101.人を憎む者と、諦めてしまった者
「時姫が裏切っただと?」
将棋盤から目を離さずに、橘樹が樽彦に聞く。
「今朝の政庁の会議で、ボキはそう聞きました! 東ノ庄の残党と、柿ノ木龍前殿の兵を従え、神都に進行しつつあると。およそ二千の兵力だそうです」
「そもそも時姫は最初から敵だ。菊姫の言う通りに動くわけがなかろう。兵を与えて外に出すなど、猛獣に剣を与えるようなものだ」
炬燵に入りながら、橘樹は鷹姫と将棋を指している。
丸い木箱の中から橘樹が樽彦にお菓子をあげると、樽彦が美味しそうに食べる。
「あの子がとうとう公然と反旗を翻したか。既に勝てると読んでおるな。あの子はそういう子だ」
そう言って鷹姫は桂馬を跳ねた。
「頼光に龍前。どちらも私の部下だ。それが神都に向かって攻めてくると言うのは皮肉だな。それ、王手だ」
鷹姫の王将の頭に、銀将を打ちながら橘樹がつぶやく。
「おっと、大切な王将を失うわけにはいかんからな」
そう言って、鷹姫は王将を逃がした。
「そう言えば、鷹姫、お前の一番大切なものとは何だ」
「……大切なものか……大切なもの……そう言われてみれば、私にとって大切なものなどないのかもしれないな」
鷹姫がそう言って静かに笑う。
「そんな訳はなかろう。時姫や雪姫は大切ではないのか」
「そりゃ確かに大切だ。ただ、お前が聞いているものとは違う気がする」
鷹姫が将棋の駒の位置を直す。
「……そうか、私にとって大切なものとは姉だったのだ。ずっと姉に憧れ、姉とともにいたいと願っていた」
「春姫様か。あの人は特別だったな。何もかも特別だった」
「そうだ。姉は私のすべてだった。姉の少しでも役に立ちたい。姉と一緒に歩みたい。そのことこそが私の大切なものだった。その姉が民衆から手のひらを返すように非難されて下界に去ってしまい、私は姉を奪われた。私はそれを許せなかった。民衆の願いを聞き入れて愛姫様を討ったのに、どうしてそれを非難されなければならないのか」
寂しそうに鷹姫は微笑んだ。
「その時私は思ったのだ。民衆は、人とはそういうものだ。はなから理というものを持たないものなのだ。悲しかったら嘆き、怒りにまかして取り返しのつかないことをする。正しい行いを期待するほうが愚かだったのだ。その時から、私は民衆に、人に期待しなくなってしまった」
「お前も人が憎いのか?」
「橘樹、この前お前が話してくれた、夫を殺し、赤子を殺した民衆が憎いというのとは違う。もっと質が悪いのかもしれない。私は人というものに全く期待しなくなった。諦めてしまったのだ」
「人に対して諦めたと」
「そうだ。だから何も望まない。期待しない。だから大切とも思わない。必要とは思うが大切ではない。橘樹、お前の憎いというのは人に期待している裏返しだ。まだ人のことが好きでありたいと願っている。私は……空っぽだ、何もない。本来姉がするはずだった庄長という役割を、姉の劣化版の私が何となくこなしていたにすぎない」
「……お前にそこまで言わせるとは……返す返すも春姫様は偉大な方だったな。今こうして考えてみると、私がすべてを春姫様のせいにして逆恨みしていたのも、春姫様ならすべて鯨のように飲み込んでくれると甘えていたのかもしれない」
「飲み込む?」
「ああ。天の太陽にどれだけ罵詈雑言を浴びせようと、唾を吐きかけようと、太陽は全く意に介せずに輝いておる。春姫様はそんなお方だった」
「……太陽を失った私は、いまだ暗闇をさ迷っているようなものだ。その闇に現れたのが多比人だったな。そうか、私の大切なものと言えば多比人だな」
「春姫様の孫、防人を継いだ男か」
「ああ、姉とは全然違う。カリスマも無ければ頼りない男だ。でも、やっぱり多比人からは姉を感じるのだ。何かを期待してしまいそうになる」
「ふふ。よかったな、きっと春姫様がお前のために寄越したのだろう」
「橘樹。お前はやっぱり優しいな、いい奴だ。……それで、お前の大切なものは何だ」
「……私は家族だ。あの娘達は不出来だが、私の宝だ」
「そう言うと思ったよ」
「あの三人が助かるなら、この神界も、地位も、金もすべていらん。この私の命すら差し出せる。もう価値があるかどうかは分からんが」
「ふふっ、私の命も同じだ。もう価値などない」
「なあ、鷹姫。こんな厚かましい願いをお前に言うのはどうかと思うが、娘の命ばかりは助けてくれんか。遠くの山里で、私達四人でひっそり暮らす。だから多比人や時姫に、そう伝えてはくれぬか。頼む」
そう言って、橘樹は炬燵から出て鷹姫に頭を下げた。
「やめよやめよ。私に頭を下げられても何も出来ぬ。決めるのは多比人達だ」
橘樹は頭を下げたままだ。
「……まあ、少しは私から言ってみよう」
「本当か!」
橘樹ががばっと顔を上げて鷹姫を見る。
「ただ、多比人はともかく、時は昔から人の言うことを聞かぬ。私が言ってもどれほどの役に立つか……」
「ありがとう。すまぬ、すまぬ」
そう言って橘樹は鷹姫の手を取り、自分の額に当てて感謝していた。
樽彦はその姿を見て、神界中の誰もが恐れる大神官冬芽橘樹様と言えど、一人の母親でしかないと思った。
最近忙しくてほとんど寝ていない、母の肩でも揉んであげようと、樽彦は思った。




