いました。どんな嫌味を言われても動じず、常に凛としておられて。私のような田舎の男爵令嬢には、到底手が届かない、星のようなお方でした」
涙声で、彼女は続ける。
「だから、殿下が私に優しくしてくださった時、舞い上がってしまったのです。カミラ様よりも私を選んでくださったのだと……私の方が、必要とされているのだと……」
セシリアは震える声で息を吐いた。
「卑怯な優越感でした。カミラ様を傷つけていると分かっていたのに、目を逸らしました。ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
彼女は深く頭を下げた。
肩が小刻みに震えている。
私は、その姿を見つめた。
彼女は、完全な被害者ではない。
私を傷つけた側でもある。
けれど、悪女と呼ぶには、あまりに未熟だった。
自分の弱さを、ようやく直視している少女だった。
「セシリア様」
私は静かに声をかける。
彼女が涙に濡れた顔を上げた。
「私は、あなたを許すために来たのではありません」
セシリアの顔が、強張る。
「でも、あなたを恨むために来たのでもありません」
「カミラ様……」
「フェリクス殿下が、私を傷つけるためにあなたを利用したこと。それを、あなた自身にも知ってほしかったのです」
セシリアの瞳が揺れた。
「このままでは、あなたもまた、あの方の都合のいい道具にされてしまう。そう思いました」
私は、膝の上でそっと手を組んだ。
「セシリア様。あなたはまだ十七歳です。誰かに選ばれたかどうかで、自分の価値を決めるには早すぎます」
「……」
「誰かの愛を証明する道具ではなく、あなた自身のために生きてください」
私は、ゆっくりと告げた。
「あなたも、自分の人生を選んで」
その言葉に、セシリアは息を呑んだ。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて彼女は、震える手で涙を拭った。
「……私、殿下とお別れします」
「よろしいのですか」
「はい」
その声には、まだ不安が滲んでいた。
けれど、先ほどまでの怯えとは違う。
「自分がどれほど愚かだったか、ようやく分かりました。私は殿下を愛していたのではなく、殿下に選ばれた自分に酔っていただけです」
セシリアは、今度こそ真正面から私を見た。
「カミラ様。傷つけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「その謝罪は、受け取ります」
私は立ち上がった。
「けれど、これからどう生きるかは、あなた自身で示してください」
「はい」
セシリアは、深く頭を下げた。
私は屋敷を後にした。
一つ、清算が終わった。
胸の奥に沈んでいた重りが、少しだけ軽くなった気がした。
◇ ◇ ◇
その頃、王宮のフェリクス王太子の執務室は、嵐に襲われたような有様になっていた。
「殿下! 南部水害の復興支援金の決裁が降りておりません! このままでは、冬を前に難民が出ます!」
「東部辺境伯領との境界線問題、調停の期日は昨日までです! あちらの当主が激怒しております!」
「王都慈善院への寄付金目録ですが、不備があり差し戻されました!」
次から次へと駆け込んでくる文官や側近たちが、フェリクスの執務机に書類を積み上げていく。
フェリクスは血走った目でその山を睨み、苛立たしげに机を叩いた。
「ええい、うるさい! なんだこの量は! こんな細々とした案件まで、いちいち私のところへ持ってくるな!」
側近たちは、互いに顔を見合わせた。
筆頭文官が、疲れ切った表情で一歩前に出る。
「殿下。これらは、これまでカミラ様が整理してくださっていた案件です」
「カミラが?」
「はい。南部水害の復興支援金については、カミラ様が不足分を補うため、公爵家と複数の商会に事前交渉をしておられました。東部辺境伯領の境界線問題も、関係貴族への根回しはほぼ終わっておりました。慈善院の寄付金目録も、例年ならカミラ様が不備を修正した上で、殿下の決裁に回してくださっていたのです」
フェリクスの眉間に皺が寄る。
「……つまり、私の仕事ではなかったということだろう」
「いいえ」
筆頭文官は、ためらいながらも首を横に振った。
「本来は、王太子殿下のご裁可が必要な案件です。カミラ様は、殿下が最終判断をしやすいよう、すべて整えた上でお持ちしてくださっていました」
「……」
「これまでは、殿下の机に置かれる頃には、ほとんど問題が片づいた状態だったのです」
フェリクスは黙り込んだ。
彼が「説教くさい」と切り捨てたカミラの進言。
彼が「可愛げがない」と嫌った冷静な指摘。
彼が「細かい」と退けた確認事項。
それらはすべて、国を回すために必要な実務そのものだった。
カミラがいなくなった途端、王太子の執務は目に見えて滞り始めている。
フェリクスは初めて、カミラが無表情の裏でどれほどの仕事を背負っていたのかを突きつけられた。
しかし。
彼の肥大した自尊心は、自分の過ちを認めることを許さなかった。
「……なるほどな」
フェリクスは、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
そして、歪んだ笑みを浮かべる。
「私がセシリアを可愛がったものだから、嫉妬して、わざと私を困らせるために仕事を放棄したというわけか」
「殿下?」
「見え透いた真似を。私に自分の価値を思い知らせて、泣いて謝らせようという魂胆だろうが、そうはいかないぞ」
側近たちは困惑した顔を見合わせる。
だが、フェリクスの中では、完全に筋書きが出来上がっていた。
カミラは自分を愛している。
婚約破棄を受け入れたのも、強がりに過ぎない。
今頃、公爵邸で毎晩泣き明かし、自分が迎えに来るのを待っているに違いない。
それに、つい先ほど。
セシリアからも、一通の手紙が届いたばかりだった。
そこには、たどたどしい文字で、こう記されていた。
『殿下のお側にはいられません。私は、自分の人生を選びます』
理由もなく去ったセシリア。
仕事を放棄したカミラ。
フェリクスにとって、それらはすべて、自分に対する女たちの我がままだった。
「女というものは、どいつもこいつも面倒だな」
彼は吐き捨てるように呟く。
筆頭文官が、青ざめた顔で口を開いた。
「殿下。恐れながら、カミラ様を呼び戻すのであれば、正式な謝罪と、王家から公爵家への説明が必要です。先日の婚約破棄は、公的な場で行われたものですので――」
「黙れ」
フェリクスは鋭く言い放った。
「あいつは私に捨てられて、意地を張っているだけだ。私が迎えに行ってやれば、泣いて縋るに決まっている」
机の上に積まれた書類を睨みつけ、フェリクスは椅子から立ち上がる。
「迎えに行ってやる。あいつは、俺なしでは生きられない女なのだから」
彼はまだ知らない。
自分が捨てた女が、本当はあと三ヶ月の命であることを。
そして。
彼女がもう、自分のために一滴の涙も流さないことを。




