87.もっちゃんの回想 3
倒れている待姫の体から、どんどん血が広がっていく。
呆然としている私に、何者かが耳元で話しかける。
「すまないっす。ほんとに申し訳ないっす。その神札、待姫のために使わせてもらってもいいっすか」
ゆっくりとわたしが振り返ると、貧相な顔の男が立っていた。
にいっと笑う。
笑った顔も貧相だ。
「俺の力もだいぶ無くなったってきたっす。あの神札を造るには、もう数か月かかるっす。待姫はうちの大事な氏子の一人娘っす。助けて欲しいっす」
私はこの男が何を言っているのか今一つ分からなかったが、分かっていることが一つあった。
ここで待姫に神札を使って助ければ、私の大切な華姫は助からないということだ。
だからと言って、待姫をこのまま見殺しにすることなんて出来るのだろうか。そもそも待姫がいなかったら神札を買うことすら出来なかった。スリからも助けてもらった。
「お願いっす。たぶん華姫は今回は大丈夫っす」
もう一度その貧相な男の顔をまじまじと見る。どうしてこの男が華姫のことを知っているのだ。
「……ボ……ボクは大丈夫だから……きみの大切な娘を助けてあげて……」
息も絶え絶えに、待姫が私にそう言った。
きっとこの人を見殺しにしたら、私はもう二度と華姫に逢う資格などないだろう。
「神札の使い方を教えてください」
「恩に着るっす」
私はその男に言われた通り、神札を水に濡らして待姫の肌に張り付けた。実際には水ではなくて、あふれる待姫の血を使った。
するとどうだろう。見る見るうちに傷がふさがり、カランという乾いた音を立てて刀が待姫の体から抜けた。
凄まじいまでの神札の力だ。
待姫は静かな寝息を立てて寝てしまっていた。
気づけば先ほどの貧相な男はいつの間にかいなくなっていた。
☆ ☆ ☆
その日の夜遅く、神界南部では最大の庄である、月見ノ庄の庄館へと待姫を送り届けた。待姫は、月見ノ庄の庄長の一人娘だった。東ノ庄の華姫と同じような立場だ。ひょっとしたら華姫の知り合いだったのかもしれない。
見捨てなくて本当によかったという思いと、華姫のための神札を使ってしまったという後悔が交錯する。
『たぶん華姫は今回は大丈夫っす』
あの貧相な男の言葉につい縋ってしまう自分がいる。
ぜひお礼をさせてくれという月見ノ庄の庄長の言葉を丁重に断り、私は何も持たずに東ノ庄へと馬を走らせた。
数日後、東ノ庄に着くと、驚くことに華姫の体調は持ち直していた。
何故あの貧相な男はこのことが分かったのだろう。
先祖伝来の刀を売り払ったことを、母にはこっぴどく怒られることを覚悟していた。
「あれはお前にあげたんだから、お前の判断でどう使おうが文句は言わないよ。まあいいじゃないか、過去の栄光に縋るのもそろそろ期限切れだったのかもねえ」
母はそう言って笑っていたが、私には分かる。相当残念がっているはずだ。
床から起き上がれるようになった華姫に笑って欲しくて、私の今回のバカな行いを正直に話したら、華姫は突然私を抱きしめた。
「もっちゃんありがとう。わたしのために頑張ってくれたんだね」
「でも、結局何も出来なかったよ。空回りして、母の大切な刀を売っぱらってしまっただけだよ。おかしいだろ」
「ううん。全然おかしくない。しかも、その待姫様のことをもっちゃんは見捨てなかった。なかなか出来ることじゃないよ。みんな自分のことで精一杯。自分のことが一番大切だよね。でも、もっちゃんはそうじゃない。他人のことをほっておけない人。だからわたしはもっちゃんのことが大好きなの」
「……華姫」
華姫が私の顔を見る。顔が涙で濡れている。
「わたしはもっちゃんのことが好き。今回、死にそうになって夢の中で思ったの。もっちゃんと一緒にならないで死ぬのは嫌だって」
「……僕でいいの……」
「わたし、わがままでごめんね。わたしの残された時間はもう短いかもしれない。もっちゃんのこと、幸せに出来ないかもしれない。でも、一緒にいたいの。どうしても一緒にいたいの」
私は心の底から嬉しかった。
「僕も君と一緒にいたい。君の時間がどうかなんて関係ない。君と一緒にいられたらそんなことどうだっていい。君といる一瞬一瞬が僕にとっては永遠だよ」
私と華姫は、その日初めて口づけを交わした。
☆ ☆ ☆
私と華姫が、華姫の母親である鷹姫様のもとにいくと、鷹姫様はあっさりと結婚を許可してくれた。
「二人が好き合っているのなら、それでよい」
私はいまだに鷹姫様が苦手だ。
あまり感情的になることはなく、理に沿った冷静な人だと皆は言う。
しかしそうとは思えない。
この人はずっと人というものが許せないのだろう。
これは私の推測だが、自分の敬愛する姉、春姫様が神界から去らねばならなくなったこと、そう仕向けた民衆、人間のことをずっと許せないでいるのだと思う。
だから人に何も期待しないし、何も求めない。ただ、こうすればこう動くだろうという計算があるだけだ。人に対して諦めてしまっている。
まあ、そのおかげで何のとりえもない私が華姫の夫となることを許可してくれたのだから、何も言えないところではあるのだが。
結婚し、体調が安定してきた華姫は、鷹姫様の後を継いで庄長になった。
そうは言っても、相変わらず鷹姫様がサポートしてくれていた。
「神界全体が良くならずして東ノ庄の繁栄はありません」
そう主張する華姫に対して、鷹姫様は冷淡だった。
「何故東ノ庄が神都の尻拭いをせねばいかんのだ。そういうことは、東ノ庄とその周りの庄を盤石のものにしてから言いなさい」
庄長とは言っても、病気がちで時々は休まざるを得ない華姫にとって、鷹姫様の意向を無視して方針を決めることは難しかった。
今思えば、この時にもう少し華姫が言ったように事を進めていれば、神界の多くの庄が橘樹様のものとなることを防ぎ、結果的に東ノ庄も神都に蹂躙されることはなかったのかもしれない。まあ、いまさら言ってもしょうがないことだ。




