第5話 死ぬ前に言えなかったこと
グレアム医師から「余命三ヶ月」と宣告されたあの日から、ちょうど三ヶ月。
王宮の夜会で倒れた私は、ルキウス様に抱えられ、急ぎ公爵邸へ運び込まれた。
春の始まりに告げられた命の期限は、あまりにも正確に、私の前へ立ちはだかっていた。
私の身体は、氷のように冷え切っている。
呼吸は浅く、胸の奥では、ひび割れたような鈍い痛みが続いていた。
視界はぼやけ、耳元では自分の心音だけが、ひどくゆっくりと響いている。
どくん。
どくん。
今にも止まりそうな、頼りないリズム。
星脈が、完全に停止しかけているのだ。
「カミラ嬢。頼む、少しでも引き込んでくれ」
ベッドの傍らで、漆黒の夜会服を乱したルキウス様が、私の両手を固く握り締めていた。
彼の顔には、汗が伝っている。
夜会で私が倒れてからずっと、彼は自分の魔力を注ぎ続けてくれていた。
その魔力の温かさは、確かに私の中へ流れ込んでいる。
けれど。
「……駄目だ。魔力が、星脈に定着しない……っ」
ルキウス様が、ひどく焦燥した声で呻いた。
彼から注がれた魔力は、まるで底の抜けた器に水を注ぐように、私の身体を素通りしていく。
温かさは一瞬だけ灯り、すぐに霧のように散ってしまう。
ベッドの足元で診察を続けていたグレアム医師が、重い顔で首を横に振った。
「ルキウス様。もう、魔力譲渡だけでは足りません」
その声は、痛ましいほど低かった。
「以前にも申し上げた通り、星涙症は魔力不足の病ではございません。患者本人が心の底から生を望まなければ、星脈は戻らないのです」
グレアム医師の言葉に、ルキウス様が息を呑む音が聞こえた。
私は、重い瞼をわずかに開ける。
ルキウス様が見えた。
いつもの、恐ろしいほど無表情な「死神騎士」の面影はどこにもない。
そこにいたのは、大切なものを失う恐怖に顔を歪めた、一人の不器用な青年だった。
「ルキウス、様……もう、大丈夫、です」
かすれる声で、私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は、もう……十分、幸せ、でした」
言いたかったことは、言えた。
謝りたかった人には、謝ることができた。
感謝したかった人には、ありがとうを伝えられた。
フェリクス殿下にも、長く飲み込んできた本音を告げられた。
公爵令嬢として。
王太子妃候補として。
自分を殺し続けてきた冷たい鎖は、もう何一つ残っていない。
そして何より。
私の最期に、こんなにも私のために必死になってくれる人がいる。
それだけで、十分だと思った。
「これ以上、あなたのお命を、削るようなことは……」
私が微かに微笑んで、諦めの言葉を口にした、その瞬間だった。
「ふざけるな!」
鼓膜を震わせるほどの怒鳴り声が、部屋に響いた。
私は驚いて目を見開く。
ルキウス様が、初めて取り乱していた。
彼は私の手を握り締めたまま、ベッドに額をこすりつけるようにして、肩を震わせている。
「ふざけるな……。言いたいことを言って、自分だけ満足して、それで終わりにする気か」
「ルキウス、様……」
「俺はどうなる」
絞り出すような声だった。
「俺は、ずっと君を見てきた。君が笑う日を、君が心から幸せだと言える日を、ずっと待っていたんだ」
ルキウス様が顔を上げる。
その黒曜石の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「俺を置いていくな」
ひどく脆い声だった。
死神騎士と呼ばれた人が。
誰よりも強いと思っていた人が。
私の手を握って、泣いていた。
「やっと君が、自分の言葉で話せるようになった。やっと君が、誰かのためではなく、自分のために笑えるようになった」
ルキウス様の声が震える。
「なのに、ここで終わりにするな」
「……」
「俺は、君を思い出にしたいわけじゃない」
その言葉が、私の胸を貫いた。
「俺は、君と生きたいんだ」
その涙を見た瞬間。
私の胸の奥で、ひび割れていた何かが、完全に砕け散った。
――いやだ。
私は、この人をこんなふうに泣かせたかったわけじゃない。
綺麗に死んで、彼の中で「美しい思い出」になりたかったわけじゃない。
すべてを清算して、満足して消えたかったわけでもない。
違う。
そんなのは、ただの諦めだ。
私が死ねば、もう二度と、ルキウス様に会えない。
彼の手の温かさを感じることも。
低い声で名前を呼ばれることも。
隣に並んで、朝食のテーブルにつくことも。
日向の匂いがするシーツに並んで座り、誰かへ宛てた手紙を書くこともできない。
春の陽射しが降り注ぐ庭を、一緒に歩くことも。
温かくて甘い焼き菓子を、半分に割って笑い合うことも。
永遠に、できなくなる。
そんなのは、いやだ。
死ぬのが怖い。
彼の手を離すのが怖い。
もっと一緒にいたい。
彼の隣で、生きたい。
私の身体の奥底で、長い間忘れ去られていたものが、熱を持ち始めた。
生への執着。
それは、綺麗な感情ではなかった。
もっと欲しい。
まだ終わりたくない。
この人の隣にいたい。
子どものようにわがままで、みっともなくて、切実な願いだった。
けれどその願いこそが、私の星脈に必要なものだった。
胸の奥で、かすかに火が灯る。
痛みで塞がっていた肺に、空気が流れ込んだ。
私は、ルキウス様に握られた手を、ありったけの力で握り返した。
そして、生まれて初めて、腹の底から声を振り絞る。
「死にたくありません」
部屋の空気が震えた。
「ルキウス様。私は、あなたと生きたい」
その言葉が響いた瞬間。
私の身体の奥で、カチリと、止まっていた歯車が噛み合う音がした。
ルキウス様から注がれ続けていた膨大な魔力が、初めて行き場を見つける。
霧散していた温かさが、星脈の隅々にまで流れ込む。
胸の奥で、細い光が巡った。
一筋。
二筋。
やがてそれは、枯れた川に春の雪解け水が戻るように、全身へ広がっていく。
目尻から涙がこぼれ落ちた。
けれど、その涙はもう、星屑のように光らなかった。
それは、ただの温かい、透明な涙だった。
「カミラ嬢……」
ルキウス様が目を見開く。
次の瞬間、彼の顔が、すべてを安堵したように歪んだ。
「なら、生きろ」
彼は私の手を強く握り返す。
「俺の隣で、何度でもわがままを言え」
「……はい」
「腹が減ったと言え。疲れたと言え。寂しいと言え。怒った時は怒れ。欲しいものがあるなら欲しいと言え」
ルキウス様の声が、涙で濡れていた。
「俺は、君の本音を聞くために生きている」
彼は私を抱き寄せ、その広い胸の中に、きつく、きつく閉じ込めた。
彼の心音が聞こえる。
私の心音も、聞こえる。
二つの音が、重なっていく。
枯れ果てていた私の星脈が、ルキウス様の魔力と混ざり合い、力強く脈を打ち始めた。
不治と呼ばれた星涙症が、初めて覆された瞬間だった。
◇ ◇ ◇
それから、半年後。
王都から遠く離れた、オブシディアン辺境伯領。
一年を通して穏やかな風が吹き、豊かな森と黒曜石の山々に守られたこの地で、私は新しい生活を送っていた。
「カミラ様、お茶の準備が整いました」
テラスのテーブルに、マルグリットが湯気を立てるティーカップを置いてくれる。
彼女は今も、私の専属侍女として、そして何より頼れる姉妹のような存在として、そばにいてくれている。
「ありがとう、マルグリット。あ、そうだわ。今日、セシリア様から手紙が届いたの」
私は、テーブルに置かれた封筒を手に取った。
セシリアはあの日、宣言通りフェリクス殿下の元を去った。
今は実家の男爵領へ戻り、領地経営の勉強をしながら、自分の足で歩くための道を探しているという。
手紙の文字は、以前よりもずっとしっかりしていた。
『いつか、誰かに選ばれるためではなく、自分で選べる人間になります』
その一文を読んだ時、私は少しだけ笑った。
セシリアも、前へ進んでいる。
一方、フェリクス殿下は。
あの日、王太子の座を廃された彼は、枢密会議を経て、東の離宮で厳重な監督下に置かれることになった。
彼にすり寄っていた取り巻きたちも一掃され、今では限られた使用人だけを相手に、静かな日々を送っていると聞く。
けれど、今の私にとって、それはもう遠い異国の出来事のようだった。
彼を憎む気持ちも、哀れむ気持ちもない。
ただ、私の人生にはもう関係のない人になった。
それだけだった。
「お待たせ」
背後から低い声がして、私は振り返った。
執務の合間を縫って、黒い軍服姿のルキウス様がテラスへやって来る。
私の婚約者であり、もうすぐ正式に夫となる人。
彼は自然な動作で私の隣の椅子を引き、腰を下ろした。
「執務はもうよろしいのですか?」
「ああ。君と茶を飲む時間くらいは作れる」
「お忙しいのに」
「忙しくても作る」
当然のように言われ、私は思わず笑ってしまった。
ルキウス様は、マルグリットが用意してくれた皿へ視線を落とす。
そこには、少し不格好だけれど、甘くて良い匂いのする焼き菓子が並んでいた。
私がマルグリットに教わりながら、今朝焼いたものだ。
「焦げているな」
「……最初に言うことがそれですか?」
「だが、美味そうだ」
ルキウス様は焼き菓子を一つ手に取ると、真ん中で半分に割った。
そして、その片方を私の手へ乗せてくれる。
四年前の夕暮れと同じように。
けれど今度は、私は一人ではない。
「美味しいか?」
「まだ食べていませんわ」
「そうだった」
私たちは顔を見合わせ、同時に焼き菓子を口に運んだ。
素朴な甘さが、口いっぱいに広がる。
少しだけ焦げている。
形も不格好だ。
けれど、私がこれまで食べたどんな菓子よりも、温かくて、愛おしい味がした。
「……美味しいです」
「なら、また作ってくれ」
「ええ。何度でも」
穏やかな風が、庭の木々を揺らしている。
私の手は、もう冷たくない。
今は自分の星脈の力で、確かに温かい。
これからも、私はルキウス様と一緒に朝食を食べる。
手紙を書く。
庭を歩く。
焼き菓子を半分に分ける。
そして、言えなかった言葉を、何度でも伝えていく。
だって、私は生きているのだから。
私はルキウス様の方へ身を寄せ、その大きな手をそっと握った。
「ルキウス様」
「なんだ」
「愛しています」
言葉にした瞬間、胸の奥があたたかく満ちた。
ルキウス様は、少しだけ目を見開いた。
それから、私の手を包むように握り返す。
「……俺もだ」
たった一言。
けれど、その声は、春の陽射しよりもあたたかかった。
死ぬ前に言えなかった言葉は、これから続く時間の中で、何度でもあなたに伝えます。
――愛しています、ルキウス様。




