22.時姫の戦い
『婿見せ』で愛姫に敗れた後、時姫は夫とは隔絶され、大神官に次ぐ地位である、五人いる神官の一人、波姫の下女にさせられた。
「時、これ洗っておいて、あと部屋の掃除もね」
波姫は大神官である冬芽橘樹の末娘で年齢は三十九才。本来は冬芽波夜という名前であった。神界で高貴な女性は漢字一文字の名前が付けられ、その後に称号である姫をつけて呼ばれるのが通常だった。
しかし、波夜は母親である冬芽橘樹が身分の低い頃に生まれた娘であるため、波夜と名付けられた。その後、母親が大神官になるにあたり、波姫と呼ばれるようになった。
ちなみに、母親の橘樹は、正式には橘姫だが、本人が橘樹という名前を気に入っていることもあり、橘樹と呼ぶ人が多い。
波姫は、大神官の娘というだけで神官の地位に着いてはいたが、能力は乏しく、そのくせ出世欲、名誉欲が強く、母の後の大神官の地位を狙っていた。
その波姫が、『婿見せ』で負けて囚われた時姫を、下女に貰えないかと言い出した。
狙いは単純だ。名家で有名な東ノ庄の茅原野家の庄長である、時姫を自分の下女にすれば、必然と自分の名声が高まると考えたからだ。
橘樹は、自分の愛する末娘と言えど、波姫には政治の才が乏しいことを認識していた。そして時姫を下女にしたいという浅はかな下心も分かってはいたが、時姫への辱めとしてはちょうど良いと考え、それを認めた。
こうして、波姫の下女となった時姫は、お嬢様として育てられ、武勇並び立つものなしと称えられた栄光も空しく、粗末な着物を着せられ、朝から晩まで波姫の下働きをさせられていた。
しかし、時姫はその下働きを完璧にこなした。
「ちょっと、時! わたしのお気に入りの扇子、どこにやったの! 蛍の描いてあるやつ!」
「こちらにございます」
波姫は扇子を数百持っていたが、蛍のお気に入りと聞いて、時姫はすぐに棚の中から当該の扇子を抜き取り、波姫に差し出した。
「わたし、蛍の扇子たくさん持っているけど、何でこれがわたしのお気に入りって分かったの?」
「いままでの波姫様のお好みから、きっとこれがそうではなかろうかと推測したのでございます」
時姫は波姫に平伏してそう述べた。
「そ、そう。まあ、良い心がけね」
波姫は出かける際、自分のお気に入りがすぐに見つからないと、いつも大騒ぎだった。それでお付きの侍女達は大変な思いをしていた。それが、時姫が来てからは万事この調子ですぐに波姫は出かけることが出来た。
これには波姫だけでなく、侍女達も大助かりだった。
こうして、当初時姫は館の掃除などをさせられていたが、次第に波姫に同行して身の回りの世話をさせられるようになった。
「波姫様、『山森ノ庄』と『楠ノ庄』の庄境の訴訟の裁断をお願いします。これがそれぞれの庄からの陳情書でございます」
神館の政務を執り行う庁舎で、裁判を担当する文官が波姫に書類の山を指し示す。波姫の裁断一つによって、お互いの庄の境界線をめぐる争いの判決が決まってしまうので、どちらの庄も必死に大量の文書を作成してきたのだ。
「何これ~! これからお茶会に行かなきゃいけないのに、こんなの読むなんて無理よ~!」
波姫が不満をこぼす。
「しかし、民の訴訟を裁断するのは神官様の大切なお仕事です。裁断一つが神都への信頼につながる重大なお仕事でございます。お茶会はまたの機会とされてはいかがでしょうか」
高齢の文官が波姫を諫める。
「だって、今日のお茶会は桃のスイーツの新作が出るのよ。桃は今の時期が一番おいしいの。今を逃したらもう食べられないのよ」
波姫が必死に文官に抗議するが、文官も引き下がらない。
「訴訟の裁断とスイーツ、どちらが重要か賢明な波姫様には分かっておられるでしょう」
「うう、こんな文書読み込んでいたら、数日はかかるわ」
波姫は、恨めしそうに高く積まれた書類の山を見上げる。
「大変僭越ながら、私が波姫様の前裁きをいたしましょうか」
逡巡していた波姫の後ろから、時姫が頭を下げながら控えめにそう言った。
「前裁き? 時、あんたにそんなこと出来るの?」
「はい、東ノ庄ではこのような訴訟を裁くことは常日頃から行っておりました。片田舎の東ノ庄と神都での案件は比べ物にならないでしょうが、その書類をわたしが読み込んでポイントを波姫様にお示しします。それをもとに波姫様が裁断なさるというのはいかがでしょうか」
「そっか、あんた庄長だったもんね。じゃあ時、お願いしてもいい?」
「波姫様のため、きちんと書類を読み込み、裁断のポイントを整理させていただきます」
「じゃあ、よろしくね! 時、頼んだわよ!」
「波姫様! 下女に裁断の読み込みをさせるとは何事です!!」
文官のばあさまの叫び声を尻目に、波姫はお茶会に出かけて行ってしまった。
「文官様、では、その書類を読ませていただいてもよろしいでしょうか」
恭しく時姫が文官に頭を下げる。
「勝手にせい!」
そう言って文官は、あきれ顔で時姫に文書を読むことを認めた。




