第三十話 あの声の主
――朝。
目を覚ました瞬間。
「……あの声」
昨日見た夢を思い出した。
夢の中の私は、まだ小さな子どもだった。
凛と。
桜と。
そして――もう一人。
顔は見えなかった。
だけど、声だけは覚えている。
『湊は、ずっと湊だよ』
「……誰なんだろう」
ベッドの上で、私はしばらく考えた。
思い出そうとすると、頭の奥がぼんやりする。
あと少し。
あと少しで、何かを思い出せそうなのに。
「……分からない」
私は小さく息を吐いた。
すると。
「湊ちゃん、おはよー!」
「うわっ!」
突然、部屋の外から莉奈の声が聞こえた。
「……莉奈ちゃん?」
「学校行くよー!」
「ちょっと待って!」
慌てて制服に着替える。
鏡を見る。
そこに映っているのは、今の私。
女の子の制服。
長くなった髪。
そして――女の子らしくなった自分。
「……昔の私と、今の私」
どっちも私。
そう思えるようになってきた。
でも。
だったら。
なぜ私は、昔の自分を忘れてしまったんだろう。
◇
「湊ちゃん、今日ちょっと眠そう?」
学校へ向かう途中、莉奈が顔を覗き込んできた。
「昨日、変な夢を見たの」
「夢?」
「うん。昔の夢」
その言葉に、莉奈が少しだけ表情を変えた。
「昔って……小学生の頃?」
「たぶん」
「凛ちゃんとか?」
「うん。あと、桜って子も」
「桜ちゃん?」
「そう」
莉奈は少し考える。
「湊ちゃんって、本当に昔のこと覚えてないんだね」
「……うん」
「でも、無理して思い出さなくてもいいんじゃない?」
「そうなのかな」
「だって、今の湊ちゃんも湊ちゃんでしょ?」
「……」
昨日、夢の中で聞いた言葉と同じだった。
「……そうだね」
私は笑った。
「でも、知りたいんだ」
「何を?」
「昔の私が、どんな人だったのか」
莉奈は少しだけ黙って。
「じゃあ、一緒に探そうよ」
そう言った。
◇
昼休み。
「ねえ、湊」
凛が私の前に立った。
「昨日、何か思い出した?」
「……どうして分かるの?」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「うん」
凛は少し笑った。
「何を思い出したの?」
「声」
「……」
凛の笑顔が消えた。
「誰かが、私に言ったの」
私はゆっくり話した。
「『湊は、ずっと湊だよ』って」
凛は何も言わなかった。
「凛?」
「……その言葉」
「知ってるの?」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
「うん」
凛は小さく頷いた。
「知ってる」
「……!」
「でも、まだ言えない」
「どうして?」
「その人のことを話すには――」
凛は私を見る。
「湊が、自分で思い出さないといけないから」
「またそれ?」
「ごめん」
「……」
少しだけ、もどかしかった。
でも。
凛が何かを隠しているのは、もう分かっていた。
「その人って……私にとって大切な人だった?」
「うん」
「友達?」
「……それだけじゃない」
「え?」
凛はそれ以上答えなかった。
「ごめん。今はここまで」
「……分かった」
私は頷いた。
でも。
その言葉が頭から離れなかった。
――それだけじゃない。
じゃあ、その人は私にとって何だったんだろう。
◇
放課後。
私は一人で校舎を歩いていた。
すると。
「湊」
「……?」
振り返る。
そこには――桜がいた。
「桜……?」
「ちょっと、話せる?」
「うん」
桜は少し迷ったように口を開いた。
「凛から聞いた」
「何を?」
「夢を見たって」
「……うん」
「声を聞いたんでしょ?」
「知ってるの?」
桜は答えなかった。
代わりに。
「湊」
静かに私の名前を呼んだ。
「昔のことを全部思い出したら……たぶん、今まで分からなかったことも分かる」
「私が女の子になった理由も?」
「……それも」
「!」
初めてだった。
誰かがはっきりと認めた。
私が女の子になったことには。
何か理由がある。
「じゃあ、教えてよ!」
「ごめん」
「どうして……」
「今はまだ」
桜は申し訳なさそうに笑った。
「でも、一つだけ言える」
「何?」
「湊は昔から、湊だったよ」
「……」
「男の子だったから湊だったわけでもない」
桜は続けた。
「今、女の子だから湊になったわけでもない」
「……じゃあ」
私は聞いた。
「私は、何なの?」
桜は少しだけ目を伏せた。
「それを決めるのは、私じゃないよ」
そう言って、桜は歩き出した。
◇
その日の夜。
私は机の前に座っていた。
引き出しから、昔の手紙を取り出す。
『忘れても大丈夫』
『いつか思い出すから』
『また会おうね』
『湊』
指で最後の文字をなぞる。
「……私が書いたんだよね」
そのとき。
ふと、手紙の裏側に何かが書かれていることに気づいた。
「……え?」
今まで気づかなかった。
紙を裏返す。
そこには、小さな文字で。
『もし、ひとりになったと思っても』
そこまで読んで、私は息を止めた。
続きがある。
『あの子を――』
「……あの子?」
文字が滲んでいて、その先が読めない。
私は目を凝らした。
すると。
頭の中に、また声が響いた。
『大丈夫』
「……!」
今度は、少しだけ違った。
あの声ではない。
別の声。
もっと近くて。
もっと懐かしい。
『湊は、ひとりじゃないよ』
「……誰?」
胸が強く締めつけられる。
そして。
一瞬だけ。
記憶の中に、誰かの手が見えた。
小さな手。
私の手を握っている。
その人の顔は――。
「……っ」
思い出せない。
でも。
その手だけは。
なぜか、知っている気がした。
◇
翌朝。
「湊ちゃん?」
「……」
「湊ちゃん?」
「……え?」
莉奈の声で我に返る。
「どうしたの?」
「ううん……」
私は胸元に手を当てた。
まだ、あの感覚が残っている。
誰かの手。
誰かの声。
そして――。
私が忘れてしまった、大切な誰か。
「……会いたい」
「え?」
「その人に」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
「昔の私が大切にしていた人なら」
私は前を向く。
「ちゃんと思い出したい」
その瞬間。
少し離れた場所から、誰かが私を見ていた。
その人は何も言わない。
ただ。
小さく呟いた。
「……やっと、ここまで来たんだね」
そして――。
その声を聞いた瞬間。
私は振り返った。
「……今の声」
そこには。
誰もいなかった。




