96.柿ノ木龍前
東ノ庄の周囲には、親東ノ庄と言われる庄がいくつか存在している。
しかし、神都軍による東ノ庄の制圧後、それらの庄は神都側による迫害を受け続けていた。
年貢や祈祷札の値上げに加え、決定的だったのは庄長家の子女を神都に人質として差し出すようにとの命令であった。
親東ノ庄の各庄は怒り心頭に達し、とうとう神都に反旗を翻した。
しかし、それこそが大神官冬芽橘樹の狙いであった。
「東ノ庄に従う庄を根絶やしにせよ」
神都軍が南ノ庄に遠征している中、この作戦には大神官直属の軍である、大神官軍が差し向けられた。この大神官軍を指揮していたのは、大神官軍長官、柿ノ木龍前であった。
親東ノ庄連合軍は、普段は農作業や狩りをしている民兵を中心とした二百名ほど。それに対し、大神官軍は職業軍人である精鋭一千。当初、柿ノ木はたやすい任務だと考えていた。
しかし、連合軍はまともに大神官軍と戦わず、夜襲、奇襲や輜重への攻撃など、ゲリラ戦術に特化して、大神官軍を翻弄していた。
そんな時に届いたのが、菊姫による橘樹への反乱である。
柿ノ木の部隊は、確かに大神官直属の軍という位置づけではあったが、実際は橘樹の私兵である。大神官が菊姫になったからと言って、菊姫に従う気はさらさらなかった。
しかし、撤退ほど戦にとって難しいものはない。
ここで下手に撤退すれば、ゲリラ戦の餌食になるのは明らかだ。
そんな逡巡する柿ノ木の背後に進軍してきたのが、時姫の軍であった。
名目上は、第三神官波姫配下の時姫と、大神官が橘樹から菊姫に代わったとは言え、大神官直属の大神官軍は味方同士だ。
しかも時姫の軍は、大神官軍の援軍という名目で派遣されていた。
時姫の軍は柿ノ木と合流する前に、背後に布陣した。それ以降、連合軍の動きが明らかに変わった。いつのまにか柿ノ木の軍は、時姫の軍と連合軍に挟撃される形になっていた。
柿ノ木は、従わなければ殲滅するぞと言う、時姫からの明確なメッセージだと理解した。
血気盛んな若い部下が柿ノ木に進言する。
「時姫様は僅か百名ほどの兵しか率いておりません。不意を襲って一蹴してしまいましょう」
「お前は時姫のことを知らないからそういうことを言えるのだ」
柿ノ木は以前、神都で行われた戦術の勉強会における、時姫との兵棋演習(駒を兵に見立てた模擬戦)で、十回戦ってすべて圧敗だった。まるで勝てる気がしなかった。せめて剣術で負かしてやろうと臨んだ試合では、気がついたら意識を失っていた。時姫の木刀の軌道すら見えなかった。
「自分より強い奴に負けないために、どうすれば良いか知っているか。戦わないことだ」
そう言って、柿ノ木は廻目に笑われた。
廻目は兵棋演習はおろか木刀を用いた練習試合であっても、決して時姫と戦おうとはしなかった。
自分よりはるかに強い廻目が、時姫と戦おうとしない事実が、柿ノ木に時姫への恐れをさらに植え付けた。
大神官軍の陣地に悠然と訪れた時姫の兵を見た時、柿ノ木はすぐに理解した。
(これは兵ではない。すべて将官クラスだ。しかもどれも恐ろしく強い。千の兵くらいでは一時間も持たないだろう)
柿ノ木に会うと、時姫は隠すこともせずに言った。
「私はこれから連合軍と組み、神都を制圧します。一緒に来ますか。来るなら橘樹様の命だけは保証します」
「来ないと言ったら」
「皆殺しです」
そう言った時姫は、いつの間にか柿ノ木の首筋に刀を当てていた。
(……全く見えなかった)
柿ノ木は、自分が何を言おうが時姫は目的を成し遂げるだろうと思った。
だとしたらせめて、橘樹様の命だけは守りたい。
「分かった。我々は橘樹様の軍だ。橘樹様の命を保障してくれると言うなら協力しよう」
「ご協力感謝します」
時姫は刀を鞘に納めると、そう言って柿ノ木に一礼した。
『自分より強いやつとは戦わないことだ』
柿ノ木は廻目の言った言葉を思い出した。
(違う、廻目だから戦わないことを選択できるのだ。俺には……選択肢すらない)
柿ノ木の部下に、早くも時姫が次々と指示を出している。いまのやり取りを見ていた部下が、素直に時姫の指示に従っている。
(だが、俺は橘樹様だけはお守りする)
自分がまだ何者でもない時から目をかけてくれた、橘樹様の恩に何としても報いたい。
廻目にも、時姫にも自分は敵わない。ずっと憧れていた。いつかは彼らのようになりたいと。でも分かっていた。自分と彼らの間には、決して越えられない壁がある。彼らは一流で、自分はどこまで行ってもせいぜい二流にしかなれない。そんな二流の自分に期待してくれた橘樹様に、報いることだけは譲れない。二流には二流の矜持があると、柿ノ木龍前は前を向いた。
☆ ☆ ☆
ベッドの中で、北山の腕に抱かれながら久禮は言った。
「北山様、多比人様達、結婚したそうですよ。楓から手紙が来ました」
「……そうかい。それは良かったね。なかなか進展しないから、どうなることかと思ったよ」
「北山様は、いろんな女性とすぐに進展しすぎです」
「久禮、おまえのように心を許せるまで進展できる女性はいないよ」
「もう! いつも調子の良いことをおっしゃる!」
そう言って久禮は北山の腕を甘噛みする。
「あはは。そう言えば多比人さん達、神都にとうとう攻め入るそうだね」
「はい。神都からは援軍の依頼が、北ノ庄に矢のように来ています」
「普通に考えれば多比人さん達の勝ちだね。ただ、愛姫様だけは未知数だ。最後まで分からない」
「そう言われるだろうと思い、神都には援軍を準備中と伝えました」
「いいね。たっぷり時間をかけて準備してね」
「はい。そう言えば私も準備が必要なようです」
「準備?」
「出産準備です」
「……」
「北山様、あなたの赤ちゃん、授かったみたいです」
「へ、へぇ~。うれし~な~。あははは……」
「私、第一夫人の座を朔姫様から奪う気なんて毛頭ございません。第二夫人で結構です」
「あ~、そうなんだ~。」
「北山様から朔姫様にお話しして頂けますか。うふふふふふ」
北山は、安全圏にあると思っていた北ノ庄に、危機が訪れつつあるのを知った。
完全に自業自得だった。




