108.愛と豊穣の女神
「鷹姫様! 橘樹様! 反乱軍が神都内をこちらに向かっています! すぐにお逃げください!」
鷹姫が橘樹と炬燵でみかんを食べているところに、甲冑を着た樽彦が息を切らせて飛び込んできた。
みかんを食べながら鷹姫が聞く。
「樽坊、そんな恰好をしてどうした?」
「ちょっと好きな人に踏んづけて……いや、会いに行っていました。そんなことより早くお逃げください!」
「樽坊の母親は何をしている?」
「母は、『婿見せ』の使者として防人様を神館へと案内しています」
部屋に差し込む穏やかな日差しの中、沈黙が流れる。
「菊姫は『婿見せ』で一発逆転を狙っているのか。愚かなことだ。いかに防人に聖剣を使わせずして封じるかが重要なことと解らなかったか」
そう言って、橘樹がうつむく。
「樽坊、悪いが橘樹を連れて逃げてはくれぬか。私はいいが、多比人達に捕まれば、橘樹はただでは済まないだろう。和名倉ノ庄あたりまで連れて行ってはくれぬか」
鷹姫の言葉に、橘樹が答える。
「ありがとう、鷹姫。しかし、いまさら息子に助けてくれだなんて虫のいいことは言えないよ。あの子は私のことを恨んでいるだろう。それに私は命に代えても娘達を守らねばならぬ」
そう言って橘樹は樽彦を見る。
「樽坊、悪いが私を『婿見せの間』まで連れて行ってはくれぬか」
「はっ。この真喜野樽彦、ボキが命に代えてもお連れします!」
樽彦はそう威勢よく答えると、橘樹に差し出されたミカンを食べた。
☆ ☆ ☆
「愛姫様! このふたりは逆賊です! 何故殺してしまわぬのです!」
『婿見せの間』では、菊姫が怒り狂いながら愛姫様に猛烈抗議していた。
「おお、菊姫か……何か、顔が怖いのじゃ」
「ううううう! わたしの顔の話をしているのではありません! 『婿見せ』なのですよ! 愛姫様の太刀でぶった斬ってやってください!」
「……ますます顔が怖いのじゃ。誰をぶった斬るのじゃ?」
「そこの防人と女です!」
「多比人と雪のことか? 嫌じゃ。多比人はじゃがバターを買ってくれたのじゃ」
「そんなもの、わたしがいくらでも買って差し上げます! 屋台のおじさんが泣き叫ぶほどバターを塗って差し上げ……」
菊姫の言葉が途中で止まる。
何事かと周りが菊姫を見ると、口から血があふれ出した。
菊姫の腹は、血に染まった刀に貫かれていた。
「ま……毬乃……あなた……」
自分を背後から襲った相手に、菊姫がそう声を掛けながら倒れる。
そこにはボロボロに汚れた着物を着て、髪を振り乱した幽鬼のような姿の毬姫が立っていた。
「わたしに無実の罪を着せ、さんざん殴らせた報い、思い知れ! フハハ! フハハハハハ!」
静まり返った『婿見せの間』に、毬姫の高笑いが響く。
倒れた菊姫に、雅姫が駆け寄って抱き起す。
「菊姫様! 菊姫様!」
雅姫の呼びかけに、菊姫は全く反応しない。
すでに息絶えていた。
そこに甲冑の音を響かせ、波姫が自分の部下である時姫、滝姫らを引き連れて入って来た。
「大神官殺しを成敗しなさい!」
波姫がそう命令すると、滝姫が毬姫を切り捨てた。
「アハハハハ! これでわたしが大神官よ! 邪魔者はいなくなったわ! 時! あなたを第一神官にしてあげるわ。東ノ庄もくれてやるわ! せいぜいこの恩に報いなさい!」
「ありがたき、幸せにございます」
そう言って時姫が頭を下げる。
静まり返った『婿見せの間』に、勝ち誇った波姫の高笑いが響く。
「……な……何をしているのだ……菊乃! ……毬乃!」
そこに樽彦に付き添われてやって来た橘樹が、声にもならない声を上げて菊姫と毬姫に駆け寄った。
橘樹が二人の体を揺らすも、血が流れていくだけでもう息をしていない。
「……何が……何で……私の……娘。……大切な……家族……」
茫然と二人の娘の亡骸に縋りつく橘樹に、波姫が罵声を浴びせる。
「あんた、何をいまさらノコノコやって来たの? あんたのせいよ。あんたがもっと早くわたしに大神官の座を渡していれば、こんなことにはならなかったのよ」
「……波夜……お前が殺したのか……お前の姉だぞ……家族ではないか……」
「はあ? 何を言っちゃっているの? あんたの家族は死んだ旦那と赤ん坊のことでしょ。何かあればその話ばっかり。わたし達なんて、その埋め合わせ、代用品でしょ」
「そんなことはない……お前は私の娘だ」
「だーかーら、娘って赤ん坊のことでしょ。その赤ん坊がわりに愛姫様を愛して、育てて、優先して。わたし達なんてこれっぽっちも愛してなんかいなかったくせに! あんたが愛姫様と一緒にいる時、わたし達は父さんと冷や飯を食っていたわ。あんたはいつも口だけよ!」
「……違う……違う……私は家族を守るために神都を……政治を……」
波姫は頭をかきむしりながら、吐き捨てるように言った。
「ああ、もうたくさん。時、あの人を斬り捨てなさい」
「波姫様のお母様ですが、よいのですね」
「いいって言っているでしょ。もう終わった人間よ。斬り捨てなさい!」
「承知いたしました」
時姫はそう言うと刀を抜いた。
その瞬間、鷹姫の声が響いた。
「ならぬ! 時! 波姫を斬ってはならぬ!」
時姫は波姫の方を振り返り、刀を振ると、すぐに鞘に収めた。
呆然と立つ波姫の首が胴体から離れ、首から血が噴き出した。
波姫の首はころころと転がり、橘樹の足元で止まった。
「無能な人間に従っているフリというものは、案外ストレスがたまるものですね」
時姫が清々したようにつぶやいた。
『婿見せの間』は異常なまでの静けさに包まれていた。
ただ、橘樹の嗚咽だけが聞こえていた。
「私の……大切な……家族が……娘が……」
多比人は、あまりのことに立ち尽くしていた。
雪も茫然として、そっと多比人の手を握った。
橘樹の嗚咽と、声にもならない声が響く中、甘い香りと光る粒子を纏いながら、愛と豊穣の女神がゆっくりと橘樹にむかって歩いていく。
三人の娘の亡骸を抱えて血だらけになった橘樹を、愛姫様はその純白の袖で包んだ。
「ううう……愛姫様……これは報いなのでしょうか……春姫様を憎んだ報いなのでしょうか……私の目の前で命より大事な娘達の死を……こんな惨い報いを……」
愛姫様は何も言わずに、涙を流す血まみれの橘樹を優しく包む。
「愛姫様……私を殺してください……私は人間というものがつくづく嫌になりました……もし来世があるのなら、人間ではなく、木か……動物でも……魚でもいい……人間以外のものにしてください」
幼子に語りかけるように、愛姫様が橘樹に優しく言う。
「妾は人間が好きじゃ」
橘樹が娘達の骸を抱えながら言う。
「人間は、裏切る」
「信じてくれる人もいるのじゃ」
「人間は、人を殺す」
「生むことも出来るのじゃ」
「人間は、奪う」
「分け与えることも出来るのじゃ」
「人間は、噓をつく」
「本当のことも言うのじゃ」
「人間は、いつも自分のことばかり」
「人を思いやれるのも人間じゃ」
「人間は、子を殺し、親を殺す」
「お前が子供たちを、家族を愛していたことを、妾は知っているのじゃ」
橘樹が、大声を上げて泣く。
愛姫様が、優しく橘樹の頭をなでる。
「洞窟にいた妾を、お前が出してくれた日のことを、妾は忘れぬ」
「やさしく育ててくれた日々を、妾は忘れぬ」
「幼い妾が木で作った指輪を、今でも大切にしてくれていることを知っている」
娘の血と、自分の涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、橘樹が愛姫様を見る。
「愛姫様……私はもう、この世にいたくはありません」
愛姫様がその神々しい指で、優しく橘樹の涙をふく。
「橘樹、神々が住む天界に、妾とともに行こう」
「……天界……私のような罪深い者が、そのようなところに行っても……」
「お前は妾の母親なのだ。でかい顔をしておればよいのじゃ」
「あ……愛姫様……ううう……ありがとう……ございます」
愛姫様からこぼれ出る光の粒子が立ち昇り、白く、強く輝きだした。
すさまじい光に多比人達は、目を開けられないほどだ。
愛姫様の隣で草安命が笑い、何かしらそっと愛姫様に話しかける。
愛姫様が嬉しそうに笑う。
橘樹を抱えながら、ゆっくりと愛姫様が天に昇っていく。
愛姫様の体から出た光が、ゆっくりと天を覆い、神界中に広がって行った。
そしてその光が消え、多比人が漸く目を開けて周囲を見渡すと、愛姫様と橘樹はいなくなっていた。
甘い香りがかすかに残っている。
そして橘樹がいた場所には、三人の娘が穏やかな寝息を立てて眠っていた。
次回。最終回です。




