第五十六話 凛が知っていること
翌朝。
私は机の引き出しを開けた。
昨日、カフェで鈴が鳴ったあと、家に帰ってすぐに机へ戻した。
今は、布に包まれたまま静かに収まっている。
「……昨日のは、何だったんだろう」
家に置いていたはずの鈴が、鞄の中にあった。
しかも、紋様まで変化していた。
偶然だと思いたい。
でも、もうそんな言葉だけでは片づけられない気がした。
私は布を少しだけ開き、鈴を確認する。
中央の線は、昨日と同じように残っていた。
「……凛に聞いてみようかな」
そう呟いて、私は鈴をしまった。
約束はした。
何かあっても、すぐに神社へは持っていかない。
でも、凛に相談することまで禁止されたわけじゃない。
……たぶん。
◇
「湊ちゃん、おはよ!」
「おはよう、莉奈」
教室に入ると、莉奈が笑顔で手を振ってくれた。
「昨日は大丈夫だった?」
「うん。帰ってからは何もなかったよ」
「そっか。よかった」
莉奈はほっとしたように笑った。
「でも、何かあったらすぐに言ってね」
「分かってるって」
「ほんとに?」
「ほんと!」
私が頷くと、莉奈は満足そうに笑った。
「じゃあ、信じる」
その言葉が、なんだか嬉しかった。
信じてもらえること。
心配してもらえること。
以前の私なら、こんなふうに誰かに頼るのは少し苦手だったかもしれない。
でも、今は。
頼ってもいいんだと思える。
「……莉奈」
「ん?」
「ありがとね」
「えっ、急にどうしたの?」
「別に。言いたくなっただけ」
莉奈は一瞬きょとんとして、それから頬を緩めた。
「……どういたしまして」
その顔を見ていたら、私まで恥ずかしくなってきた。
「なになに? 朝からまた二人の世界?」
美咲の声が飛んでくる。
「違うから!」
「まだ何も説明してないけど?」
「美咲ー!」
彩花が笑い、結衣も小さく肩を揺らした。
いつもの朝。
この時間だけは、何も変わらずにいてほしい。
そう思った。
◇
昼休み。
私は凛を探していた。
昨日の鈴のことを聞きたい。
でも、みんなの前では話しづらい。
廊下の向こうに、凛の姿が見えた。
「凛!」
呼びかけると、凛は振り返った。
「湊? どうしたの?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど」
凛は私の顔を見て、すぐに察したようだった。
「……鈴のこと?」
「うん」
「分かった。少し歩こう」
私たちは人の少ない渡り廊下へ向かった。
◇
「昨日、また鈴が鳴ったの」
私が話すと、凛の足が止まった。
「……どこで?」
「カフェ。みんなといるとき」
「他には?」
「家に置いていたはずなのに、鞄の中に入ってた。それに、紋様の線が一本増えてた」
凛は黙って聞いていた。
いつもなら、何かをごまかすように笑うのに。
今日は違った。
「……凛?」
「ごめん。少し考えさせて」
凛は手すりに寄りかかり、空を見上げた。
「やっぱり、始まってるんだね」
「何が始まってるの?」
「……鈴の変化」
「それは分かるよ。どうして変化するの?」
「鈴そのものが変わっているわけじゃないと思う」
「え?」
私は手の中に鈴があるような気がして、制服のポケットに触れた。
「じゃあ、何が変わってるの?」
凛は少し迷ってから答えた。
「鈴が示しているもの。そっちが変わっているのかもしれない」
「……全然分からないんだけど」
「うん。私も、全部分かっているわけじゃないから」
その言葉に、私は思わず凛を見た。
「凛も分からないことがあるの?」
「あるよ。むしろ、分からないことのほうが多い」
「……そっか」
少しだけ安心した。
凛が何でも知っているわけじゃない。
でも。
「じゃあ、知ってることは教えてよ」
私は凛をまっすぐ見た。
「私、自分のことなのに、みんなから少しずつしか教えてもらえないのは嫌だよ」
凛は目を伏せた。
「……そうだよね」
「うん」
「じゃあ、一つだけ話す」
私は息を呑んだ。
ようやく、何か聞ける。
凛はゆっくりと言葉を選んだ。
「この鈴は、誰かに何かを命令するためのものじゃない」
「命令?」
「守り手って言葉があったんでしょ?」
「うん。『次の守り手へ』って」
「それを見て、何かをしなきゃいけないって思った?」
「……少しだけ」
「でも、今は何もしなくていい」
凛は私の目を見た。
「鈴が何かを示したとしても、湊がそれに従わなきゃいけない理由にはならないよ」
「……」
「何を選ぶかは、湊が決めていい」
その言葉は、思っていたよりも優しかった。
巫女さんから聞いたことと、少し似ている。
自分で選ぶこと。
誰かに決められるのではなく、自分で決めること。
「……凛は、どうしてそんなことを知ってるの?」
そう尋ねると、凛は少しだけ困った顔をした。
「昔、似たようなことを聞いたから」
「誰に?」
「……それは、まだ言えない」
「えー……」
「ごめん」
凛は苦笑した。
「でも、これだけは本当」
「何?」
「湊が何かを選んだからって、それだけで誰かが不幸になるわけじゃない」
その言葉に、私は首を傾げた。
「……誰かが不幸になる?」
「……」
凛はしまった、という顔をした。
「今のは忘れて」
「ちょっと! そこが一番気になるんだけど!」
「ごめん。今はまだ話せない」
「凛!」
けれど、凛はそれ以上答えなかった。
ただ、さっきよりもずっと真剣な顔をしていた。
◇
放課後。
教室に戻ると、莉奈たちが待っていた。
「湊、話は終わった?」
「うん」
「何か分かった?」
「……少しだけ」
私は鞄を肩にかけた。
全部分かったわけじゃない。
むしろ、新しい疑問が増えたくらいだ。
でも、一つだけ分かったことがある。
鈴は、私に何かを強制するものではない。
少なくとも、凛はそう言った。
「……湊?」
莉奈が心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
私は笑った。
「帰ろう?」
「……うん!」
莉奈は嬉しそうに頷いた。
私たちはみんなと一緒に校門を出た。
夕方の風が、頬を撫でる。
鈴のことは、まだ分からない。
巫女さんのことも。
社の奥にいる誰かのことも。
でも、今すぐ答えを出さなくてもいい。
私はそう思えるようになっていた。
◇
その夜。
山あいの神社。
巫女は、社の奥にある古い扉の前に立っていた。
扉には、鈴と同じ紋様が刻まれている。
ただし、その紋様は中央で二つに分かれていた。
巫女は静かに目を閉じる。
「……あの子は、まだ迷っております」
扉の向こうから、返事はない。
「けれど、自ら選ぶことの意味を、少しずつ理解し始めているようです」
巫女は手元の鈴を見つめた。
そこに刻まれた紋様は、変わらない。
しかし、その奥にある小さな印だけが、淡く光っていた。
「……どうか、焦らせないでくださいませ」
祈るような声。
そのとき。
扉の向こうから、初めて言葉のようなものが響いた。
――まだ、早い。
巫女は目を見開いた。
ほんの短い声。
けれど、確かに聞こえた。
「……承知しております」
巫女は深く頭を下げた。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……あの子が、あなた様と同じ道を選ぶとは限りません」
扉の向こうは、再び静まり返った。
巫女はしばらくその場に立っていた。
やがて顔を上げ、いつもの穏やかな表情に戻る。
「選ぶのは、あの子自身ですから」
その言葉だけを残し、巫女は社の奥をあとにした。




