38.一本杉ノ庄
「結局キスは出来なかったけど、手をつなぐことは出来たし、なんだかあれ以来雪は優しいし、良かったな~。夏祭りのおかげだな~」
多比人はにやけながら町を歩いていた。
雪と楓は髪結いに行ってしまって、手持ちぶたさになった多比人は、ひとり町を散策していた。
ここは、『一本杉ノ庄』と呼ばれ、なかなか賑わいのある庄だった。
「あら、カッコイイおにいさん! ちょっと寄って行きませんか?」
「え、カッコイイって僕のこと?」
「そうですよ! よっ色男! ちょっと寄っていってくださいよ。損はさせませんから」
多比人は呼び込みの男に誘われるまま、薄暗い路地裏の店に入った。
「一名様ご来店!」
多比人は案内された席に座った。周りはパーテーションで囲まれ、他の席は見えないようになっている。
「いらっしゃいませ~!」
そう言って多比人の席にやってきたのは、三十代半ばの、化粧の濃い露出の多い服装をした女性だった。
「わたし、ケイコ。あなたは?」
「多比人です」
「あら多比人ちゃん。かわいい名前ね。お酒は好きなの頼んでいい? あとフルーツも食べたいな」
「いいよ」
「丼屁理いただきました! 16番テーブル丼屁理とフルーツ盛り合わせお願いします!」
ケイコに丼屁理を注がれながら、多比人は思った。
(やばい。ここ……ぼったくりの店じゃないだろうか……)
「多比人ちゃん、こういうお店はじめて?」
「……はい」
「じゃあ、教えてあげる。呼び込みのあるお店には今後絶対に入っちゃだめよ」
「そ、そうなんですか」
「そうよ。たいていお店の料金に呼び込みの人の人件費も加算されているし、呼び込みしないと客の入らないお店なんて、ロクなところじゃないわ」
「……ということは……この店は……」
「正解! ぼったくりのお店で~す!」
ケイコはそう言って明るく笑った。
「まあ、今回のは多比人ちゃんの人生勉強料ね。これ以上は注文しないであげるから安心して」
「はあ……ありがとうございます」
多比人は丼屁理を飲んでみた。ただの甘いジュースの味がした。
絶対中身が入れ替えてあると思った。
「い、いくら位になりそうなんですか?」
「う~ん、三十万神銭くらいかな?」
「三十万神銭!?」
あまり神界で飲食した経験のない多比人だったが、これで三十万神銭は法外な値段だということは分かった。下界で言えば三十万円だ。
祖母の遺産と北山からの餞別で成金状態にある多比人にとって、払えない額ではなかったが、あまりにも癪だ。
「うふふふ、かわいいわね。ショック受けないの! わたしのおっぱい触ってもいいから元気出して!」
ケイコのはだけた着物からは、豊満な胸があふれそうに見えていた。
「それって別料金なんですか?」
「あら、察しがいいのね。多比人ちゃん少しはお勉強できるようになったのね、うふ!」
そう言って、ケイコはわざとらしく自分の胸を揺らして見せた。
(この店から早く出たい……でも三十万神銭も払いたくない)
多比人はちらと店の出口の方を見ると、屈強そうな店員が二人立っているのが見えた。
(詰んだ。絶体絶命だ。しかも絶対後で雪に怒られるやつだ)
「はい、多比人ちゃん、あ~ん」
ケイコがフルーツを多比人の口に入れてくれた。
もう、味なんてわからなかった。
その時だった。パーテーションの向こうで怒鳴り声が聞こえた。
「なんだこれは! ぼったくりではないか! 焼酎一杯で三十万神銭って何事だ!」
「お兄さん、メニューに書いてあるでしょ。ほらここ。うちは真っ当な商売なんですよ。いちゃもん付けないでもらえますかね~」
「どこが真っ当な商売だ! ふざけんな! 誰が払うか!」
「あんたしかもうちのホステスの胸揉んだよね。うちはそう言う行為は禁止してるんで、罰金五十万神銭も払ってもらいましょうか」
「え、あ、だってミチコちゃんが触っていいって言うから……」
多比人がケイコを見ると、ケイコが舌を出して笑っている。
「お客さん、女の子に罪をかぶせようって言うんですか? 最低ですね。併せて八十万神銭払ってください。払ってくれなきゃ職場に連絡しますよ」
「あ! 貴様いつの間に俺の財布を! ち、ちくしょう!」
テーブルが倒れる音と、ガラスが割れる音がしたと思ったら、パーテーションがケイコに向かって倒れてきた。
多比人がケイコに覆いかぶさるようにしてパーテーションから守る。
店内に、女性の悲鳴と男性の怒号、物が壊れる音が錯綜する。
「うおりゃ~!!!!」
多比人が折り重なったパーテーションの陰から見たのは、大男が机を振り回し、屈強な店員を相手に大立ち回りをしている姿だった。
(この大男、強い!)
大男は屈強な店員五人を相手に、一歩も引かないどころか押していた。
窓ガラスが壊れ、シャンデリアが落ちる。
他の席から客が逃げ出していく。
多比人もチャンスとばかり、入り口に向かって走ろうとしたところ、ケイコに腕をつかまれた。
「入口の外には店員が待ち構えているわ。こっちの裏口から逃げなさい」
そう言ってケイコはすぐ後ろの裏口を開けてくれた。
「さっきは守ってくれてありがとう。多比人ちゃん、かっこよかったわよ」
そう言って、ケイコは多比人のほっぺたにキスをしてくれた。
多比人は裏口から路地裏に出ると、表通りに出て、店から離れた。
(あぶないところだった)
多比人は絶体絶命の状況から逃げ出すことが出来て安堵すると、雪達との待ち合わせ場所に急いだ。
雪達は既に髪結いを終えて待っていた。
「多比人様、遅かったですね。何をされていたのですか」
雪が多比人に聞く。
「いや~ちょっと喫茶店でお茶しながら本を読んでいたら夢中になっちゃって。遅れてごめんね」
「主は本お好きですからね~」
「よく分かっているじゃないか楓! そうなんだよ本に夢中になっちゃってさ~、あははは」
「どのような御本に夢中になっていたのですか多比人様。わたしにも教えていただけますか」
「いや~雪~、そんな面白い本でもないよ~」
「では多比人様は面白くもない本で、夢中になってしまったということでしょうか」
「いや~まあまあ面白いというか、面白くないというか、微妙な本だったんだよ」
「それにしては夢中だったようですね」
そう言うと雪が、胸元から手鏡を出して多比人に向ける。
その鏡を多比人が覗くと、右のほっぺたに真っ赤な口紅のキスマークを付けた自分のアホ面が映っていた。
(さっきのケイコちゃんがキスしてくれたやつだ!)
多比人は絶体絶命というものがどういうものか、今初めて分かった。




