第七十五話 君と過ごす、約束の土曜日
次の日の朝。
カーテンの隙間から差し込む日差しに、私はゆっくりと目を開けた。
今日は、莉奈と二人で出かける日。
ずっと前に約束したことなのに、ここ数日は神社での出来事があまりにも大きくて、少し遠いことのように感じていた。
でも、昨日ですべてが終わった。
扉の向こうにいた人と巫女さんは、ようやく自分たちの願いを伝え合えた。
守り手としての役目も、もう終わり。
私の手元には、小さな鈴だけが残っている。
鈴を手に取って、そっと眺めた。
「……今日くらいは、難しいこと考えなくてもいいよね」
誰に言うでもなくつぶやいて、私は鈴を机の上に置いた。
今日の私は、神社のことを考えるためじゃなくて。
莉奈と一緒に過ごすために、ここにいる。
◇
「湊、おはよ!」
待ち合わせ場所に着くと、莉奈がこちらに気づいて手を振った。
淡い色のカーディガンに、いつもより少しだけおしゃれな髪型。
その姿を見た瞬間、胸がふわっと浮かんだ。
「お、おはよう、莉奈」
「……ん? どうしたの?」
「えっ?」
「なんか、じーっと見てたから」
「そ、そんなに見てないよ!」
「ふふっ。ほんとかな?」
莉奈は楽しそうに笑った。
……朝から調子が狂う。
いや、莉奈と二人きりだと、いつもこんな感じなのかもしれない。
「じゃあ、行こっか」
「うん!」
並んで歩き始める。
いつもなら学校でみんなと話しながら歩く道も、今日は少し違って見えた。
隣にいるのは莉奈だけ。
それが、なんだかくすぐったくて、うれしい。
◇
最初に向かったのは、駅前のショッピングモールだった。
「湊、こっちのお店見てもいい?」
「もちろん」
莉奈に手を引かれて、雑貨屋に入る。
かわいい小物やアクセサリーが並ぶ店内で、莉奈は楽しそうに商品を眺めていた。
「これ、湊に似合いそう」
そう言って差し出されたのは、小さな星のついたヘアピンだった。
「私に?」
「うん。髪につけたらかわいいと思う」
「か、かわいいって……」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど……」
莉奈が私の顔をのぞき込む。
からかっているようで、でも、その目はちゃんと私の返事を待っていた。
「……じゃあ、ちょっとだけ見てみようかな」
「やった!」
莉奈はうれしそうに笑うと、私の髪にそっとヘアピンを当てた。
「うん。やっぱり似合う」
「……ほんと?」
「ほんとだよ」
鏡に映る自分を見る。
そこにいるのは、女の子になった私。
以前なら、こんな自分の姿をどう受け止めればいいのか、戸惑っていたかもしれない。
でも今は。
莉奈が選んでくれたものを、素直にかわいいと思えた。
「……これ、買おうかな」
「えっ、いいの?」
「うん。莉奈が選んでくれたから」
口にしてから、急に恥ずかしくなった。
莉奈も少しだけ目を丸くして、それから頬を緩めた。
「そっか。じゃあ、私が選んだってこと、覚えててね」
「忘れないよ」
その言葉は、思ったより自然に出てきた。
◇
お昼は、二人でカフェに入った。
窓際の席に座り、私はオムライス、莉奈はパスタを注文する。
料理が届くまでの間、私たちは最近の学校のことや、みんなとの何気ない会話を話していた。
「そういえば、彩花が言ってたよ。二人で出かけるって聞いて、すっごく気にしてた」
「えっ、何を?」
「『湊、ちゃんと莉奈をエスコートするんだよ!』って」
「な、なんで私が!?」
「それから美咲は『莉奈のほうがしっかりしてるから大丈夫でしょ』って」
「美咲まで……!」
思わず頭を抱えると、莉奈が声を立てて笑った。
「みんな、湊のこと大好きだよね」
「それ、絶対からかわれてるだけだよ……」
「ふふっ。そうかな?」
莉奈はストローを指先でくるりと回した。
「私は、今日楽しみにしてたよ」
「……え?」
「湊と二人で出かけるの」
まっすぐな言葉だった。
いつものように冗談めかすこともなく、莉奈は少し照れた顔で続けた。
「学校だと、みんなでいることが多いでしょ? もちろん、それも楽しいんだけど……今日は、湊とゆっくり話したかったから」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……私も」
「ほんと?」
「うん。私も、楽しみにしてた」
神社のことがあってから、たくさんのことを考えた。
誰かを大切にすること。
自分の気持ちを自分で選ぶこと。
相手を思うからこそ、自分の願いも伝えること。
だけど、こうして莉奈と向かい合っていると、難しい言葉にしなくてもいいのだと思えた。
ただ、一緒にいたい。
今日を楽しみたい。
それだけで、十分うれしい。
「ねえ、湊」
「なに?」
「また二人で出かけようね」
「……うん。ぜひ」
「次は、私が行きたいところを考えておく!」
「じゃあ、私は今日のお礼に何か考えようかな」
「お礼なんていらないよ。一緒に遊びたいだけだもん」
莉奈はそう言って、にっこり笑った。
その笑顔を見ていると、私まで自然と笑ってしまった。
◇
午後は、近くの公園まで歩いた。
少しずつ傾き始めた日差しの下、並んでベンチに座る。
買ったばかりのヘアピンを指先で確かめながら、私はふと口を開いた。
「……莉奈」
「ん?」
「昨日、神社でいろんなことが終わったんだ」
莉奈は静かにうなずいた。
「うん。話してくれたよね」
「守り手の役目も、もうないんだって。だから、これからは自分がどうしたいかを考えていいんだと思う」
「うん」
「……でも、何もなくなったら、急に何をしたらいいのか分からなくなるのかなって、少し思ってた」
神社へ向かう理由がなくなった。
鈴に導かれることも、何かの答えを探すことも、もうない。
そうなったら、自分の中にぽっかり穴が開くのかもしれない。
ほんの少しだけ、そんな不安もあった。
「でもね」
私は隣に座る莉奈を見た。
「今日、すごく楽しかった」
「……うん」
「お店を見たり、ご飯を食べたり、こうして話したり。そんな普通のことが、すごく大切なんだなって思った」
莉奈は何も言わずに聞いてくれていた。
「私、今の自分が好きだよ。前とは違うところもたくさんあるけど、今の私だから出会えた人もいるし、知ることができた気持ちもあるから」
それから、少しだけ勇気を出して付け加えた。
「……莉奈と出会えたことも、そのひとつ」
言った瞬間、頬が熱くなった。
莉奈も驚いたように目を丸くしていたけれど、やがてゆっくりと笑った。
「私も、湊と出会えてよかった」
「……ほんと?」
「うん。湊が笑ってると、私もうれしくなるんだ」
莉奈の指先が、ベンチの上でそっと私の手に触れた。
離れようとは思わなかった。
私からも、ほんの少しだけ手を寄せる。
指が重なり、莉奈がそっと握ってくれた。
「これからも、いろんなところに行こうね」
「うん」
「楽しいことも、悩むことも、二人で話せたらいいな」
「……そうだね」
私は握られた手を見つめた。
鈴がなくても、道しるべがなくても。
誰かに答えを教えてもらわなくても。
自分で選んで、この手を取ることができる。
それが、今の私にとって、とても大切なことに思えた。
◇
帰り道、駅へ向かう途中で莉奈が立ち止まった。
「湊、ちょっと待って」
「どうしたの?」
莉奈は鞄から小さな包みを取り出した。
「これ、今日のお土産」
「えっ、私に?」
「うん。さっきのお店で見つけたの。湊が買ったヘアピンと合いそうだなって」
包みの中には、小さな星のチャームが入っていた。
「……かわいい」
「よかった。気に入ってくれるかなって、ちょっと迷ったんだ」
「ありがとう、莉奈。大切にするね」
「うん!」
私はチャームをそっと握りしめた。
今日のヘアピンも、この小さな贈り物も。
いつか思い返したとき、きっと今日のことを思い出すのだろう。
莉奈と二人で歩いた道。
一緒に食べたお昼ご飯。
何気ない会話と、重ねた手の温かさ。
特別な奇跡なんてなくても、こんな一日がある。
そして、また次の一日がやってくる。
「莉奈」
「なあに?」
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ。すっごく楽しかった!」
莉奈は少しだけ名残惜しそうにしながら、それでもいつもの笑顔を見せた。
「また月曜日にね、湊」
「うん。また月曜日!」
手を振って別れたあと、私はしばらくその場に立っていた。
寂しさは、少しだけある。
でも、それ以上に次に会えるのが楽しみだった。
鞄の中には、小さな鈴がある。
もう、何かを決めてくれるものではない。
ただ、私が自分で選んできた道を忘れないためのもの。
私はそれを確かめるように鞄に触れ、歩き出した。
これから、どんな私になっていくんだろう。
まだ分からない。
だけど――。
「……楽しみだな」
小さくつぶやいた声は、夕暮れの街に溶けていった。
次に莉奈と会うときは、今日より少しだけ素直に、自分の気持ちを伝えられるだろうか。
そんなことを考えながら、私は家路を急いだ。
ちなみにもう少しで完結したいと思ってる




