第五十三話 鈴に浮かぶ知らない紋様
翌朝。
私は家を出る前に、もう一度ポケットの中を確かめた。
そこにあるのは、小さな鈴。
昨日、表面に浮かんだ見覚えのない紋様。
何度確認しても、消えることはなかった。
「……やっぱりある」
指先でそっと触れる。
当然、音はしない。
なのに、昨日聞こえた音だけが、耳の奥に残っていた。
――チリン。
「……気のせい、気のせい」
私は鈴をしまい、家を出た。
今は神社に行かない。
そう決めたのだから。
◇
「湊ちゃん、おはよ!」
「おはよう、莉奈」
教室に入ると、莉奈がいつもの笑顔で迎えてくれた。
「今日も何か考え事?」
「えっ、なんで分かったの?」
「顔に書いてある」
「うそ!?」
「うそ」
「もう、莉奈!」
莉奈は楽しそうに笑った。
その笑顔につられて、私も笑ってしまう。
こういう時間は好きだ。
難しいことを考えずに、みんなと話していられる時間。
「はいはい、朝から仲良しですねー」
美咲が横から口を挟んだ。
「美咲、絶対それ言うよね」
「だって本当だし?」
「彩花まで乗らないで!」
いつものやり取りに、教室が笑い声に包まれる。
そのときだった。
「……湊ちゃん」
少し離れた席から、沙耶が私を呼んだ。
「ん? どうしたの?」
「ちょっと、見てもらいたいものがあるんだけど」
「見てもらいたいもの?」
沙耶は小さく頷いた。
「うん。昨日、家で見つけたんだ」
◇
昼休み。
私たちは教室の隅に集まっていた。
沙耶が鞄から取り出したのは、一冊の古いノートだった。
「これ、おばあちゃんの家にあったものなの」
「ずいぶん古そうだね」
結衣がそっと表紙を眺める。
「昔の家のこととか、近所のことが書いてあるみたい。私も全部読んだわけじゃないんだけど……」
沙耶はページを開いた。
「この絵を見てほしくて」
そこには、手書きの絵が描かれていた。
鳥居。
長い石段。
木々に囲まれた、小さな社。
そして、その隅に描かれた鈴。
「……え?」
私は思わず身を乗り出した。
鈴の絵の隣には、見覚えのある紋様が描かれていた。
昨日、私の鈴に浮かんだものと同じだった。
「これ……」
ポケットに手を伸ばす。
「湊ちゃん?」
「ちょっと、見てほしいものがあるの」
私は鈴を取り出した。
みんなの視線が集まる。
「それって、神社で持ってた鈴?」
莉奈が尋ねた。
「うん。前に話したやつ」
私はノートの絵と、手の中の鈴を並べた。
同じだった。
線の形も、中央にある小さな印も。
まるで、同じものを見ながら描いたみたいに。
「……偶然、なのかな」
結衣が呟く。
「偶然にしては、そっくりすぎない?」
美咲が眉を寄せた。
彩花も、いつもの明るい表情を引っ込めている。
「沙耶、このノートっていつ頃のものか分かる?」
「はっきりとは分からないの。でも、かなり古いみたい」
沙耶はページをめくった。
その途中で、手が止まる。
「あ……ここにも何か書いてある」
ページの端に、小さな文字が残されていた。
かすれていて、全部は読めない。
それでも、一部分だけははっきりしていた。
――鈴を持つ者が現れたとき、社の守り手はその役目を終える。
「……守り手?」
私は呟いた。
頭の中に、あの巫女さんの姿が浮かぶ。
鈴の役目は終わった。
巫女さんも、そう言っていた。
じゃあ、この文章が示しているのは――。
「待って。下にも続きがあるよ」
莉奈がページの下を指差した。
けれど、紙の端は破れていて、その先は読めなくなっていた。
「肝心なところがないね……」
彩花が残念そうに肩を落とす。
「ごめんね。これ以上は分からなくて」
沙耶が申し訳なさそうに言った。
「ううん。見せてくれてありがとう」
私は首を横に振った。
知りたいことが、また増えた。
あの巫女さんは何者なのか。
どうして私に鈴を渡したのか。
そして――。
役目を終えたはずの鈴に、どうして新しい紋様が現れたのか。
◇
放課後。
沙耶はノートを大切そうに鞄へしまった。
「家に帰ったら、もう少し調べてみるね」
「ありがとう。でも、無理はしないでね」
「うん。私も気になるし」
沙耶は笑った。
その隣で、凛がずっと黙っていた。
いつもなら、何かしら皮肉を言ったり、話をそらしたりするのに。
今日は一度も口を挟まなかった。
「……凛?」
私が声をかけると、凛は沙耶の鞄を見ていた。
「そのノート、どこで見つけたの?」
「え? おばあちゃんの家だけど……」
「そうじゃなくて」
凛は少し言いにくそうに続けた。
「今まで、そのノートのことを誰かから聞いたことはない?」
「ないよ。昨日、片づけをしていて初めて見つけたの」
「……そっか」
凛は小さく目を伏せた。
「凛、何か知ってるの?」
私が尋ねる。
凛はすぐには答えなかった。
やがて、私の手元に視線を移す。
「湊。その鈴、誰からもらったの?」
「……巫女さんだけど」
「そう」
凛の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「なら、なおさらだね」
「何が?」
「……ううん。まだ、確かめたいことがあるだけ」
「またそれ?」
思わず、ため息が出た。
「凛って、肝心なところはいつも言わないよね」
「そうだね」
「否定しないんだ……」
凛は苦笑した。
でも、その顔を見ていると、ただ秘密を楽しんでいるわけではない気がした。
隠しているというより。
言うことをためらっている。
そんな感じだった。
「……湊」
凛が静かに言った。
「その鈴の模様、誰にも見せないほうがいい」
「え?」
「まだ、誰の目にも触れないほうがいいものだから」
「でも、沙耶たちはもう見たよ?」
「……そうだね」
凛は沙耶のほうを見た。
「ごめん。沙耶を責めてるわけじゃないよ」
「う、うん……」
沙耶は戸惑いながら頷いた。
凛はもう一度、私を見る。
「湊。ひとつだけ約束して」
「何?」
「その鈴に、何か変化があっても……すぐに神社へ持っていかないで」
「……どうして?」
凛は答えなかった。
ただ、今まで見たことがないほど真剣な目をしていた。
「お願い」
その一言に、私は言葉を失った。
凛が私に、こんなふうに頼むなんて。
「……分かった」
私は小さく頷いた。
「すぐには行かない。約束する」
「ありがとう」
凛は少しだけ安心したように息を吐いた。
けれど、その表情はすぐに元へ戻ってしまった。
「じゃあ、また明日」
そう言って、凛は教室を出ていった。
◇
帰り道。
私は莉奈と並んで歩いていた。
「……凛、何か知ってるんだよね」
私が呟くと、莉奈がこちらを見た。
「うん。たぶんね」
「でも、話してくれない」
「話せない理由があるのかもしれないよ」
「……沙耶のノートにも、鈴のことが書いてあった」
「うん」
「巫女さんも、凛も、あの紋様を知ってるみたいだった」
考えれば考えるほど、分からなくなる。
鈴の役目は終わったはずなのに。
どうして、まだ何かが続いているんだろう。
「湊」
莉奈が私の名前を呼んだ。
「今は、全部を一度に解決しなくてもいいんじゃないかな」
「……うん」
「それに、何かあったら私にも話してね」
莉奈は私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「一人で抱え込まないこと」
「……分かった」
私はその手を握り返した。
その温かさに、少しだけ肩の力が抜ける。
謎は気になる。
でも、今すぐ答えを出さなきゃいけないわけじゃない。
私には、今の私を支えてくれる人たちがいる。
「ありがと、莉奈」
「どういたしまして」
莉奈はいつもの笑顔を見せた。
私はその笑顔を見て、ようやく自然に笑えた。
◇
その夜。
自分の部屋で、私は鈴を机の上に置いた。
明かりの下で見る紋様は、やっぱり不思議だった。
「……誰にも見せないほうがいい、か」
凛の言葉を思い返す。
そして、沙耶のノートに書かれていた一文。
――社の守り手はその役目を終える。
「……巫女さんのこと、なのかな」
鈴を手に取る。
その瞬間。
指先に、かすかな温かさを感じた。
「……え?」
私は手を止めた。
鈴の表面に刻まれた紋様。
そこに、細い光が一瞬だけ走った。
ほんの一瞬。
目を瞬かせたときには、もう消えていた。
「……今の、何?」
私は鈴を机に戻した。
鳴ってはいない。
音はしなかった。
けれど。
鈴の底に、小さな文字が浮かび上がっていた。
さっきまでは、なかったはずの文字。
私は息を呑み、目を凝らす。
そこに刻まれていたのは――。
**『次の守り手へ』**
「……次の、守り手?」
誰に向けた言葉なのか。
何を守れというのか。
そして。
どうして、この鈴にそんな言葉が刻まれているのか。
私はしばらく、鈴から目を離せなかった。
凛は、これを知っているのだろうか。
沙耶のノートを書いた人は、何を知っていたのだろう。
それから――。
あの巫女さんは。
私に何を引き継がせようとしているのだろう。
「……まさか、ね」
私は鈴をそっと布に包んだ。
今は、まだ答えなんて分からない。
だけど、ひとつだけ確かなことがある。
私が終わったと思っていた神社の物語は。
どうやら、私の知らないところで続いていたらしい。




