第七十話 巫女が守り続けた、本当の願い
翌日の放課後。
私は莉奈、凛、そしてみんなと一緒に、あの神社へ向かっていた。
今日こそ、すべてを聞く。
扉の向こうにいる人が、何を選んだのか。
巫女さんが、どうしてずっとここにいるのか。
そして――私が、これから何を選ぶことになるのか。
「湊。無理に全部を受け止めようとしなくていいからね」
隣を歩く莉奈が、そっと私の手を握った。
「うん。でも、ちゃんと聞きたいんだ。誰かが選んだことを、知らないままにしたくないから」
「……湊らしいね」
莉奈は小さく笑って、手を握る力を少しだけ強めた。
その温かさを感じながら、私は神社の鳥居をくぐった。
◇
「お待ちしておりました」
社の奥で、巫女さんが静かに頭を下げた。
いつもと同じ穏やかな表情。
けれど、今日はその目に、どこか決意のようなものが宿っていた。
「本日は、すべてをお話しいたしましょう」
私たちは、閉ざされた扉の前に集まった。
「まずは、私自身のことから」
巫女さんは、扉を見つめながら話し始めた。
「私は、かつてこの神社に仕えていた者ではありません。もともとは、ただの人間でした」
「人間……?」
沙耶が驚いたように声を上げる。
「はい。扉の向こうにおられる方と、同じ時代を生きた人間です」
扉の向こうから、小さな音がした。
まるで、その言葉を肯定するように。
「私とあの方は、幼いころから共に過ごしておりました。あの方は、人の願いをよく聞き、誰かが困っていれば、自分のことを後回しにしてでも助けようとする方でした」
「……なんだか、湊に似てるね」
彩花が私を見た。
「えっ、私?」
「うん。自分がどうしたいかより、先に誰かのことを考えちゃうところ」
美咲も頷く。
「でも、あの方は少しだけ違いました」
巫女さんは、優しく微笑んだ。
「誰かを守ることと、自分の願いを諦めることは、同じではない。そのことに、最後まで気づけなかったのです」
◇
「かつて、この神社には二つの鈴がありました」
巫女さんは、私の鞄についたピンク色の鈴のキーホルダーではなく、その奥にしまってある本物の鈴を見つめた。
「ひとつは、人と人との縁を知らせる鈴。もうひとつは、その縁の中で、自分が何を選ぶのかを問いかける鈴です」
「それが、扉の向こうの人が持っていた鈴……?」
凛の問いに、巫女さんは頷いた。
「はい。あの方は、誰かを守りたいと願いました。そして、その願いを叶えるために、自分の望みを封じる道を選んだのです」
扉の向こうから、落ち着いた声が響いた。
『……私は、誰かを守ることができれば、それでよいと思っていた』
みんなが息を呑む。
『自分がどうしたいのかを考えることは、わがままだと思っていた。だから、自分の願いを閉じ込め、その力で大切なものを守ろうとした』
「その大切なものって……」
私は、巫女さんを見た。
巫女さんは一度目を閉じてから、答えた。
「私です」
その言葉は、驚くほど静かだった。
「あの方は、私を守るために、自分の願いと自由を封じました。けれど、私はそれを望んでいたわけではありませんでした」
巫女さんの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「私は、あの方にも幸せになってほしかった。誰かを守るためだけに生きるのではなく、ご自身の願いを持ち、それを選んでほしかったのです」
『……それでも、私は選んでしまった』
扉の向こうの声には、後悔が滲んでいた。
『守りたかったものは守れた。だが、その代わりに、私は自分の願いを伝える機会を失った』
「だから、扉の向こうに……?」
結衣が小さく尋ねる。
「はい。あの方は、自らの願いを封じたまま、社の奥に留まることになりました。扉は、誰かに閉じ込められた罰ではありません。あの方自身が選んだ道の、終わらない名残なのです」
「じゃあ、あなたはどうして、ずっとここに?」
莉奈が尋ねた。
巫女さんは、扉にそっと手を添えた。
「私は、あの方に自分の願いを取り戻してほしかったのです。いつか、あの方が誰かを守ることだけではなく、ご自身の望みも口にできる日が来るように」
彼女は、静かに微笑んだ。
「私は神の使いとして、この社を守る役目を授かりました。しかし、ここに留まり続けたのは、役目だけが理由ではありません」
扉の向こうへ、まっすぐに言葉を届ける。
「あの方が、今度こそご自身の願いを選べるように。私は、それを見届けたかったのです」
長い沈黙のあと、扉の向こうから声がした。
『……すまなかった』
「謝らないでください」
巫女さんは、今度こそはっきりと言った。
「私は、あなたに守られるだけの存在ではありません。あなたと一緒に、何を選ぶべきだったのかを考えたかったのです」
扉の向こうから、返事はなかった。
けれど、扉に刻まれた二つの曲線が、淡く光った。
◇
「では、なぜ私が選ばれたんですか?」
私は自分の鈴を取り出した。
「私が女の子になったことも、この鈴と関係があるんですか?」
巫女さんは、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ。あなたが今の姿になったのは、鈴が願いを叶えたからではありません」
その言葉に、私は静かに頷いた。
それは、以前聞いた話と同じだった。
「あなたは、あなた自身の願いによって、今の自分を選びました。別の自分になってみたい。そして、その自分を好きになれるのか、確かめたいと」
「……はい」
「その願いは、誰かに与えられたものではありません。あなた自身のものです」
巫女さんは、私の鈴を見つめた。
「この鈴があなたを選んだのは、あなたを別の姿に変えるためではありません。あなたが、自分の意思で自分の姿を選んだ人だったからです」
「守り手っていうのは、特別な力を持った人じゃなくて……」
凛が言葉を継いだ。
「誰かの願いを代わりに選ぶんじゃなく、自分で考えて選べる人。そういうことなんだね」
「そのとおりです」
巫女さんは頷いた。
「あなたに、あの方と同じ道を歩んでほしいわけではありません。むしろ、違う道を選ぶこともできると、示してほしいのです」
私は扉を見つめた。
扉の向こうの人は、誰かを守るために、自分の願いを封じた。
その優しさは、きっと本物だったのだと思う。
でも、その優しさの中で、自分自身の気持ちを置き去りにしてしまった。
それは、少しだけ怖いことだった。
誰かを大切に思うほど、自分の気持ちを後回しにしてしまうことがあるから。
「……私、ひとつだけ聞きたいです」
私は扉に向かって声をかけた。
「あなたは、本当はどうしたかったんですか?」
静寂が落ちた。
誰も急かさなかった。
やがて、扉の向こうから、今までで一番小さな声が聞こえた。
『私は……』
そこで言葉が途切れる。
けれど、今度は逃げるような沈黙ではなかった。
言葉を探しているのだと、なぜか分かった。
『私は、本当は……あの者と、同じ明日を生きたかった』
巫女さんの目が、わずかに見開かれた。
『誰かを守るために、自分だけが残るのではなく。いつか終わる役目を、共に終えて……ただの人間として、同じ景色を見たかった』
その願いは、とてもささやかだった。
世界を変える願いでも、奇跡を求める願いでもない。
ただ、大切な人と同じ明日を生きたい。
それだけだった。
「……ようやく、聞かせてくださいましたね」
巫女さんは、泣きそうな笑顔を浮かべた。
「私はずっと、その言葉を待っていたのです」
扉の紋様が、柔らかな光に包まれた。
私の鈴も、手の中で一度だけ小さく鳴った。
けれど、それは私に何かを命じる音ではなかった。
誰かがようやく、自分の願いを口にできたことを知らせる音のように聞こえた。
◇
神社を出るころには、夕日が境内を橙色に染めていた。
「これで、全部分かったのかな」
沙耶が、少しだけ不安そうに呟いた。
「少なくとも、どうして扉があるのか、どうして巫女さんがここにいるのかは分かったね」
美咲が答える。
「でも、あの人の願いは、まだ叶ってないんだよね」
結衣の言葉に、私は振り返った。
社の奥にある扉は、まだ閉じたままだ。
けれど、さっきまで感じていた重たい気配は、少しだけ薄れていた。
「うん。あの人が自分の願いを話せたのは、きっと大きな一歩なんだと思う」
私はそう答えた。
隣で莉奈が、そっと私の手を握る。
「湊は、どうしたい?」
「……私にできることがあるなら、ちゃんと考えたい。でも、誰かの代わりに答えを決めることはしたくない」
「うん。それでいいと思う」
莉奈は、迷いなく頷いた。
「湊が湊自身の気持ちを大切にして、あの人の気持ちも聞いて。それから考えればいいんだよ」
私は笑った。
「ありがとう、莉奈」
「どういたしまして」
指先が、自然に絡まる。
その温かさを感じながら、私は思った。
誰かを大切にすることと、自分を大切にすること。
その二つは、どちらかひとつを選ばなければいけないものじゃないのかもしれない。
扉の向こうの人も、巫女さんも、きっとそれを知るために長い時間を過ごしてきた。
そして今、その答えを選ぶ番が、私たちにも巡ってきている。
鈴は、もう鳴らなかった。
それでも私は、自分の足で一歩を踏み出せる。
明日、もう一度あの扉の前に立とう。
今度は、誰かの過去を知るためだけじゃない。
その人が自分の願いを選べるように、そして私自身も、自分の願いから目を逸らさないために。




