104.雅姫と利姫
「反乱軍が神都を取り囲んでおります! 兵力、およそ二万!」
大神官執務室に飛び込んできた女官の報告を受けると、先程まで騒がしかった部屋が沈黙した。
「二万か……それに加えて防人様か……」
雅姫が力なくつぶやく。
低く響いた凄い音がする。見てみると、菊姫が大きな硯を床に叩きつけていた。
「うううう……」
菊姫が声にもならない唸り声をあげている。
その菊姫に、意を決して雅姫が言った。
「菊姫様。逃亡兵が相次ぎ、いまや神館を守っている兵は三百もおりません。愛姫様がいらっしゃるとしても、これではまともに戦えません。実は、私は防人様とは面識がございます。大変立派な、情に厚いお方でした。菊姫様、一度防人様とお話ししてみてはいかがでしょうか」
菊姫が雅姫をきっと睨みつける。
「雅姫! お前、防人様と通じていたのか! 私を売ったのか! 誰のおかげでここまでなれたと思っている! 裏切者が! 誰か、この者をひっとらえなさい!」
執務室の入り口に立つ衛兵が、ぎょっとした顔で突っ立っている。
「お前は耳が聞こえないのですか! 雅姫を牢にぶち込めと言っているのです!」
明らかに衛兵が動揺している。
それもそのはず、とっくに本来の衛兵は逃亡してしまい、雅姫の兵が衛兵を務めていたからだ。
「ご無礼仕りました」
雅姫は菊姫に一礼すると、自ら執務室を出て行った。
菊姫がその後ろ姿を恨めしそうに睨んでいると、それと入れ替わりに、女官が執務室に駆け込んできた。
「菊姫様、シノビからの報告です! 防人様が、東ノ庄の時姫様の妹、雪姫様と先日ご婚儀を挙げられたそうです!」
菊姫の顔が、ぱあっと明るくなる。
「何と! 何とタイミングのいいことでしょう! 愛姫様にお知らせするのです。『婿見せ』を行い、防人様を討ち取って頂くのです!」
笑いを抑えきれない菊姫が、利姫に命を下した。
「ようやっと運が向いてきました。利姫、『婿見せ』の準備に取り掛かりなさい! 我々には神がついているということを思い知らせるのです!」
☆ ☆ ☆
城壁の上からは、野営している反神都軍の大量の篝火が見える。
まるで星々が地上に落ちて来たかのようだ。
もの凄い大軍ではあるが、今宵動く気配はなさそうだ。大軍に兵法なし。小細工などせずに、明日の日中、堂々と攻め込むつもりだろう。
それを確認すると、利姫は足早に城壁を降り、立ち去った。
ここは神都の雅姫の館。
夜遅く、同じ第一神官の家臣である、利姫が訪ねて来ていた。
二人の間の机には、徳利ひとつと、杯がふたつ置かれていた。
雅姫が利姫の杯に酒を注ぐ。
「これはうちの城郷ノ庄のとっておきのお酒だよ。お互い今日が最後の夜になるかもしれないからさ。飲んでおくれ」
利姫が雅姫の杯に酒を注ぎ返すと、二人は小さく杯を合わせた。
「思えば利姫、あんたとも長い付き合いだねえ。橘樹様に拾われた時は、どちらも小娘だったのに、年を取ったもんだよ」
利姫が飲み干した杯に、雅姫が酒を注ぐ。
しばしの沈黙を破って、利姫が口を開く。
「雅姫、菊姫様への忠義も、もうそろそろ良いのではないか」
雅姫は微笑むばかりで、口を開かない。
「今日の菊姫様のお言葉を聞いただろ。お前を牢にぶち込めと言ったのだ。ここまで忠義を尽くしているお前にだ。酷いものだ」
部屋から見える庭は、白々しく月に照らされている。
「お前はもう菊姫様から無用と言われたのだ。神都を離れ、落ち延びろ」
雅姫がふっと笑う。
「利姫、あんたは昔からそういうお人よしのところがあるねえ。あんただって早くお逃げよ。菊姫様には万が一にも勝ち目がないって分かっているだろ」
「それは分かっている。でも、菊姫様はお前を牢に入れろって言ったんだぞ。忠義者のお前を」
「私のためにそんなに悔しがってくれるなんて、あんたは本当にお人よしだよ。だから私はあんたのことを、誰よりも信頼しているのさ。」
「バカ言え……私はただ……」
利姫はそう言って、下を向いた。
「私は実はね。東ノ庄の防人様に、息子の命を救ってもらったことがあるんだよ」
「貴頼のことか」
「そうさね。その時誓ったのさ。私の命より大切な息子の命を救ってくれた防人様に、この命に代えても恩返しするってね。でも、今、それは私をここまでにしてくれた、菊姫様への忠義に反することになる」
雅姫が杯に口をつける。
「菊姫様に忠義を立てれば、貴頼の命を救ってもらった防人様への義に反する。忠ならんと欲せば義ならず。義ならんと欲せば忠ならずってやつだね」
「……雅姫……おまえ……」
「どっちみち、この命を懸けるほかはないねえ。私は防人様を愛姫様から命がけでお守りし、最後の最後では防人様にこの命を差し出して、菊姫様の命ばかりは助けてもらうつもりだよ。」
「……」
「そんなことより、利姫。あんたこそ早くお逃げよ。私と違って、菊姫様の古参の家臣って訳じゃないんだ。明日の勅使なんて、やめておしまいよ。誰も咎めはしないよって、もう誰も残っちゃいないねえ。うふふふふ」
利姫は、雅姫が一度こうと決めたら決して意思を曲げないことを知っていた。雅姫は死ぬ覚悟が出来ている。それに対して自分は、そこまでの覚悟が出来ていない。息子の樽彦が冬芽橘樹の世話係として残っているからだ。
「樽彦が……橘樹様のお世話係としてまだ残っている」
「そうだったねえ! 一緒に連れてお逃げよ。防人様には事情を書いた手紙を私が書くからさ、それを持っておいきよ」
忠と義を両立させようと、死を覚悟した雅姫と違い、自分は樽彦を守るために生きていたい。忠にも義にも、そこまで一途にはなれない。自分はいつも中途半端な人間だ。きっとそこが、いつまでたっても雅姫に敵わない理由なのだろうと、利姫は思った。
利姫は雅姫に書いてもらった手紙を手に、館を後にした。
その足で、神館の樽彦の部屋へと向かった。
「これは母上! このような夜更けにどうされたのです。そう言えば連日お疲れでしょう。さあさあ、ボキの布団に横になってください。たまには昔のようにマッサージして差し上げましょう」
利姫は樽彦に言われるがまま、さっきまで樽彦の寝ていた布団に横になった。
脂っぽい樽彦の臭いがする。かわいい我が子の臭いだ。
樽彦が全身を優しく揉みほぐしてくれる。
今までの疲れが溶けていくようだ。
ずっとこうして息子とふたりで静かに過ごしていたい。
「母上、ボキは逃げませんよ」
マッサージをしながら、樽彦が言った。
「ボキは橘樹様と鷹姫様の監視及び警護を任されました。敵に負けそうだからと言って、それはお役目を放棄する理由にはなりません」
「……明日には、この神都は敵兵に蹂躙されます。あなたの命もありませんよ」
「ボキは(愛する雪姫様のおばあ様である鷹姫様を守るために)命を懸けます。ボキは(雪姫様にご褒美で踏んずけてもらうために)決して逃げません! 明日兵が攻めて来ても(雪姫様に蹂躙されるのであれば)望むところです! それに同朋も来てくれます!」
自分の息子がいつの間にか立派に成長していることに、利姫は驚いた。
忠にも義にも迷い、息子を連れて自分だけ逃げようとすることにも躊躇している。そんな自分とは違い、息子の目はまっすぐだった。
「……母は……あなたに道を教えられたようです……いつのまに立派になって……」
利姫は涙を流しながら、笑顔で自分の愛する息子を見つめた。
そして蠟燭の火で、雅姫に書いてもらった手紙を燃やした。
○或る日の大神官様(その5)
「鷹姫、お前は若い頃、相当モテたであろう」
「まあな。でも、たまにはひとりで寝たい日もある。あれはあれで鬱陶しいものよ」
「……そうか……」
「おまえはどうなのだ橘樹。大神官ともなればモテモテであろう」
「あ、そ、その通りだ! モテモテに決まっているだろう! 男も多すぎると鬱陶しいものよ。あはははは!」




