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第1話 余命三ヶ月と、婚約破棄

「――星涙症せいるいしょう、でございます」


 王宮の奥深くにある、特別診察室。


 分厚い扉に閉ざされたその部屋で、老医師グレアムは、絞り出すように病名を告げた。


 長年王家に仕え、数えきれないほどの病と向き合ってきたはずの人だ。

 その声が、わずかに震えている。


 窓の外では、春の陽光が庭園を明るく照らしていた。

 花々は咲き乱れ、名も知らぬ小鳥たちが、呑気な声でさえずっている。


 世界はこんなにも平和で、あたたかく、美しい。


 それなのに、私の身体に下された宣告は、あまりにも唐突で、残酷なほどあっけなかった。


「余命は……もって、あと三ヶ月ほどかと」


 私、カミラ・フォン・ローゼンベルクは、その言葉を静かに受け止めた。


 取り乱すことも、泣き叫ぶこともなかった。

 驚きより先に、奇妙な納得が胸の奥に落ちてきたからだ。


 ああ。

 やはり、そうだったのか。


 ここ数週間、ひどい目眩と、立っていられないほどの倦怠感が続いていた。


 夜になると胸の奥が冷え、指先から体温が抜け落ちていく。

 それだけではない。


 昨夜、こぼれ落ちた涙が、星屑のように淡い光を放った。

 シーツに落ちる直前、ふっと消えたその光を見た時から、嫌な予感はしていた。


 お伽話や古い文献にしか出てこない奇病。

 魔力の源である星脈が枯れ、最後には命ごと消えてしまう病。


「星涙症……。星脈が少しずつ枯れ果て、やがて完全に停止し、死に至るという不治の病ですね」


 自分のことなのに、確認する声はひどく事務的だった。


 グレアム医師は、痛ましげに目を伏せる。


「カミラ様。星涙症は、単なる魔力不足で起こる病ではございません」


「……違うのですか?」


「はい。これは、長年にわたり感情を極限まで抑え、ご自身の願いを殺し続けた者に起こる病です。身体そのものが、『生きたい』という願いを忘れてしまうのです」


 生きたいという願いを、身体が忘れる。


 その言葉を聞いた時、不思議なほど腑に落ちた。


 私は胸元にそっと手を当てる。


 規則正しく打っているはずの心音の奥で、確かな冷たさが広がっていた。


「治療法は、ないのですよね?」


「……現代の医学では、確立された治療法はございません。進行を遅らせる薬すら、存在しないのが実情です」


 グレアム医師は重々しく首を横に振った。


 けれど、次の瞬間。

 彼は、何かにすがるように、わずかな希望を口にした。


「ただ、古い記録には一例だけ、生還した例がございます」


「生還……?」


「星脈の波長が完全に適合する、強大な魔力保持者から継続的に魔力を譲渡されること。そして何より――患者ご本人が、心の底から強く『生きたい』と望むこと。その二つが揃った時、止まりかけた星脈が再び巡ったと」


 波長が合う者からの魔力譲渡。

 そして、私自身の生への執着。


 私は小さく息を吐いた。


 どちらも、今の私には遠すぎる条件だった。


 ローゼンベルク公爵家の令嬢として生まれ、王太子の婚約者として育てられた私に、命を削ってまで魔力を分けてくれる相手がいるとは思えない。


 それに。


 私自身が、心の底から「生きたい」と願えるのかどうかも、分からなかった。


「一刻も早く、ご家族や、婚約者であられる王太子殿下にご連絡を――」


「結構です」


 私は即座に言った。


 グレアム医師が、弾かれたように顔を上げる。


「カミラ様」


「少なくとも、今日だけはどなたにもお伝えにならないでください。これは、私からのお願いです」


「しかし、それではあまりに……」


「分かっています」


 私は静かに微笑んだ。


 公爵家の娘は、弱みを見せてはならない。

 王太子妃候補は、取り乱してはならない。

 常に正しく、美しく、穏やかでなければならない。


 そう教え込まれてきた。


 だから、最後くらいは。


「私の命のことを、私自身で決めたいのです」


 十八年間。


 物心ついた頃から、私は「完璧な王太子妃候補」になるためだけに生きてきた。


 礼法を骨の髄まで叩き込まれた。

 足から血が滲んでも、ダンスの練習を続けた。

 国の歴史、他国の法典、貴族名鑑、外交儀礼、税制、慈善事業の予算管理。


 覚えるべきことは、山ほどあった。


 王太子であるフェリクス殿下が投げ出した政務を、代わりに整えた。

 貴族間の泥沼のような派閥争いを、表情ひとつ変えずに調停した。

 予算の足りない孤児院や施療院のために、何度も寄付先を調整した。


 常に微笑みを浮かべること。

 王家のために尽くすこと。

 自分の感情を、誰にも見せないこと。


 それが私の役目であり、義務であり、存在価値のすべてだった。


 フェリクス殿下が、私の努力に一瞥もくれなかったとしても。

 労いの言葉ひとつ、かけてくださらなかったとしても。


 私は耐えるしかなかった。


 ――けれど、私は三ヶ月後に死ぬ。


 たった九十日で、この息苦しい人生は終わる。


 その事実が、信じられないほど、私の心を軽くしていた。


 どうせ死ぬのなら、もう取り繕わなくていい。

 誰かのために自分を擦り減らす必要もない。


「グレアム先生」


「はい」


「今まで、私の身体を診てくださってありがとうございました」


 私は、淑女として完璧な礼をした。


「残りの日々は、私が私のために使います」


 そう告げて、診察室を後にした。


 不思議なほど、涙は出なかった。



 ◇ ◇ ◇



 診察室を出て、屋敷へ帰る馬車を手配しようとした時だった。


「カミラ様!」


 慌てた様子の侍従が、回廊の向こうから駆け寄ってくる。


「フェリクス殿下より、至急、謁見の間へ参るようにとのお達しです」


 私は足を止めた。


 私的なサロンでも、執務室でもない。

 公的な場である、謁見の間への呼び出し。


 この時期。

 しかも、至急。


 用件は一つしか考えられなかった。


 最近、王宮内で囁かれている噂がある。


 フェリクス殿下が、ある可憐な男爵令嬢に熱を上げているという話。

 名は、セシリア・ノーランド。


 素直で、愛らしく、よく笑う少女だという。


「……分かりました。すぐ参ります」


 侍従に頷き、私は真っ直ぐ背筋を伸ばした。


 まるで運命が、私を嘲笑っているようなタイミングだった。


 けれど。


 今日という日に決着がつくのなら、それも悪くない。


 私は一度だけ深く息を吸い、豪奢な扉の前へ向かった。


 重厚な扉が開かれる。


 玉座の前に立っていたのは、見慣れた金髪の青年。

 私の婚約者である、王太子フェリクス殿下だった。


 そして、その隣には。

 彼の腕にすがるように立つ、愛らしい少女がいる。


 淡い桃色の髪。

 潤んだ大きな瞳。

 小鳥のように震える細い肩。


 セシリア・ノーランド男爵令嬢。


 彼女は私と目が合った瞬間、びくりと肩を震わせた。

 責められると思っているのだろうか。

 少なくとも、その怯え方は、計算されたものには見えなかった。


 謁見の間には、数人の側近や文官たちが立ち並んでいる。


 針を落とせば聞こえそうな静寂の中、私はドレスの裾を静かに捌いて進み出た。


 そして、一糸乱れぬカーテシーをする。


「お呼びにより参上いたしました、フェリクス殿下」


 私の声は、いつも通りだった。


 そのことが気に入らなかったのか、フェリクス殿下は露骨に眉をひそめた。


「カミラ。今日お前を呼んだのは他でもない」


「はい」


 フェリクス殿下は、私を見下ろした。


 かつては、その視線を受けるだけで、少しでも彼に認められたいと思ったこともある。


 今はもう、何も感じなかった。


「カミラ・フォン・ローゼンベルク」


 彼の声が、広い謁見の間に響き渡る。


「私は、そなたとの婚約を本日をもって破棄する!」


 予想通りの言葉だった。


 私は微かに瞬きをしただけで、反論も悲鳴も上げなかった。

 ただ静かに、次の言葉を待つ。


 その無反応が気に障ったのか、フェリクス殿下の声に苛立ちが混じった。


「お前はいつもそうだ。私が何を言っても、氷のように冷たい。可愛げというものが欠片もない」


「……」


「王太子妃として必要なのは、優れた頭脳だけではない。民に寄り添う温かさだ。お前のような鉄面皮の女に、私の妃が務まるはずがない!」


 隣で、セシリアが青ざめた。


「殿下、そのような言い方は……カミラ様がお可哀想です」


 小さな声だった。

 本当に困っているようにも見えた。


 けれどフェリクス殿下は、彼女の肩をこれ見よがしに抱き寄せる。


「見ろ、セシリアを。彼女は素直で、心から私を慕ってくれている。私が疲れている時、説教をするお前とは違い、ただ優しく私を癒してくれる」


 説教。


 そう呼ばれたものの中には、締め切りの過ぎた王宮文書を処理してくださいという進言もあった。

 災害復興費を狩猟大会の予算に回さないでくださいという忠告もあった。

 孤児院への補助金を削れば、冬を越せない子どもが出るという説明もあった。


 すべて、説教だったらしい。


「セシリアのような素直で可愛い娘こそ、私の妃にふさわしいのだ!」


 公衆の面前での、一方的な婚約破棄。

 新しい恋人の宣言。

 私への侮辱。


 これまでの私なら、公爵家の威信を守るため、王家との均衡を保つため、言葉を尽くして彼を諫めていただろう。


 フェリクス殿下自身も、きっとそれを望んでいたのだ。


 私が泣いて縋るか。

 激昂してセシリアを責めるか。

 あるいは、必死に理を並べて、この婚約破棄がいかに危ういかを説くか。


 彼の瞳には、そんな期待が透けていた。


 さあ、どうする。

 惨めな姿を見せてみろ。


 そんな声が聞こえてくるようだった。


 けれど。


 今の私には、彼に縋る理由がなかった。

 公爵家を守る未来も、王太子妃として耐え続ける明日も、もう存在しない。


「……分かりました」


 私は、静かに微笑んだ。


「謹んで、婚約破棄をお受けいたします」


 その瞬間。


 フェリクス殿下は、完全に虚を突かれた顔をした。


「……は?」


「長年のご厚情、感謝申し上げます。フェリクス殿下、セシリア様。どうか、末永くお幸せに」


 怒りも、恨み言も、未練もない。


 私が淡々と礼をすると、見届け人として立っていた文官たちまで、言葉を失った。


 フェリクス殿下の顔が、みるみる赤く染まっていく。


「お、お前……! 強がるのも大概にしろ!」


「強がりではございません」


「本心では泣き叫びたいのだろう!? この私から捨てられるのだぞ!?」


 子どもの癇癪のような声だった。


 自分の筋書き通りに動かない私が、よほど気に入らないらしい。


 私は静かに首を振った。


「いいえ。むしろ、心の底から安堵しておりますわ」


「なんだと……?」


 フェリクス殿下の声が低くなる。


 けれど、もう怖くなかった。


 私は顔を上げた。

 これまで一度も、彼に向けたことのないほど穏やかな気持ちで。


「殿下。最後に一つだけ、お伝えしてもよろしいでしょうか」


「……今更謝罪して縋ろうとしても、もう遅いぞ」


 相変わらずだ。


 自分が許す側で、私が縋る側だと信じて疑わない。


 私は小さく息を吸った。


「実は私、一度だけ、王宮でお菓子を食べた夕暮れが、人生で一番幸せでした」


 フェリクス殿下が、わずかに息を呑む。


 思い当たる記憶を探しているのだろう。

 けれど、彼が思い出せるはずがない。


 あれは、彼との思い出ではないのだから。


 セシリアも、驚いたように私を見つめていた。


「どうか、セシリア様とは、そういう温かい時間を紡いでくださいませ」


 私はもう一度、深く礼をした。


「それでは、私はこれで失礼いたします」


 踵を返す。


 背後から、フェリクス殿下の声が飛んできた。


「おい、カミラ! 待て! 話はまだ終わっていない!」


 終わっている。


 私の中では、もうとっくに。


 私は一度も振り返らなかった。


 謁見の間を出て、長い回廊を歩く。


 重い足枷が外れたようだった。

 肩に乗っていた見えない重圧が、嘘のように消えていく。


 残り三ヶ月。


 私は、私のために生きよう。

 死ぬ前に、言えなかった本音を、すべて伝えるために。


 そう決めた、その直後だった。


 ――ぐらり。


 視界が不自然に歪んだ。


 立っていられないほどの目眩が、私を襲う。


 無意識のうちに張り詰めていた緊張の糸が切れたのかもしれない。

 星涙症の症状が、急激に身体を蝕み始めていた。


 指先から温度が失われる。

 胸の奥が冷たい。

 息が、うまく吸えない。


「あ……」


 足から力が抜けた。


 冷たい大理石の床が、ぐんと近づいてくる。


 こんなところで倒れては駄目だ。

 誰かに見られてしまう。


 そう思った瞬間。


 叩きつけられるはずだった床の代わりに、強靭で、それでいてひどく温かい腕が、私の身体を抱きとめた。


「――っ」


 革と、微かな鉄の匂い。


 驚いて顔を上げる。


 そこには、漆黒の軍服に身を包んだ、背の高い青年がいた。


 夜の闇のような黒髪。

 すべてを吸い込むような黒曜石の瞳。

 一切の感情を読み取らせない、美しいほど無表情な顔。


 王属特務騎士隊長。

 ルキウス・ヴァン・オブシディアン辺境伯。


 戦場で敵を冷徹に討ち取る姿から、「死神騎士」と恐れられる人だった。


「……カミラ嬢」


 低い声が、私の名前を呼んだ。


 その響きに、胸がわずかに震える。


 彼は私を、「公爵令嬢」とも「王太子妃候補」とも呼ばなかった。

 ただのカミラとして、呼んだ。


 それだけのことが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。


「ルキウス、様……どうして、あなたが……」


 問いかけようとした途端、頬を一筋の涙が伝った。


 その雫は、床に落ちる前に淡く光る。

 小さな星屑のように。


 ルキウス様の黒曜石の瞳が、かすかに揺れた。


 彼は、星涙症の兆しを知っているのだ。


「……駄目だ」


 ルキウス様は、私を抱きとめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。


 強い腕だった。

 けれど、乱暴ではなかった。


 絶対に落とさないという意志に満ちていて、それでいて、壊れ物に触れるように優しい。


 普段は恐ろしいほど無表情な彼の瞳の奥に、隠しきれない焦燥がある。

 私の痛みを、自分のもののように感じているような、切実な色があった。


「――あなたは、まだ死んではいけない」


 静寂の回廊に落ちたその言葉は。


 冷え切っていた私の胸の奥を、ひどく熱く、焦がしたのだった。

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