34.旅立ちの朝
「まあ、最低でも順番は守った方が良いと思うよ。まずはシノビちゃんより、奥様の方からじゃないかな、なんてね」
「……はい」
多比人は北山からありがたくないアドバイスを聞いた。
折角出してもらった朝食だが、昨晩雪に殴られて左の頬が腫れあがり、口の中が切れたせいで痛くて食べられない。大きな絆創膏が痛々しい。
雪に殴られ、全裸で転がった女中部屋の女中達からは変態扱いされ、多比人は散々だった。
隣で楓が平気でパクパク朝食を食べている。
「あるじ~、全裸で女中部屋に侵入するとか、変態ですね」
「お、お前が言うな……お前のせいでこんな目に……」
いつもは朝食の時は必ず一緒にいる雪は、今朝は現れない。
「雪はどこに行ったか知っている?」
「昨晩は朔姫様と一緒に過ごされたそうですよ。まだご一緒なんじゃないですか」
昨晩のことは朔姫様にもバレてしまっているのかと思うと、多比人は気が一層重くなった。
「まあまあ、シノビちゃんが酔っぱらってたまたまお風呂に先に入っていたってことでしょ。三人で仲良く入ればよかったのに」
北山がフォローともからかっているとも分からない慰めを入れる。
「クケケケケ。また雪姫様より一歩リードしてしまいました。主と一緒にお風呂に入る仲になってしまいました。記憶が全くないのが残念ではありますが」
楓がにやけながら笑う。
笑い事ではないと多比人は思った。
「それよりも、これ、渡しておくね」
そう言って、北山が多比人に渡したのは三人分の北ノ庄の通行許可証だった。
「北ノ庄は豊かだから、他の庄から人が入流しようとしてくるんだ。でも、過度な人口過多を我々は望んでいない。そこで、このパスを持つものしか北ノ庄に入れないんだ」
多比人が許可証を見ると、『神界⇔北ノ庄 無期限』と書かれていた。下の欄には三人のそれぞれの名前が記載されていた。
「だからこのパスを狙う盗賊も多いと聞いている。くれぐれも盗られないように気をつけてね」
このパスを盗られたら北ノ庄に入れなくなる。ということは、下界に戻れなくなるということだ。
「ありがとうございます。気を付けます」
多比人はそう言うと、パスを懐にしまった。
ふと見ると、部屋の入り口に雪が朔姫と一緒に立っていた。
「ゆ、雪!」
思わず多比人は立ち上がった。
多比人が良く見ると、雪の目元が赤く腫れている。昨夜はずっと泣いていたのだろう。
「雪、ごめんね。昨日のは違うんだ……」
多比人が慌てて弁明しようとすると、雪は床に手をついて謝りだした。
「多比人様、申し訳ありません……わたしの早とちりで大切な旦那様を殴ってしまいました」
多比人は雪に殴られた瞬間のことを思い出した。殴られてからのことは記憶が全くないが、記憶をなくす前の一瞬、雪が身体に巻いていた布がはがれ落ち、あられもない姿を見てしまった。
これは殴られたことを差し引いても、明らかに得をしていると多比人は思った。
「全然大丈夫だよ、全く平気さ。むしろラッキーだったよ。それよりごめんね、雪に嫌な思いをさせて。あれは本当に偶然の出来事で、酔っぱらった楓が先に入っているって気が付かなかったんだよ。なあ、楓……」
多比人が後ろを振り返ると、さっきまで朝食をむしゃむしゃ食べていた楓は姿を消していた。
(あいつ、逃げ足だけは早いな!)
「多比人様、わたくしからもよろしいでしょうか」
朔姫の言葉に多比人がビビる。
「雪姫様は、昨晩一晩中、多比人様を殴ってしまったことを気に病んでおられました。このようにかわいらしい奥方様を悲しませることはしてはなりません。誤解されるようなことは厳に慎むべきです。お分かりですか」
多比人がふと見ると、北山もどこかに消えていた。
「……はい。もう雪に誤解を与えること、悲しませるようなことはしないと誓います」
そう言って多比人は雪に頭を下げた。
朔姫はそれを聞くとにっこり笑って言った。
「雪姫様。もう大丈夫ですよ。多比人様はもうこんなことはしないとお誓いくださいました。どこぞの夫とは大違いです。さあお二人とも、仲直りなさい」
朔姫は雪を立たせると、多比人の方へそっと押し出した。
「多比人様、ごめんなさい。お顔、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。僕は防人だよ、こんなのへっちゃらだよ」
雪がそっと多比人の左頬にふれる。
「痛たたたたた!」
多比人が痛がって悶絶する。
「うふふふふふふ」
それを見た朔姫が笑う。
それにつられて雪も笑う。
多比人も笑うと頬が痛いのだが、笑っておく。
(ゆるして……もらえたのかな)
多比人は朔姫と雪が笑っているのを見て、内心胸をなでおろしていた。
☆ ☆ ☆
「さすがは雪姫様、正直あそこまでやるとは思っていなかったわ。まさか自分の旦那である防人様をぶん殴るなんて。女中達によると、多比人様の首、変な方向に曲がっていたらしいわよ。でも、それでも顔がにやけていて不気味だったって」
「そうなのです。雪姫様は結構怖いのです。以前、からかっていたら簀巻きにして吊るされました」
城内の小部屋では、防人のシノビ同士が密談を交わしていた。
「楓、こうなれば最後の手段をあなたに渡しておくわ」
そう言って、久禮は胸元から小さなガラスの小瓶を取り出した。
「媚薬よ」
「媚薬!」
「そう。これは子作りを全くしない象を発情させるために開発された媚薬よ」
「象!!」
「そう、象よ。これを飲んだ二匹の象は、すぐさま発情して子作りに励みだすらしいわ」
「子作り!!!」
「だから、人間用には一滴だけで効果があるらしいわ。逆に言うと、一滴以上飲ませると大変なことになるらしいわ」
「大変なこと!!!!」
「これをあなたにあげるわ。あなたの主夫婦が、もうどうしようもなくなったら食事か飲み物に一滴ずつお入れなさい」
「わかったのであります、久禮お姉さま。主の幸せは我々シノビの幸せ。不器用な主をきちんと導いてみせます」
ガラスの小瓶を久禮から受け取ると、楓はそう言って敬礼した。




