91.菊姫の乱
西風の強い夜だった。
神都が寝静まる午前二時。大通りを甲冑に身を固めた兵士達が通り過ぎていく。
神館に通りを挟んで接する大神官の館を、兵士達が取り囲む。
大神官の館の正門が、内側から静かに開けられると、一斉に兵士達がなだれ込んだ。
その頃、大神官冬芽橘樹は寝所で横になっていた。しかし、いろいろなことを考えていたら眠れなくなり、布団の中で考えことをしていた。
(自分は娘達の育て方を間違ったのだろうか)
橘樹はまだ神館の下級女官をしていた若かった頃を思い出していた。下級官吏をしていた夫と乳飲み子との三人での暮しは、貧しくはあったが幸せなものだった。
それが崩壊したのは、春姫によって愛姫様が討ち取られてからだった。
神館は民衆によって破壊され、神館に勤めていた者は、高官や女官は言うに及ばず、身分の低い橘樹のような者まで民衆の攻撃の対象になった。
高官や女官、官吏までも磔にされた。神館から逃げるように出て行った身分の低い者達は、その際に民衆から石を投げられた。
橘樹の夫は磔にされ、まだ乳飲み子だった娘は民衆に投げられた石が当たって死んだ。
娘はまだ生まれて一か月だった。
あの小さな手が自分の指を握る感覚が忘れられない。
大切な家族を橘樹は失った。
思えば橘樹のこれまでは、その失った大切なものを取り戻そうと足掻いていただけだったのかもしれない。
神館で働いていたという過去を隠し、各地を乞食のように彷徨った。
集団で男達に乱暴されたこともある。
誰の子か分からない長男を産んだのもその時だ。
死にたいと彷徨った暗い森の洞窟で、生きていれば自分の娘と同じ年頃の愛姫様と出会ったこと。それから愛姫様と各地を回り、人の病を治したり、豊作を祈願したり、雨を降らせたりしたこと。そして夫と出会い、三人の娘を産んだこと。
死んだ娘にさせてあげられなかったことを、三人の娘には精いっぱいしたつもりだ。
三人の娘のために、大神官になり、神館を造り、神都をここまで発展させた。
そのことが却って、娘達にさみしい思いをさせてしまったのだろうか。
夫ももういない。
橘樹は誰にもその悩みを相談することも出来ず、眠れぬ夜を過ごしていた。
(神界で位人臣を極めたというのに、悩みを相談する相手一人いないとは)
自分自身に橘樹は失笑してしまった。
その時だった。
「大神官様! お逃げください! 謀反にございます!」
女官がそう叫びながら寝所に飛び込んできた。
「謀反? 誰だ!」
「紫の旗にございます!」
女官の声に橘樹は耳を疑った。
紫は第一神官の色。つまり、自分の長女、菊姫だった。
甲冑を鳴らして兵士達が橘樹の寝所に押し入って来た。
「大神官様、大変申し訳ありませんが、命により連行させていただきます」
「雅姫か……ということは、やはり菊姫か」
完全武装をした第一神官菊姫の直参家臣、雅姫が一礼する。
「御免!」
「我に触れるな! 自分で歩ける」
自分を拘束しようとする兵士達を一喝し、橘樹は自ら雅姫の後について歩き出した。
翌朝、神館の主だった高官や女官が政庁に集められた。
大神官の席には、金の縁取りがされた大神官の巫女服を着た菊姫が座っていた。左手には大神官の証、金の腕輪が光る。
「お母様ではこの未曽有の国難に対処できぬ。よって今日からわたしが大神官としてこの神界を治めます」
政庁は菊姫の兵によって占拠されていた。
高官や女官が平伏する。
「本日より第一神官を波姫。第二神官を雅姫、第三神官を時姫、第四神官を利姫とします。その他は追って沙汰をします」
平伏していた者達は菊姫のその言葉を聞いて、橘樹と一緒に住む波姫が、菊姫の兵を引き入れたことを理解した。
次女の毬姫と第四神官の大町柳木は、ともに菊姫の軍によって拘束され、牢に入れられた。
「さあ、新しい国づくりを始めるのです!」
菊姫が満面の笑みを浮かべてそう宣言した。
我が世の春を謳歌する菊姫が神界に号令をかけていた頃、神館内で橘樹は軟禁されていた。そして軟禁先には先客がいた。
「……さすがに何というか……お気の毒なことだ」
「まさか自分が軟禁していた鷹姫、お前のところに私が軟禁されるとはな……」
「まあ、茶でも飲め。お茶菓子もあるぞ」
「……そんなもの食う気もないが……お茶は頂こう」
鷹姫と橘樹が仲良く炬燵に入ってお茶を飲んでいると、やけに甲高い声が聞こえた。
「橘樹様! 鷹姫様! 今日からこの真喜野樽彦、ボキがあなた様方のお世話係をさせていただきます! こいつは副官の杏! よろしくです! フヒャフヒャフヒャ」
茶髪に背の低いぽっちゃりした男が、胸を張って自己紹介していた。




