68.エロおやじの願い
神界の頂点である大神官冬芽橘樹の息子、鹿野はゆっくりと話し始めた。
「私の母、今や押しも押されぬ神界の長、大神官冬芽橘樹は、もともと神館に仕える下級女官でした。同じく下級役人だった夫と結婚し、女の子をもうけました。しかし春姫様が愛姫様を討ったことで状況は一変しました。神館に仕えていたものはすべて民衆にとって怨嗟の対象となり、殺されたり石を投げつけられました。母も例外ではなく、夫は殺され、まだ赤ん坊だった娘は、民衆から投げられた石が当たって死にました」
息を飲む多比人に、鹿野が言う。
「いえいえ、春姫様を悪く言っているのではありません。政権が滅びるとはそういうことです。命からがら逃げのびた母は、神館に仕えていたということを隠し、各地を転々としたそうです。働き口を探し、神館で働いていたことがばれるとやめさせられ、ということを繰り返していたそうです」
気を利かせた子供達が、いつの間にか部屋からいなくなっていた。
「そんなふうに各地を転々としていた母が、或る日男達から乱暴され、生まれたのがこの私なのです」
雪が息をつめて鹿野を見る。
「私は小さい時のことをよく覚えています。その日の食べるものにも事欠く貧しさの中で、母がお前さえいなかったらと、私を罵り叩いたことを。そうかと思えば、冬の寒い夜にずっと抱きしめてくれていたことを」
つらい思い出を話しているというのに、鹿野の目は穏やかだ。
「或る日、母が洞窟の中にいた愛姫様を見つけました。母は自分の娘が生きていたらちょうど同じ年頃であっただろうと、それはそれは愛姫様をかわいがりました。私は良い姉が出来たと喜びました。愛姫様が豊穣の力を持つことが分かると、各地で豊穣の祈祷をし、お金が得られるようになりました。その後はご存じの通り、母は自分が奪われたものを奪い返すように権力を求め、金を貯め、神館を再建し、大神官となっていったのです」
多比人達のいる部屋に、昼のうららかな陽射しが届いている。
「母は奪われた家族も取り返そうとしました。新たに結婚し、菊乃、毬乃、波夜という三人の娘を生んで、愛する家族を取り戻したのです。でも、そこに私の居場所はありませんでした」
「私は母にとって、辛い時代の象徴、思い出したくない過去そのものだったのです」
鹿野が静かに笑う。
「その時私は思ったのです。自分に学問があれば、自分に何かの技術があれば、母と離れて自分ひとりで生きていくことが出来るのにと。でも、自分にはそんなものはありませんでした」
遠くで子供達の笑い声が聞こえる。
「結局、母が大神官になった際、私は母に頼んでこの小さな庄の庄長にしてもらいました。親のすねをかじることは忸怩たるものがありましたが、母の大切な家族に私が混じっていることは良くないと考えたのです」
鹿野が多比人を見て笑う。
「だから、いま私がしていることは、昔の私がしてほしかったことなのです。でも時間は遡れません。なので、親から捨てられた子供達を自分に見立て、自分がしてほしかったことをしているにすぎません。これは自己満足です。完全に自分のために行っていることです。慈善活動などという高尚なものではありません」
多比人は、鹿野を見て言った。
「自己満足だとはおっしゃいますが、なかなか出来ることではないと思います。神界でこのようなものを初めて見ました。でも、どうして『エロおやじの館』などと、あなたが幼児趣味だという噂をされて平然としているのでしょうか」
「はっ、はっ、はっ、それは子を捨てる親への意地悪です。母は私をとても疎ましく思っていましたが、愛してもくれました。母は私を絶対に捨てようとはしなかった。ここは子を捨てる親に千神銭という、人を小ばかにしたような額の金を与えています。しかもここは幼児趣味の変態エロおやじの館。子を捨てる親に、酷いところにはした金欲しさに子供を売ったという負い目を、一生感じさせたいのです」
いたずらっぽく、鹿野が笑う。
「私も母も、歪んでしまっているところはよく似ているようです」
鹿野が椅子から立ち上がると、多比人の前で床に平伏した。
「母はあまりにも辛い思いをして、幸せに飢え過ぎてしまったのです。幸せに飢えるというのは恐ろしいものです。家族を作っても、これ以上ない地位についても、使いきれないお金を得ても、決して満たされることはありません。飢えだけが残り続けているのです。挙句の果てに春姫様を逆恨みして、東ノ庄を滅ぼすなどということをしでかしました。こんなことをしても、心が満たされるはずがありません」
鹿野の声は震えていた。
「防人様、大変身勝手ではありますが、お願いがございます。母の命ばかりはお許しください。母は人間に絶望しているのです。絶望しているくせに、どこかでまだ人を信じたいと願っています。そんな哀れな母を、殺さないでほしいのです」
多比人は立ち上がって鹿野の手を取った。
「鹿野さん、どうか顔を上げてください。僕は防人です。神界を守ることが役目です。出来るかどうかは分かりませんが、僕は誰の命も奪いたくないのです。鹿野さん、あなたのお母様だって同じです」
「……防人様……ありがとうございます」
そう言って鹿野は頭を下げて、多比人の手を震える両手でしっかりと握った。
その手はエロおやじなどではなく、母を想う子の手だった。
多比人は和名倉ノ庄を後にして思った。
誰もがうらやむ地位や富を得た人にも、様々なつらい過去や満たされない思いがあるのだと。
「鹿野様は、立派な庄長様でしたね。エロおやじとか言うから、どんな変態かと思いましたけど」
雪がほっとしたように言う。
「そーですね~。もの凄いハーレムかと思って期待していましたが、期待外れでした」
「おい、楓は何を期待していたんだよ」
「主も少しは期待していたんじゃないですか~」
「そ、そんなわけないじゃないか! ねえ、雪」
「……」
「ねえ、雪! ちょっと何とか言ってよ!」
大通りの露天商が雪に声を掛ける。
「そこの綺麗な若奥様!」
「わ……わたしのことですか!?」
「決まっているじゃないですか! 私も長く商売していますが、若奥様のような綺麗な方は見たことがありません」
「まあ……正直な方」
「そんな綺麗な若奥様に、お似合いのネックレスがあるんです! ちょっと見ていってください」
「じゃあ、ちょっとだけなら……まあ、綺麗!」
露天商から高級そうなネックレスを見せられて目を輝かせる雪を見ながら、多比人はこれは絶対『エロおやじの館』卒業生達の間で情報が共有されているに違いないと思った。本当に逞しく育った子供達だ。
多比人は財布を懐から取り出しながら、その逞しさを嬉しく思った。
○或る日の大神官様(その3)
神都を追われ、夫を失い、子を殺され、絶望に打ちひしがれて彷徨い歩き、橘樹は宿に泊まるお金もなく、野宿をしていました。
そんな或る朝、朝靄のかかる草原に、鹿の群れがゆっくりと歩いているのを見ました。その美しい光景が忘れられず、橘樹は生まれてきた子供に『鹿野』と名付けました。




