第七十三話 開かれた扉、その向こうに
翌朝、目が覚めた瞬間、私は今日が特別な一日になるような気がした。
理由は分からない。
ただ、いつもなら最初に考える学校のことよりも、昨日の神社での出来事が頭に浮かんでいた。
扉の向こうの人。
巫女さん。
そして、ふたりがようやく口にした本当の願い。
もう一度、同じ明日を生きたい。
その願いが、どうか届いてほしいと思った。
「……よし」
私はベッドから起き上がり、制服に着替えた。
鞄につけたピンク色の鈴のキーホルダーが、窓から差し込む光を受けて揺れている。
もうひとつの鈴は、鞄の中にしまってある。
以前は、音が鳴るたびに何かが起こるんじゃないかと身構えていた。
でも今は、違う。
何が起きても、自分で考えて選べばいい。
そう思えるようになっていた。
◇
「湊、おはよう!」
教室に入ると、莉奈がすぐに声をかけてきた。
「おはよう、莉奈」
「今日、放課後はどうする?」
「……神社に行こうと思ってる」
私が答えると、莉奈は少しだけ表情を引き締めた。
「扉のこと?」
「うん。あの人が、自分の願いをどうしたいのか、もう一度聞きたいんだ」
「そっか。じゃあ、今日も一緒に行くね」
あまりにも自然な返事だったので、私は思わず笑ってしまった。
「莉奈、最近ずっと一緒に来てくれるね」
「だって、湊がひとりで抱え込まないようにしたいもん」
「……ありがとう」
「それに」
莉奈は、少しだけ顔を近づけた。
「湊と一緒に帰れるの、私も嬉しいし」
「えっ……!」
思わず声が裏返った。
莉奈はいたずらっぽく笑う。
「ふふっ、照れた?」
「て、照れてないよ!」
「ほんとかなー?」
朝からそんなやり取りをしていると、美咲が呆れたようにこちらを見た。
「はいはい、朝から仲がよろしいことで」
「美咲!」
私が抗議すると、彩花まで笑い出した。
「もう、ふたりって本当に分かりやすいよね!」
「彩花まで……!」
顔が熱くなる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
こんなふうにからかわれて、笑っていられる日常が、今の私には大切だった。
◇
放課後。
私たちは、凛や沙耶たちと合流して神社へ向かった。
鳥居をくぐると、境内には不思議なほど静かな空気が流れていた。
風はほとんどない。
木々の葉も動いていない。
まるで、この場所だけが何かを待っているようだった。
「……今日は、いつもと違うね」
結衣が小さく呟いた。
「うん」
私は頷いた。
胸元の鈴を握る。
すると、手のひらにじんわりと温かさが広がった。
音は鳴らない。
それでも、奥へ進むべきだと感じた。
社の奥には、巫女さんが立っていた。
「お待ちしておりました」
いつもと変わらない穏やかな声。
けれど、その表情には、長い間待ち続けていた人の緊張が浮かんでいた。
「本日、あの方はひとつの決断をなさいました」
「決断……?」
私が尋ねると、巫女さんは扉を振り返った。
「ご自身の願いを、もう一度、私に伝えてくださったのです」
そして、扉に向かって静かに語りかけた。
「どうか、お聞かせください。今度こそ、あなたのお心を」
しばらくして、扉の向こうから声が響いた。
『私は、もう一度、この者と同じ明日を生きたい』
巫女さんの肩が、わずかに震えた。
『守るために離れるのではなく。失うことを恐れて黙るのでもなく。これからどう生きたいのかを、この者と一緒に考えたい』
その声は、以前よりもずっとはっきりしていた。
『それが、私の願いだ』
次の瞬間。
扉に刻まれた二つの曲線が、強く輝いた。
「わっ……!」
沙耶が思わず声を上げる。
光は扉の紋様をなぞるように広がり、やがて中央へと集まっていった。
私の手の中で、鈴が澄んだ音を響かせた。
チリン――。
今までに聞いたどの音よりも、優しい響きだった。
「これは……!」
凛が目を見開く。
巫女さんは、光に包まれた扉を見つめていた。
「ようやく……ここまで来られたのですね」
扉の中央に、細い光の筋が走った。
そして。
――カチリ。
小さな音がした。
長い間、閉ざされていた扉が、ゆっくりと動き始めた。
◇
誰も、声を出せなかった。
扉が開く。
ただそれだけのことなのに、そこに至るまでにどれほど長い時間が必要だったのか。
私は、その重みをすべて理解できているわけではない。
それでも、今ここにいる誰もが、この瞬間を待っていたのだと感じた。
扉の向こうには、小さな部屋があった。
古い祭壇。
淡い光を放つ二つ目の鈴。
そして、その前に静かに座るひとりの人物。
長い時間を越えてきた人。
その人は、ゆっくりと顔を上げた。
『……久しぶりだな』
巫女さんは、一歩だけ前へ進んだ。
「はい。お久しゅうございます」
『ずいぶん、待たせてしまった』
「本当に、ずいぶんと待ちました」
巫女さんは、困ったように笑った。
「ですから、これからは少しずつ、その時間を取り戻してまいりましょう」
その人は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
『……ああ』
その短い返事には、今まで口にできなかったたくさんの気持ちが込められているようだった。
私は、ふたりの姿を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
扉を開けたのは、鈴の力だけではない。
誰かが代わりに願いを叶えたわけでもない。
この人が、自分の願いを口にしたから。
巫女さんが、その願いを聞き、自分の願いも伝えたから。
ふたりがようやく、お互いの気持ちに向き合ったから。
だから、扉は開いたのだ。
◇
「……よかったね、湊」
莉奈が、そっと私の手を握った。
「うん……本当によかった」
私は笑った。
その人は、こちらへ視線を向けた。
『お前が、今の守り手か』
「は、はい。湊です」
『そうか』
その人は、私の手にある鈴を見つめた。
『お前は、私と同じ道を選ばなかった』
「はい」
私は、まっすぐに答えた。
「私は、私の道を選びたいです。誰かを大切にしながら、自分の気持ちも大切にしていきたい」
『……よい答えだ』
その人は、ほんの少し笑った。
『守り手とは、誰かの選択を引き継ぐ者ではない。自分の意思で、これからを選ぶ者なのだな』
「……はい」
『ならば、お前に伝えておこう』
その人は、祭壇に置かれたもうひとつの鈴を手に取った。
『この鈴は、私が手放せなかった願いの証だ。だが、もう私だけのものではない』
鈴の表面に刻まれた紋様が、淡く光る。
『これからは、お前たちが自分の意思で生きていくための証として、この場所に残そう』
私は、その言葉を静かに受け止めた。
もう、鈴が何かを決めてくれる必要はない。
私たちは、自分で選べる。
そして、選んだ先で誰かと出会い、支え合いながら、また新しい明日を作っていける。
それこそが、この鈴が伝えたかったことなのかもしれない。
◇
神社を出るころには、夕日が境内を優しく照らしていた。
巫女さんと、扉の向こうにいた人は、社の前に並んで立っていた。
まだ、すべてが解決したわけではない。
長い時間の中で失われたものが、すぐに戻るわけでもない。
それでも、ふたりはこれからのことを一緒に考えられる。
それだけで、十分に大きな一歩なのだと思った。
「湊」
莉奈に呼ばれて、私は振り返った。
「帰ろっか」
「うん!」
私は、みんなの顔を見渡した。
凛も、沙耶も、美咲も、彩花も、結衣も。
みんな笑っていた。
私は今の自分を選んだ。
その選択の先で、この人たちと出会えた。
もし、あのとき違う道を選んでいたら。
今の私は、ここにいなかったのかもしれない。
でも、そんなことを考えても、もう不安にはならなかった。
だって、今の私は、この毎日が好きだから。
隣にいる莉奈の手を、ぎゅっと握る。
「ねえ、莉奈」
「なに?」
「これからも、いっぱい一緒に出かけようね」
莉奈は、一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに笑った。
「うん。約束!」
夕暮れの道を、私たちは並んで歩き始めた。
閉ざされていた扉は、ついに開いた。
そして今度は、私たち自身の明日が、ゆっくりと始まろうとしていた。




