2.桐の箱
須山支社のある、須山市のはずれの黒森村に多比人の実家はあった。多比人は東京生まれだったが、幼くして両親を亡くし、母方の祖父母に引き取られた。その祖父母が暮らしていたのが黒森村だった。
祖父母の家は、岩壁に囲まれた古舞山の麓にある大きな古い日本家屋で、多比人は自然に囲まれて育った。高校生の時に祖父が亡くなり、祖母も三年前に他界した。
多比人は祖母が大好きだった。厳しくも優しい祖母がいなくなってしまったことをまだ受け止め切れていない。だから祖母がいないことを否が応でも突き付けてくる、この黒森の実家に来ることを避けてきた。祖母の遺品の整理もほぼ手つかずのままだった。
多比人の勤める会社は住宅手当がほとんど支給されない。それで今回、転勤を機に、多比人は三年ぶりに実家で暮らすことにした。
「東京本社から来ました数馬多比人と申します。よろしくお願いします」
社長に睨まれて、年度途中で急遽左遷させられた多比人を、須山支社の社員達は関わろうとしなかった。
須山支社初出勤が終わり、多比人は疲れ切って黒森の家に帰ってきた。多比人は仕事から帰ると一人で晩酌するのが楽しみだったが、今日は酒を飲む気分にもなれない。明日から週末休みなのがせめてもの救いだった。
「春ばあちゃん……疲れたよ」
生前、祖母が仕事で使っていた大きな机に座り、多比人はため息交じりにつぶやいてみたが、応えてくれる人はいない。大きな家の静寂がいっそう増しただけだった。
「これからどうなっちゃうんだろう」
多比人は不安を誤魔化すように、机の上の祖母のパソコンを立ち上げてみた。
パスワードがかかっていた。多比人は何となく入力してみた。
『tabito』
パソコンのロックが解除された。
多比人は祖母の自分への愛情をかみしめつつ、画面を見てみると、『多比人へ』と書かれた文書を見つけた。
開けてみる。
『多比人へ。わたしに何かあったら屋根裏の祠の中にある、桐の箱をお山にお返ししてください。昔あなたを連れて行った、異国の文字で経文が書かれた岩の裏に入口があります。春より』
祖母の春は三年前、農作業中に倒れて救急車で運ばれ、そのまま亡くなった。だからこれは、万が一に備えて生前に用意しておいたものだろう。
多比人が屋根裏に入ると、中央に小さな神社のような白木造りの祠が見えた。多比人はこの祠を祖母がとても大切に祀っていたのを知っている。
「いずれこの中のものは多比人、お前のものになるからね」
祖母は幼い多比人にそう言った。或る時多比人は祖母に隠れて祠の中を覗いてみた。大人がひとり余裕で入れるほどの祠の中には、二メートルほどの長さの桐の箱だけが置かれていた。中身は空だった。
それ以来、多比人は特にこの祠に興味を持つこともなかった。
久々に見る祠は、ずっと多比人を待ち続けていたような気がした。
祠を開けると、中にはいつか見た桐箱が置かれていた。桐箱の表面には、かつてなかった張り紙がついていた。
張り紙には、
『多比人へ 絶対に開けるな 使うな 春より』
と、書かれていた。
(……絶対に開けるな、使うなって……フラグ立たせているとしか思えない。ムラムラと開けて使いたくなってくる)
多比人が桐の箱を持ち上げてみると、ずしっとした重みを感じた。かつての空箱と違い、何かが入っている。その重みは、多比人に何かを連想させた。
(……これ絶対ヤバいやつだ……)
この祖母の遺品は、通常なら自分が絶対に受け取らないものだ。それをどうにかして受け取らせようとしている、祖母の意思を多比人は感じた。
(祖母には策を練って相手を思い通りに動かそうとするところがあった。絶対にその手には乗るものか)
多比人は明日の朝早く、この桐の箱を山に捨てに行くことにした。




