第六十九話 もうひとつの鈴を持つ人
扉の向こうから聞こえた声に、凛はじっと耳を傾けていた。
『凛をここへ連れてきた者。それは、お前たちが探している人物でもある』
「……やっぱり、そうなんだね」
凛の声は、かすかに震えていた。
私は隣に立つ凛を見上げた。
「凛。その人って……」
「うん。私にとって、とても大切な人」
凛は扉を見つめたまま、言葉を続けた。
「小さい頃、私はその人に連れられて、ここへ来たの。あの人は、神社のことも、二つの鈴のことも知っていた。でも、私には全部を教えてくれなかった」
『あの者は、教えなかったのではない。お前が自分で選べるようになるまで、待っていたのだ』
「待っていた……?」
私が聞き返すと、扉の向こうの声は静かに答えた。
『過去に何があったかを知ることと、過去と同じ道を歩くことは違う。あの者は、それをお前に伝えたかったのだろう』
凛は唇を結んだ。
「その人は、あなたと同じ選択をしたの?」
『同じではない。だが、私の選択を知り、それを守ろうとした』
「……守ろうとした?」
『私が選んだ道を、誰にも間違いだと言わせぬために。そして、次に選ぶ者が、同じ後悔を繰り返さずに済むように』
私は手の中の鈴を見た。
これまで、私は何度も「守り手」という言葉に戸惑ってきた。
何かを守らなければいけないのか。
誰かの願いを引き継がなければいけないのか。
けれど、今の話は少し違って聞こえた。
「……その人は、今どこにいるんですか?」
私の問いに、凛が目を伏せた。
扉の向こうから、静かな答えが返ってくる。
『もう、この世にはいない』
凛は目を閉じた。
その沈黙が、答えの重さを物語っていた。
「……そう、だったんだ」
私は、かける言葉を見つけられなかった。
凛がずっと何かを恐れていたこと。
私が同じ選択をして、何かを失うのではないかと心配していたこと。
その理由が、少しだけ分かった気がした。
◇
「凛。その人の名前を、聞いてもいい?」
私は慎重に尋ねた。
凛はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……私の祖母だよ」
「おばあちゃん……?」
「うん。私が小さい頃、よくこの神社に連れてきてくれたの。祖母は、もうひとつの鈴を持っていた。私には、それがただのお守りに見えていたけど……今なら分かる」
凛は自分の鞄に手を添えた。
「祖母は、ここで起きたことを忘れないようにしていたんだと思う。そして、私に同じ役目を押しつけないようにしていた」
巫女さんが、静かに目を伏せた。
「凛のお祖母様は、あの方の選択を間近で知るお方でした。けれど、ご自身が同じ道を歩むことは望まれませんでした」
「じゃあ、どうして私をここへ連れてきたの?」
凛の問いに、扉の向こうの声が答えた。
『お前に選ばせるためだ。私の選択を正しいとも、間違いとも決めつけず、自分の目で見て、自分の心で考えられるように』
「……でも、私は怖かった」
凛は正直に言った。
「祖母が何を失ったのか、あなたが何を諦めたのか。全部を知ったら、私まで同じことを選んでしまう気がした」
『だからこそ、選択を恐れる必要はない』
声は、責めることなく続けた。
『誰かの選択を知ったからといって、お前まで同じ選択をする必要はない。誰かを大切に思うことと、自分の人生をその者に捧げることは、同じではないのだから』
凛は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、初めて少しだけ安心したように笑った。
「……おばあちゃんも、そう伝えたかったのかな」
「きっと、そうだと思う」
私はそう答えた。
凛が一人で抱えていた不安は、少しずつ形を変えていく。
過去を知ることは、過去に縛られることじゃない。
それは、私も同じだった。
◇
「では、次は私からお話しいたしましょう」
巫女さんが一歩前へ出た。
「この神社に二つの鈴がある理由。そして、私がここに仕えている理由について」
私は顔を上げた。
ずっと知りたかったことだった。
巫女さんは、自分の袖の中から小さな鈴を取り出した。
私の持つ鈴とは違う紋様が刻まれている。
「二つの鈴は、もともと一つの役目を二つに分けたものではございません。それぞれが、異なる意思を示すために存在しておりました」
「異なる意思……」
「一方は、人と人との縁を知らせるもの。もう一方は、その縁の中で、自ら何を選ぶかを問いかけるものです」
巫女さんは、二つの鈴を並べた。
「縁を知ることと、その縁をどう受け止めるか。それは、別のことなのです」
私は、これまでの出来事を思い返した。
鈴が鳴ったとき、私は誰かとのつながりを意識した。
けれど、その相手を大切にしたいと思ったのは、私自身だった。
莉奈と一緒にいたいと思ったことも。
沙耶を安心させたかったことも。
凛の気持ちを知りたいと思ったことも。
鈴に決められたわけじゃない。
「……じゃあ、私が守り手と呼ばれたのも、何かを命令されるためじゃないんですね」
「はい。あなたに何かを強いるためではございません」
巫女さんは、穏やかにうなずいた。
「あなたが、自ら選べるようになるため。その選択を、誰かに委ねずに済むように」
私は静かに息を吐いた。
ようやく、「守り手」という言葉の意味が分かり始めた気がした。
◇
「最後に、もうひとつだけ聞かせてください」
私は扉へ向き直った。
「あなたは、どうして今もここにいるんですか?」
しばらく、返事はなかった。
やがて、扉の向こうの声が答えた。
『私が選んだ道には、終わっていないことがあるからだ』
「終わっていないこと……?」
『守ろうとしたものは守れた。だが、そのために私は、自分の願いを伝えぬまま、ここに留まることを選んだ』
声は、ほんの少しだけ寂しそうに響いた。
『その選択を後悔しているわけではない。だが、別の道もあったのではないかと、考えたことはある』
私は胸の奥が締めつけられるような気がした。
誰かを守るために、自分の願いを閉じ込める。
その気持ちを、私は否定できない。
でも。
「……それなら、今度はあなたの願いも、聞かせてください」
気づけば、私はそう言っていた。
「あなたが何を守りたかったのかだけじゃなくて、本当はどうしたかったのか。それも、知りたいです」
扉の向こうは静かだった。
やがて、低く穏やかな声が返ってきた。
『……そうか』
扉の紋様が、淡く光る。
『お前は、私が守ったものだけでなく、私自身を知ろうとしてくれるのだな』
「はい」
私はうなずいた。
「だって、あなたも一人の人なんでしょう?」
その瞬間、扉の向こうで、小さな鈴の音が響いた。
今まで聞いたどの音とも違う、静かで澄んだ音だった。
巫女さんは、目を閉じて深く頭を下げた。
「……ようやく、その時が参りましたね」
私は彼女を見た。
「巫女さん?」
「明日、もう一度お越しくださいませ。明日こそ、あの方がなぜ扉の向こうにおられるのか。そして、私がなぜここに仕えているのかを、すべてお話しいたしましょう」
今度は、曖昧な約束ではなかった。
巫女さんの声には、長く抱えてきた役目を終えようとする者の、静かな決意があった。
私はうなずいた。
「分かりました。明日、必ず来ます」
莉奈が私の手を握った。
凛も、隣で小さくうなずいている。
もう、誰か一人だけで秘密を抱える必要はない。
そして、過去と同じ選択をする必要もない。
明日、すべてを知ったうえで、私は私自身の答えを考えよう。
そう決めて、私たちは神社をあとにした。




