第三十四話 思い出せない名前
お腹すいた。
――公園から帰ったあと。
私はずっと考えていた。
「……あの子」
名前は思い出せない。
でも。
顔は、もう忘れられない。
昔の記憶の中にいた。
凛と桜と一緒にいた私の隣に。
いつも。
まるで当たり前みたいに。
「……なんで忘れてたんだろう」
机の上に置いた手紙を見る。
『忘れても大丈夫』
今なら少しだけ分かる。
この手紙は、きっとあの子のためにも書いたんだ。
私が忘れてしまっても。
いつかまた会えるように。
「……でも」
私は首を傾げた。
「なんで、私は忘れたの?」
そこだけが分からない。
ただ時間が経ったから?
それとも。
何かきっかけがあった?
考えようとすると。
また頭の奥が痛くなった。
◇
翌朝。
「湊ちゃん、おはよー!」
「おはよ、莉奈ちゃん」
「……あれ?」
「ん?」
「なんか、昨日と雰囲気違わない?」
「そう?」
「うん。なんか……」
莉奈が私の顔を見る。
「ちょっと嬉しそう」
「……分かる?」
「分かるよ」
莉奈は笑った。
「何かあった?」
「うん」
私は少し迷ってから話した。
「昔の知り合いに会ったの」
「昔の?」
「うん」
「凛ちゃんや桜ちゃん?」
「違う子」
莉奈が目を丸くする。
「もう一人いたの?」
「そうみたい」
「そっか」
莉奈は少し考える。
「じゃあ、その子のこと思い出せたんだ」
「名前はまだ」
「え?」
「名前だけ思い出せないの」
自分でも変だと思う。
顔も。
声も。
一緒にいたことも。
少しずつ思い出せているのに。
名前だけが、ぽっかり抜け落ちている。
「変だよね」
「ううん」
莉奈は首を横に振った。
「きっと、そのうち思い出すよ」
「……そうかな」
「うん」
そして。
「それまで、私が覚えてるから」
「何を?」
「今の湊ちゃんのこと」
莉奈は笑った。
「忘れないからね」
「……」
その言葉に。
なぜか胸が温かくなった。
◇
昼休み。
「昨日、公園に行ったんだって?」
凛が聞いてきた。
「うん」
「会った?」
「……うん」
凛は驚かなかった。
「そっか」
「知ってたの?」
「たぶん会うと思ってた」
「じゃあ教えてよ!」
「ごめん」
「またそれ……」
私は少しむくれる。
すると凛が笑った。
「でも、名前は思い出せなかったんだね」
「うん」
「それでいいよ」
「どうして?」
「名前って、最後に戻ってくるものだから」
「最後?」
「うん」
凛は少しだけ遠くを見る。
「湊にとって、その子は名前より先に思い出すものがあるから」
「……思い出すもの?」
「うん」
「何?」
「それは湊が思い出して」
「……凛って本当に意地悪」
「そうかな」
凛は笑った。
◇
放課後。
私は一人で教室に残った。
机の中を整理していると。
「あれ?」
一冊の古いノートが出てきた。
「これ……」
表紙には何も書かれていない。
開いてみる。
最初のページ。
子どもの頃の字。
『今日、凛と遊んだ』
『桜から手紙がきた』
『三人でまた遊びたい』
懐かしい。
ページをめくる。
そこには。
『今日は四人で遊んだ』
「……四人」
指が止まった。
「やっぱり……」
その子は。
ずっといた。
次のページ。
『今日は四人で公園に行った』
さらに次。
『みんなで約束した』
さらに。
『忘れない』
「……」
私はページをめくる。
すると。
一枚だけ、ページが破られていた。
「……ここだけ?」
ノートの端に、小さな文字が残っている。
――『あの子』
それだけ。
「……あの子?」
私はその文字を見つめた。
すると。
頭の中に記憶が浮かんだ。
◇
――昔。
「湊!」
公園で誰かが呼んでいる。
「待って!」
私は走っていた。
「早く!」
凛が笑う。
「湊、転ぶよ!」
桜も笑っている。
「大丈夫!」
そして。
もう一人。
「……遅いよ」
その子が私を待っていた。
「ごめん!」
「もう」
その子は笑った。
「でも、来てくれてよかった」
「当たり前じゃん」
私は笑う。
「だって、約束したから」
「……うん」
その子が手を差し出す。
「じゃあ、行こう」
私はその手を握った。
「うん!」
◇
「……っ!」
私は目を開けた。
教室だった。
「……手」
自分の手を見る。
あのとき。
私は確かに。
あの子の手を握っていた。
そして。
その瞬間。
名前が。
「……」
喉まで出かかる。
でも。
まだ出てこない。
「……なんで」
私はノートを抱きしめた。
「どうして名前だけ……」
そのとき。
「湊」
「……!」
後ろから声がした。
振り返る。
そこには――。
凛が立っていた。
「凛?」
「探してた」
「どうして?」
「これを」
凛が一枚の紙を差し出した。
「……何?」
「昔の写真」
受け取る。
写真には。
四人の子どもが写っていた。
私。
凛。
桜。
そして――。
「……この子」
写真の中のその子を見る。
胸が大きく鳴った。
凛が静かに言う。
「湊」
「……なに?」
「もうすぐ、名前も思い出すよ」
「……どうして?」
「だって」
凛は写真を指差した。
「この子が、ずっと湊を待ってたから」
「……」
「そして」
凛は少しだけ寂しそうに笑った。
「私たち三人が、ずっと守ってきた約束でもあるから」
「……三人?」
「うん」
「私と、凛と、桜と……この子?」
「そう」
私は写真を握りしめた。
「じゃあ……」
ずっと探していた答えは。
この四人の中にある。
「私が忘れた日のことも」
「うん」
「女の子になった理由も」
「……」
凛は答えなかった。
ただ。
「それも、もうすぐ」
そう言った。
そして。
写真の裏側を見る。
そこには。
子どもの字で、四人の名前が書かれていた。
私。
凛。
桜。
そして――。
「……」
私は、その最後の名前を見つめた。
読める。
確かに読める。
なのに。
声に出そうとすると。
胸の奥が苦しくなる。
「……この名前」
あと少し。
あと少しで。
全部、思い出せそうだった。




