3.美女の舞
この日、多比人は日の出とともに、祖母の遺した桐の箱を持って古舞山に出かけた。古舞山には大きな岩壁がいくつもあって、複雑な地形をしていた。ただ、この山は毎日欠かさず祖母と多比人が剣術の稽古に通った場所であり、多比人にとっては庭同然であった。
多比人は複雑な岩の回廊を通って、山の中腹にある、異国の経文だと言い伝えのある不思議な模様が刻まれた大岩の下に着いた。その岩の裏には洞穴があり、中には暗い空間が広がっていた。
(ここだな、さっさと捨てて帰ろう。お山に返せってことだから、春ばあちゃんも文句はないだろう)
そうは言っても、迷い込んできたハイキングの人などに見つかっても物騒だと思い、多比人はなるべく洞穴の奥の方に捨てることにした。
(ヘッドランプを持ってくればよかった)
古舞山は標高二千メートルを超える山だ。その中腹にあるこの洞穴の中は、もう初夏だというのにひんやりとして肌寒かった。真っ暗な洞穴の中はところどころ屈曲しており、多比人は冷たい岩肌に手を触れながら、奥の方へと進んでいった。
すると暗闇の奥から、風が吹いてくるのを感じた。
(この洞穴、どこかに通じているな)
古舞山にはこのような洞穴が数多くあり、多比人は子供の頃、潜って遊ぶのが好きだった。中で風を感じ、その方向に進むと洞穴の出口があり、意外なところに出るのが面白かった。
多比人が進むにつれ、風ははっきりと感じられるようになり、かすかに洞穴が明るくなってきた。
(この先だ)
洞穴の角を曲がると、急に明るくなった。
(よし、出口だ!)
岩の斜面を少し登り、ぽっかりと開いた岩の隙間から飛び出ると、多比人は周りを見渡した。そこは明るい雑木林の中だった。
(どこだここは?)
洞穴の出口を出ると、思いがけないところに出るのはいつものことだ。それにしてもここはおかしい。さっきまではコメツガやシラビソなどの、高い山に生える針葉樹の森の中だった。しかし、ここにはナラやクヌギなどの、里山で見るような雑木林が広がっている。とても古舞山の中腹とは思えない。
ここが古舞山だとすれば、意外な発見だ。いままで古舞山のことで知らないことはないと自負していた多比人にとって、また古舞山の新たな魅力を発見したと思った。
下草のない雑木林には、初夏の明るい日差しが届いて気持ちがいい。
多比人はこの初めての場所を探索してみようと、周囲を散策することにした。
「おい、お前何者だ。見るからに面妖な奴」
突然の背後からの声に、多比人が振り返る。
そこには美しい黒髪が腰まで伸びた、白い着物姿の美女が自分を睨んでいた。年は二十歳頃だろうか、少しつり上がってきつそうな眼が、美好課長に似ていた。
その美しい黒い瞳に多比人は魅入ってしまった。
「何も言わないとは、ますます怪しい奴」
美女はそう言うと、腰に差していた刀をゆっくりと抜いた。
「死ね」
黒髪が美しく揺れ、その美女がいきなり斬りかかってきた。
(先日は美好課長、今日はこの美女。僕の好みの女性はどうして自分を攻撃してくるのだろう。いや、僕は自分を攻撃するような女性が好きなのか? 僕ってマゾだったの? この状況はご褒美なのか!)
理想の女性に出会えたと思ったら刀で斬りかかってくるという、あまりにも幸運で不幸な状況に、多比人はもはや正常な思考が出来なくなっていた。
美女の刀が袈裟斬りに振り下ろされると、多比人は桐の箱でかろうじて受け止めた。
桐の箱が粉々にはじけ飛び、中から白く輝く抜身の美しい剣が露わになった。日本刀のように反っていない、両刃の直刀だった。
(やっぱりこんなことだろうと思った!)
この剣はかつて祖母に毎日のようにつき合わされた、剣術の稽古で握らされた木刀とそっくりだった。
ひとと争ったり、ましてや傷つけるといったことが苦手な多比人は、剣術の稽古が嫌いだった。
『今日はお前の好きな古舞山の秘密の場所を教えてやろう』
『今日は綺麗な水晶がたくさん採れる場所を教えてやろう』
そう言って祖母は多比人を山へと連れて行き、逃げられないところで剣術の稽古をした。
今考えると幼児虐待ではないだろうか。
「やはり敵か!」
剣を見たせいか、多比人の理想の女性がさらに興奮して斬りかかってくる。
豊かな胸が揺れる。
美好課長も大きかったが、この娘も相当なものだ。
初めて経験する命の危機に際して、女性二人のおっぱいを想像して大きさを比べるという、現実逃避に多比人は陥っていた。
走馬灯のように多比人の頭の中を、おっぱいの想像画像が流れていた。
(おっぱいが一つ、おっぱいが二つ、おっぱいが三つ……)
そのおっぱいの主が、多比人に舞うように斬りかかる。
(なんか、幸せかも)
多比人の思考は壊れ始めていた。
理想の女性がおっぱいを揺らしながら舞う。その美しさに多比人は見とれてしまう。刀が自分の顔スレスレに通り過ぎるのすら気にならない。
美女は多比人が余裕の表情で自分の刀を見切り、剣も握らないでいるのが気に入らなかった。武人にとって、剣を握らない者を斬ることは出来ない。
「貴様、剣を握れ! わたしをバカにしているのか!」
「あうっ!」
もう多比人は何も考えることが出来なくなっていた。
美女に言われるがままに剣を握った。
(手に吸い付くようだ)
剣の感覚に多比人が正気に戻る。
多比人が握った祖母の遺品の剣は、まるで多比人のために作られたかのように、多比人を自ら導くように弧を描いて美女の刀を寄せ付けない。
美女の舞を上回る速さで多比人が剣をふるうと、美女の刀は虚空へと飛ばされ、舞を絶たれた美女は地へと墜ちた。
仰向けに倒れた黒髪の美女の喉元に、多比人は剣先を突き付けた。
美女がその剣先を見る。何故だかちょっと顔が赤い。
この美女には押し倒されて喜ぶ性癖でもあるのだろうかと、多比人は思った。
(……それもまたいい)
美女は剣先からゆっくりと多比人に視線を移した。
「この剣、お前は防人様なのか。春姫様のお知り合いか」
春姫と聞いて多比人は驚いた。祖父は時々祖母のことを春姫と呼んでいた。
「春姫……春なら、僕の祖母だ」
それを聞いた美女は、剣先が突きつけられているにもかかわらず、いきなり起き上がろうとする。多比人が慌てて剣を引こうとすると、握っていた剣が手に吸い込まれるように消えてしまった。
「防人様の剣に鞘はないと聞く。剣は常に防人様の体と一緒だと……」
体を起こした美女は、片膝をついて多比人に言った。
「防人様とは知らず、御無礼致しました」
多比人は何が起きたのか理解が追い付かない。
「防人様、どうかお願いです。わたしと結婚してください。そして、わたしと一緒に……」
美女が多比人の目をじっと見つめて言った。
「神を殺してください」




