第七十二話 あなたと見たかった明日
翌日の放課後。
私は莉奈たちと一緒に、いつもの神社へ向かっていた。
昨日、扉の向こうにいる人は、初めて自分の願いを口にした。
――もう一度、あの者と話がしたい。
その言葉を聞いたとき、私は嬉しかった。
長い間、誰かを守ることだけを考えてきた人が、ようやく自分自身の望みを伝えようとしている。
それはきっと、小さなことじゃない。
「湊、今日は少し嬉しそうだね」
莉奈が隣から私を覗き込んだ。
「そうかな?」
「うん。昨日より表情が柔らかい」
「……あの人が、自分の願いを話してくれたからかな」
私は鞄についたピンク色の鈴のキーホルダーに触れた。
「願いを言葉にするのって、勇気がいると思うんだ。だから、あの人が一歩進めたことが嬉しい」
「湊も、そうやって自分の気持ちを話せるようになったもんね」
「えっ?」
「最初のころは、何かあるとひとりで考え込んでたでしょ?」
莉奈は少し懐かしそうに笑った。
「今は、ちゃんと話してくれるようになったから」
「……それは、みんなが聞いてくれるからだよ」
そう答えると、莉奈は一瞬だけ目を丸くした。
それから、優しく笑った。
「そっか。じゃあ、これからもいっぱい聞かせてね」
「うん」
その約束が、今はとても嬉しかった。
◇
神社の奥に着くと、巫女さんが扉の前に立っていた。
「お待ちしておりました」
「今日は、あの人と話せそうですか?」
私が尋ねると、巫女さんは静かに頷いた。
「ええ。あの方も、伝えたいことがおありのようです」
巫女さんが扉に手を添える。
「どうか、あなたのお言葉をお聞かせください」
しばらくして、向こう側から声が響いた。
『……昨日、私は願いを口にした』
「はい」
『だが、願いを口にすれば、それで何かが変わると思っていたわけではない』
落ち着いた声だった。
『私は、長い間、自分の選択を正しかったと思おうとしてきた。守りたいものを守れたのだから、それで十分なのだと』
私は黙って耳を傾けた。
『けれど、お前たちと話しているうちに、気づいたことがある』
「何に、ですか?」
『私は、守れたものばかりを数えていた。失ったものについて考えることが怖かったのだ』
扉の向こうで、かすかに衣擦れのような音がした。
『あの者と過ごした時間。共に笑った日々。いつか一緒に見ようと話していた景色。それらを自分から手放したのだと認めれば、選択をやり直したくなってしまうから』
巫女さんは目を閉じた。
その表情を見て、私はようやく分かった。
巫女さんもまた、ずっと同じ時間を抱えていたのだ。
「……後悔しているんですか?」
私は尋ねた。
少しして、返事があった。
『後悔はしている』
はっきりとした答えだった。
『だが、守ろうとしたことまで間違いだったとは思わない。あのときの私は、本当にそうするしかないと思っていた』
「……はい」
『ただ、もしもう一度選べるのなら』
声がわずかに震えた。
『今度は、あの者にも相談したい。自分ひとりで答えを決めず、あの者が何を望んでいるのかを聞きたいのだ』
巫女さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……それが、あなたの本当の願いなのですね」
『ああ』
「守るために、ひとりで決めるのではなく」
『ああ』
「あなた自身の願いも、相手の願いも、どちらも大切にしたいと」
『……そうだ』
扉の紋様が、淡く輝いた。
向かい合う二つの曲線。
その光は、昨日よりも少しだけ強く見えた。
◇
「巫女さんは……どう思っているんですか?」
私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ずっと、あの人が自分の願いを話すのを待っていたんですよね」
「はい」
「でも、巫女さん自身は、どうしたかったんですか?」
巫女さんは驚いたように私を見た。
「……私の願い、ですか」
「はい。あの人が幸せになってほしいっていうのも、もちろん本当だと思います。でも、巫女さん自身がどうしたいのかも、聞きたいです」
莉奈が、私の隣で小さく頷いた。
「誰かのために頑張っている人にも、自分の気持ちを話してほしいですよね」
巫女さんはしばらく黙っていた。
そして、扉を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「私は……もう一度、あの方と並んで歩きたいのです」
静かな声だった。
「この社を守る者としてではなく、神の使いとしてでもなく。ただ、かつてのように、あの方と同じ道を歩きたい」
彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「いつか一緒に見ようと約束した景色を、今度こそ一緒に見たいのです」
扉の向こうから、息を呑むような気配がした。
『……お前も、そう願っていたのか』
「ええ」
巫女さんは、まっすぐに答えた。
「私は、あなたに守られたことを恨んでいるわけではありません。あなたが私を大切に思ってくださったことも、分かっています」
そこで、ほんの少しだけ微笑む。
「けれど、私はあなたと一緒に考えたかった。あなたが何を怖がっていたのか、何を守りたかったのか。そして、あなた自身が何を望んでいたのか」
『……すまなかった』
「もう、謝らなくていいのです」
巫女さんの声は、穏やかだった。
「今、こうして話してくださっている。それが、私には何より嬉しいのですから」
私は胸がいっぱいになった。
ふたりとも、相手を大切に思っていた。
だからこそ、相手を傷つけたくなくて、自分の気持ちを伝えられなかった。
そして、長い時間が過ぎてしまった。
でも、今なら。
まだ、伝えられることがあるのかもしれない。
◇
「……あの」
私は一歩、扉に近づいた。
「ふたりの願いは、ちゃんと分かりました」
扉の向こうも、巫女さんも、静かに私の声を聞いている。
「でも、私はふたりの代わりに、どうするべきかを決めることはできません」
『分かっている』
「だから、これからどうしたいのか、ふたりで話してほしいです。今まで何があったのかも、何を後悔しているのかも、これからどうなりたいのかも」
私は自分の鈴を握りしめた。
「もう、どちらかひとりだけが我慢する必要はないと思うんです」
手の中で、鈴が小さく揺れた。
「私は、今の自分を選びました。でも、その選択ができたのは、周りにいてくれた人たちが、私の気持ちを聞いてくれたからです」
莉奈の手が、そっと私の背中に触れた。
「だから今度は、ふたりがお互いの気持ちを聞いてほしいんです」
しばらくして、扉の向こうから返事があった。
『……ああ。そうしたい』
巫女さんも頷いた。
「私も、今度こそ自分の願いを隠さずに、お伝えいたします」
その瞬間。
扉に刻まれた二つの曲線が、同時に輝いた。
鈴が、澄んだ音を響かせる。
チリン――。
けれど、扉そのものは開かなかった。
光はゆっくりと落ち着き、境内には再び静けさが戻ってくる。
「……まだ、開かないんですね」
沙耶が呟いた。
「ええ」
巫女さんは扉を見つめた。
「けれど、もう以前と同じ扉ではありません」
彼女は振り返り、私たちに微笑んだ。
「今までは、あの方がご自身の願いを封じるための扉でした。今は、その願いを伝えるための扉になりつつあります」
凛が、小さく息を吐いた。
「だったら、もう少しだね」
「はい。あとは、あの方ご自身が決めることです」
私は頷いた。
無理に扉を開ける必要はない。
大切なのは、扉が開くことだけじゃない。
その向こうにいる人が、自分の意思で一歩を踏み出せることなのだから。
◇
帰り道。
莉奈が私の隣を歩きながら、そっと尋ねた。
「湊はさ、これから先、どんな明日を見たい?」
「え?」
「神社のことが全部終わったら。どんな毎日を過ごしたい?」
私は少し考えた。
朝起きて、学校へ行って、みんなと話して。
お昼には莉奈と一緒にご飯を食べて、放課後には寄り道をして。
休日には、ふたりで出かけたり、みんなで遊んだり。
そんな何気ない日々。
「……今みたいな毎日がいいな」
私は答えた。
「みんなと笑って、莉奈と一緒にいろんなところへ行って。これからも、少しずつ新しいことを経験していきたい」
「うん」
「それで、いつか振り返ったときに、今の自分を選んでよかったって、何度でも思えたらいいな」
莉奈は足を止めた。
「……じゃあ、これからも一緒にいようね」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「莉奈……」
「私も、湊と一緒にいろんな明日を見たいから」
莉奈は照れくさそうに笑った。
私も、笑い返した。
「うん。約束」
私たちは、自然に手を繋いだ。
夕暮れの道を、ふたり並んで歩いていく。
神社の扉は、まだ閉じたままだ。
でも、そこにいるふたりは、ようやく自分の願いを伝え始めた。
きっと、あと少し。
そして、扉が開いたその先で、私たちもまた、新しい明日を選ぶことになる。
その日を、私は楽しみに待っていた。




