106.武神
初姫が馬上の正明に斬りかかろうとしたその時、突然何本もの矢が初姫に降りかかった。
初姫がさっと後方に避ける。
さらに矢はもの凄い速さで降りかかる。
初姫がさらに後退する。
先ほどまで誰もいなかった宮門の矢倉には、射手の小さな人影が見える。
利姫家臣団随一の弓の名手、杏であった。
『ドガラッ、ドガラッ、ドガラッ、ドガラッ』
そこに悠然と一騎の騎馬武者が馬を走らせ、正明の隣に並んだ。
「朋友よ! 五千をたった一騎で相手にするとは傾奇いているな! ボキも混ぜてくれ!」
正明が兜を上げる。
「これは樽彦氏! 負け戦こそ戦の華。これぞ男子の本懐ナリ!」
「フヒャフヒャフヒャ」
「ニラニラニラニラ」
両雄は固い握手を交わした。
その手はお互い手汗でヌルヌルしていた。
「あれは、利姫様の息子、樽彦様だ!」
兵の一人が叫んだ。
利姫と言えば第一神官家臣団の中でも、武勇に名高い重臣だ。
完全に兵達は浮足立った。
正明一人ですらこんなに強い。それに樽彦まで加わったら……。
「あいつら笑っている……五千人など余裕なんだ……」
「だめだ……やられる……」
「国崩し……皆殺しにされるぞ……」
兵達が口々に恐怖を口にして、後退を始めた。
背を向けて逃げ出す兵もいる。
その時、樽彦の尋常ならざる変態眼が、はるか遠く、多比人の隣で馬に跨る雪を捕えた。
「雪姫様! 我が女神!」
樽彦はそう叫ぶと、一目散に雪をめがけて馬を走らせた。
ちなみに樽彦が馬を動かしているわけではなく、馬が樽彦がやりたさそうなことを察し、樽彦を落とさないように走っていた。馬は利姫の愛馬であった。
五千の大軍は、海を割るようにして、樽彦に道を空ける。
(雪姫様! ボキを罵って! ボキを鞭打って!)
走ってくる一気の騎馬武者を見て、雪は多比人の前に馬を進めた。
「多比人様、あの男は繭ノ庄にいた変態です。今日こそは息の根を止めます!」
「……変態なんて最低だね」
多比人は、自分が時姫からゴッドオブ変態、変態性欲大魔王だと思われていることを知らなかった。
雪が静かに抜刀し、相手を見据える。
(……やっぱりキモい。いつ見てもキモい)
(その目! その虫けらを見るような蔑む目! 女神様最高!)
樽彦の馬がさらに加速する。
兵達が避けて道を空ける。
樽彦は興奮のあまり、犬のように舌を出し、よだれを垂らしながら突進していく。
(ハッ、ハッ、ハッ、ハッ)
(うう……キモい、キモい)
(ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ)
(キモい、キモい、キモい、キモい)
(ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ)
(キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい)
(ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、フヒャ、フヒャフヒャフヒャ……もう……イキそう……)
(キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい……ちょっと……もう無理)
雪が涙目になりながら、突進してくる樽彦を踏んずけようと左足を上げたその時だった。
「双方待て! 勅使である! 控えい! 控えい!」
そう叫びながら、朱塗りの装飾が施された白馬に跨った巫女服の女性が、二人の間に飛び込んできた。
思わず樽彦の馬が急停止する。樽彦がつんのめって、馬の首に頭を打ち付ける。
「勅使様だ!」
「愛姫様の勅使様だ!」
兵士達が口々に叫ぶ。
「我は愛姫様の勅使、第四神官利姫である。一同、控えい!」
その言葉を受けて、五千の兵達が一斉に平伏する。
兵ばかりか、幹部や初姫までもが平伏する。
馬上のままでいるのは多比人と雪だけだ。
「その方が防人、数馬多比人と雪姫であるか」
利姫が威厳に満ちた声でそう言った。
「そうです。僕が数馬多比人。東ノ庄の防人です」
「わたしが多比人様の妻、雪姫です」
あの雪でさえ声が上ずっている。
多比人はまだ見ぬ愛姫様の恐ろしさに震え上がる思いだった。あれほど愛姫様を倒すと意気込んでいた兵達が、愛姫様の勅使が来たというだけで平伏してしまうのだ。神界における愛姫様のカリスマぶりを改めて思い知った。
「愛姫様よりの詔である。両名、愛姫様が『婿見せ』にお呼びである。謹んで来るがよい!」
利姫は周囲の兵にも聞こえるように、声を張り上げた。
兵達があからさまに動揺する。
多比人も負けないくらい大声で応える。
「東ノ庄の防人、数馬多比人とその妻、雪姫が『婿見せ』に参る。愛姫様を討ち取って御覧に入れましょう!」
平伏していた兵達が立ち上がり、一気に歓声が上がる。
刀や槍を鎧に当て、打ち鳴らす。
「その意気や良し。ついてくるがいい」
そう言ってくるりと背を向け、宮門へと馬を進める利姫に、多比人と雪がついて行く。その後には五千の兵が付き従う。
兵達は行軍しながら、脇に立つ正明と樽彦に称賛を惜しまない。
「神界一の強者だ!」
「傾奇者だ!」
「漢の中の漢だ!」
「軍神だ!」
多比人の軍勢が行軍していくのを茫然と見送りながら、樽彦はつぶやいた。
「もうちょっとだったのに……(もうちょっとで踏んづけてもらえたのに)悔しい」
それを聞いた兵達がささやき合う。
「聞いたか、もうちょっとで勝てたと言っているぞ」
「命拾いしたのは防人様だったかもしれない」
「武神、あれはまさしく武神だ」
呆然としている樽彦の傍に正明がやってきた。
「樽彦氏……残念だったな……あと一歩だったな」
「ああ。でも……雪姫様がボキを踏んづけようと片足を上げた時に見えた太腿の内側、最高だった」
「ミー達は愛の戦士。修羅の道は始まったばかりだ」
二人はそう言って、また粘っこい手で固く握手を交わした。
その二人のもとに、結良乃と杏がやってきた。
「はあ~、変態のお守りをするのも大変過ぎますね~。つき合いきれませんよ~。樽彦様~、利姫様が一緒に来るようにって伝言です~」
「ぺったんこ!」
「へっ?」
「ぺったんこ!」
「な、なんですか~、この人の目が怖いです~」
「ぺったんこ~~~!」
そう言って、正明が杏を追い掛け回し始めた。
正明の、その常に追い求めることをやめない姿を見て、樽彦は固く誓った。
自分を鞭打って罵ってくれる女王様を求める修羅の道を、諦めることなく突き進んでいくことを。
これが後々神界で、『武神軍神二人そろえば五千を崩す』と、諺にまでなった戦いである。
そんな戦いを、林の中からずっと見ていた女山賊、勝姫が言った。
「樽彦……超カッコいい! 結婚したい!」




