第五十七話 選ぶことが怖い理由
朝、目を覚まして最初に目に入ったのは、机の上に置いた小さな鈴だった。
紋様に刻まれた新しい一本の線。
昨日と何も変わっていないはずなのに、どうしてか、前よりもずっと意味のあるものに見えた。
「……選ぶ、か」
昨日、凛が口にした言葉が頭から離れない。
私が何かを選んだからといって、それだけで誰かが不幸になるわけじゃない。
どうして、凛はあんなことを言ったんだろう。
まるで、誰かが不幸になる未来を知っているみたいに。
「……考えても、分からないよね」
私は鈴を小さな布袋にしまい、鞄に入れた。
持ち歩かないほうがいいのかもしれない。
でも、家に置いておいても、いつの間にか鞄に移動しているのだから、もうどうすればいいのか分からない。
不思議な鈴に振り回されるのは、今日も続きそうだった。
◇
「湊、おはよー!」
教室に入ると、彩花が大きく手を振ってきた。
「おはよう、彩花」
「ん? なんか今日、ちょっと眠そうじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ。ね、美咲」
「うん。あと、何か考え事してる顔」
美咲は私の顔をじっと見つめた。
「……そんなに分かりやすい?」
「湊は分かりやすいよね」
結衣まで、こくりとうなずく。
「ええっ、結衣まで!?」
「ふふっ。みんな、湊のことよく見てるからね」
隣に来た莉奈が、楽しそうに笑った。
その笑顔を見たら、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……ちょっと、考え事してただけ」
「そっか」
莉奈はそれ以上、無理に聞いてこなかった。
ただ、私の机に手をついて、少しだけ顔を近づける。
「話したくなったら、いつでも聞くからね」
「……うん。ありがとう」
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
何もかも説明できなくてもいい。
今はまだ、自分でも整理できていないのだから。
それでも、話を聞いてくれる人がいる。
それだけで、少しだけ前を向ける気がした。
◇
昼休み。
私は莉奈と一緒に、校舎裏のベンチに座っていた。
今日はみんなが委員会や用事で別行動になったので、珍しく二人きりだ。
「ねえ、莉奈」
「ん?」
「もしさ……自分が何かを選んだせいで、誰かが傷つくかもしれないって分かったら、どうする?」
口にしてから、少し後悔した。
いきなり何を聞いているんだろう、私。
けれど莉奈は、からかったりせず、少し考えてから答えてくれた。
「うーん……難しいね」
「……だよね」
「でも、誰かが傷つくかもしれないからって、自分の気持ちを全部なかったことにするのも、違うと思う」
私は顔を上げた。
「自分の気持ちを……?」
「うん。もちろん、何をしてもいいってことじゃないよ。誰かのことを考えるのも大切だし、できるだけ傷つけない方法を探すのも大事だと思う」
莉奈は膝の上で手を組み、ゆっくりと言葉を続けた。
「でもね、誰も傷つかない選択なんて、いつもできるとは限らないでしょ?」
「……うん」
「だから、怖くても、自分が何を大切にしたいのかは、ちゃんと考えたいな」
莉奈の声は穏やかだった。
正解を教えようとしているわけじゃない。
ただ、莉奈自身がそう思っていることを、私に伝えてくれている。
「……莉奈は、強いね」
「えっ、そうかな?」
「うん。私だったら、誰かが傷つくかもしれないって思っただけで、何も選べなくなりそう」
莉奈は少し困ったように笑った。
「私だって怖いよ」
「そうなの?」
「うん。大切な人が悲しむのは嫌だもん」
そう言って、莉奈は私を見た。
「でも、怖いからって、何も言わないまま離れちゃうのも嫌だな」
胸が、きゅっとなった。
それはきっと、鈴のことだけじゃない。
私が女の子になったことも。
今の自分を好きになれたことも。
莉奈たちと一緒にいたいと思うことも。
全部、私が選んできたことだ。
そして、これからも選んでいくことなんだ。
「……私も」
「うん?」
「私も、怖くてもちゃんと考えたい。自分が何を大切にしたいのか」
莉奈は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。それでいいと思う」
そして、ほんの少しだけ迷ったあと、私の手にそっと触れた。
「一人で考えなくてもいいからね」
指先が触れ合う。
私はその手を、今度は自分から握り返した。
「……ありがとう、莉奈」
「どういたしまして」
鈴は、鞄の中で静かだった。
それでも私は、今の言葉を忘れたくないと思った。
◇
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、壁際に立っている凛が目に入った。
「湊」
「凛? どうしたの?」
「少し、話せる?」
いつもより真剣な声だった。
私はうなずき、凛と一緒に人の少ない渡り廊下へ向かった。
「昨日のこと、考えてた?」
「……うん」
「そっか」
凛は窓の外へ視線を向けた。
しばらく沈黙が続いたあと、私は思い切って尋ねた。
「凛は、何を知ってるの?」
凛の肩が、わずかに揺れた。
「鈴のこと? 神社のこと? それとも……私が女の子になったこと?」
「全部、かな」
「欲張りだね」
「だって、凛は何か知ってるのに、いつも肝心なところを教えてくれないんだもん」
「……それは、そうだね」
凛は否定しなかった。
そのことに、私は少し驚いた。
「じゃあ、一つだけ教えて」
「何?」
「私が何かを選んだら、誰かが傷つくの?」
凛はすぐには答えなかった。
窓から差し込む夕日が、凛の横顔を赤く染めている。
「……必ず、そうなるわけじゃない」
「じゃあ、どうして昨日、あんなことを言ったの?」
「湊に、怖がってほしくなかったから」
「え?」
「自分が何かを選ぶこと自体、悪いことなんだって思ってほしくなかった」
凛は私に向き直った。
「でも、同時に……何も知らないまま選んでほしくもないんだ」
「それって、どういう……?」
「ごめん。今は、ここまでしか言えない」
まただ。
あと少しで届きそうなのに、凛はいつもその先を閉ざしてしまう。
けれど今日は、いつもと少し違った。
凛の表情には、隠し事をしている後ろめたさだけじゃなく、何かを恐れているような色もあった。
「……凛」
「ん?」
「私が選ぶことで、凛も困るの?」
凛は目を見開いた。
そして、困ったように眉を下げた。
「……湊は、本当にそういうところ、変わらないね」
「えっ、それ、どういう意味?」
「気にしないで」
「気になるよ!」
思わず声を上げると、凛は小さく笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「私はね、湊」
凛はゆっくりと言った。
「湊が、自分で選んだことを後悔するのが嫌なんだよ」
「……」
「誰かに言われたからでも、鈴に導かれたからでもなくて。湊自身が選んだのなら、私はそれを否定したくない」
その言葉を聞いて、私は返事ができなかった。
凛は何かを知っている。
きっと、私がまだ知らない誰かのことも。
それでも、私の選択を奪いたいわけじゃないのだ。
「……ありがとう」
私がそう言うと、凛は少しだけ目を伏せた。
「お礼を言われるようなことじゃないよ」
「ううん。私は嬉しかった」
凛は困ったように笑い、私の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、今日は帰ろう。暗くなる前に」
「うん」
結局、凛が何を知っているのかは分からないままだった。
それでも、さっきより少しだけ、凛の気持ちに近づけた気がした。
◇
その夜。
私は机の上に鈴を置き、紋様をじっと見つめていた。
「……私が選ぶこと」
莉奈の言葉。
凛の言葉。
どちらも、私に選ぶなとは言わなかった。
ただ、選ぶことを怖がらないでほしいと、そう伝えてくれた気がする。
そのとき。
鈴の紋様が、かすかに光った。
「……え?」
光はすぐに消えた。
けれど、紋様の端に、見覚えのない小さな印が浮かび上がっていた。
今までの線とは違う。
二つの曲線が、向かい合うように刻まれている。
私は布袋から沙耶の持ってきた古いノートの写真を取り出した。
以前、ノートに描かれていた神社の紋様。
その隅に、同じ印が小さく描かれていた。
「……これ、何なの?」
答える人はいない。
ただ、鈴はもう光っていなかった。
◇
同じ頃。
神社の奥、固く閉ざされた扉の前で、巫女は静かに目を閉じていた。
扉に刻まれた紋様の一部が、淡く光っている。
「……新たな印が現れましたか」
巫女がそう告げると、扉の向こうから、かすかな音が響いた。
鈴の音にも似ている。
けれど、湊の持つ鈴とは、どこか違う音だった。
「はい。あの子は、少しずつ自分の意思で歩き始めております」
返事をするように、扉の向こうで何かが動いた。
巫女は顔を上げ、扉を見つめる。
「……ですが、まだ決めつけてはなりません」
その声には、いつもの静けさの奥に、わずかな緊張が混じっていた。
「湊が選ぶ道は、あの方がかつて歩まれた道と、同じとは限らないのですから」
長い沈黙。
やがて、扉の向こうから声がした。
「――それでも、選ばせるのだな」
「はい」
巫女は深く頭を下げた。
「選ぶことまで奪ってしまえば、あの子は自分の人生を歩めません」
再び、鈴の音が響く。
今度は、どこか寂しげな音だった。
巫女はその音を聞きながら、そっと目を閉じた。
「……どうか、あなた様も見届けてくださいませ」
扉は、まだ開かない。
けれど、その向こうにいる存在は、確かに湊の選択を待っていた。




