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第7話 世界の前に、牛丼


「日本には古くから伝わる名言がある」

「なんですの?」

「腹が減っては戦はできぬ」

「分かりますわ。戦闘中に空腹で力が出ないとなったら大変ですもの」

「良い知恵も浮かばなくなる。


そんな話をしながらオレたちは吉野家に入った。


「ここが食堂ですの?」

「そう」

「給仕係は?」

「いるけど、姫専属じゃない」

「席が近いですわ」

「庶民の距離感だ」


「いらっしゃいませ。ご注文は」

「並と生卵、味噌汁セットを二つ」

「少々お待ちください」


「風磨、今のは呪文のやりとりですの?」

 ぶ!

 オレはお冷を吹くところだった。

「いや、ゲホ!普通に注文したゲホ!だけだがゲホゲホ」

「大丈夫ですの?」

「大丈夫だ」


「お待たせしました。牛丼並と生卵、味噌汁セットです」

「ありがとう」


リュシアは目の前に並べられたお膳をじっと見ている。


「これは何ですの?」

「あー、牛丼と生卵セットだ。」

「なまたまご?」

「そう。生の卵だ」

「生ですわよ!?」

「そういう食べ方」

「この国、急に野蛮ですわね」

「牛丼に敬意を払え」


 オレはリュシアを気にせず卵を割ってかき混ぜた。箸で黄身と白身を混ぜる。くるくると、それで少し醤油を垂らして、また混ぜる。それを牛丼の上にかけた。つやつやした卵が、肉と米の上に広がる。湯気がふわりと上がった。

「……」

 リュシアが、ものすごく真剣な顔で見ている。

「なんだよ」

「今、生命の核を割りましたわよね?」

「言い方!」

「それを混ぜて、肉の上に……」

「食文化をホラーにするな」

「風磨。この国は本当に平和なのですか?」

「卵かけただけで疑うな」

 オレは箸で牛丼を一口分すくった。

「ほら。こうやって食う」

 肉、米、卵。

 まとめて口に入れる。

 甘じょっぱいタレと卵が混ざる。

 夜勤明けの体に染みる。

「……うま」

 思わず声が漏れた。やっぱりこれだ。世界がどうとか、特異点がどうとか、勇者がどうとか。そういうもの全部、一旦横に置いて。温かい飯を食う。

 これが正しい。

「そんなに……」

 リュシアがごくりと喉を鳴らした。

「そんなに美味しいのですか?」

「食えば分かる」

「ですが、生の卵は……」

「無理なら卵なしでもいいぞ」

「いえ」

 リュシアは、なぜか決意した顔になった。

「わたくしは王女です。未知の文化から目を逸らすわけにはまいりません」

「牛丼にそんな覚悟いらないけどな」

 リュシアは箸を手に取った。そして、固まった。

「……風磨」

「なんだ」

「この二本の棒は、何ですの?」

「箸」

「武器?」

「食器」

「これでどうやって食べるのです?」

「挟む」

「肉を?」

「肉も米も」

「米も!?」

「そこ驚くんだ」

 リュシアは箸を持とうとして、見事に失敗した。一本が指の間から逃げる。もう一本が机に落ちる。

 カラン。

「……」

「……」

「風磨」

「うん」

「これは、試練ですの?」

「食事だ」

「この国の平民は、朝から試練を受けているのですか?」

「慣れだよ」

 仕方なく、オレは店員さんにスプーンを頼んだ。

「すみません、スプーンもらえますか」

「はい、どうぞ」

 リュシアは差し出されたスプーンを見て、少し安心したように息を吐いた。

「これは分かりますわ」

「よかったな」

「この国にも慈悲はあるのですね」

「箸に負けた王女が言うと重いな」

 リュシアは、恐る恐る牛丼をすくった。卵はまだかけていない。まずは肉と米だけ。

 彼女は少しだけ匂いを確かめ、それから口へ運んだ。

「……」

 止まった。目が見開かれる。背筋が伸びる。

 そして、頬がほんの少し赤くなった。

「……温かい」

「そりゃ牛丼だからな」

「甘くて、しょっぱくて、肉が柔らかくて……米に味が染みていますわ」

「急に食レポ上手いな」

「これが……この速さで?」

「ああ」

「誰でも?」

「金払えばな」

 リュシアはもう一口食べた。今度は少し大きめに。それから、味噌汁を見た。

「これは?」

「味噌汁」

「みそしる」

「汁物。熱いから気をつけろ」

 リュシアは器を両手で持ち、そっと口をつけた。

「……」

 また黙った。

「どうした?」

「優しい味がしますわ」

「味噌汁だからな」

「これは、戦場で飲んだら泣いてしまうかもしれません」

 その言葉に、オレは少し箸を止めた。

 リュシアは味噌汁の表面を見つめていた。

「アレマスの前線では、温かい汁物は貴重です。火を使えば居場所が知られる。保存食は硬く、冷たく、喉を通りません。だから兵たちは、食べるというより、腹に入れるだけになります」

「……」

「でもこれは、温かい。すぐに出てくる。誰も奪い合っていない。隣の人も、前の人も、普通に食べています」

 リュシアは店内を見回した。

 スーツ姿の会社員に作業着の男。スマホを見ながら食べる学生。 新聞を広げる老人。

 誰も、牛丼を奇跡だとは思っていない。ただの朝飯として食べている。

「風磨」

「なんだ」

「この国の人々は、皆、王族なのですか?」

「いや、たぶんこの時間だと店内のほとんどは会社に行きたくない人たちだ」

「会社」

「この世界の戦場みたいなもんだ」

「では、兵士なのですね」

「まあ、ある意味な」

 リュシアは真剣に頷いた。たぶん、何かを誤解している。だが、完全に間違っているとも言い切れないのがつらい。オレは紅しょうがを少し取って、自分の牛丼に乗せた。

 その瞬間、リュシアが身を乗り出した。

「風磨」

「なんだ」

「その赤いものは?」

「紅しょうが」

「毒ですの?」

「毒じゃない」

「でも赤いですわ」

「赤い食べ物全部毒扱いすんな」

「辛いのですか?」

「少しな。酸っぱい」

「毒では?」

「二回言うな」

 オレは紅しょうがを混ぜて食べた。

 リュシアは恐る恐る見ている。

「食ってみるか?」

「……少しだけ」

 オレはリュシアの牛丼の端に、ほんの少しだけ紅しょうがを乗せた。リュシアはスプーンでそれをすくい、覚悟を決めた顔で口に入れた。

「……!」

「どうだ?」

「酸っぱいですわ」

「だろ」

「でも、肉の甘さが引き締まります」

「お、分かってる」

「毒ではありませんでした」

「だから言ったろ」

 そして、問題の生卵。

 リュシアは小鉢の卵をじっと見つめていた。

「……これも、試すべきでしょうか」

「無理しなくていいぞ」

「いえ。風磨が食べているものを、わたくしだけ避けるのは不公平ですわ」

「そういう問題か?」

「それに」

 リュシアは少しだけ笑った。

「あなたの普通を知りたいのです」

 変なことを言う。牛丼の生卵に、そんな重い意味を乗せるな。こっちが食いづらくなる。

「じゃあ、割るぞ」

「はい」

 卵を割って小鉢に落とす。醤油を少し入れて、箸で混ぜる。

「これをかける」

「はい」

 リュシアは緊張した顔で頷いた。卵を牛丼にかけると、彼女はしばらくそれを見つめていた。

 それから、スプーンですくって口に入れる。

「……」

「どうだ?」

「……まろやかですわ」

「だろ」

「肉の味が、やわらかくなります」

「そうそう」

「野蛮ではありませんでした」

「謝れ。生卵に」

「ごめんなさい、生卵」

「本当に謝るな」

 リュシアは少しずつ、でも確かに牛丼を食べ進めていった。最初は恐る恐る。次第に、普通に。最後の方は、少し名残惜しそうに。

 空になった丼を見つめて、リュシアは小さく息を吐いた。

「美味しかったですわ」

「そりゃよかった」

「風磨」

「なんだ」

「わたくし、国に帰ったら、まず温かい朝食を増やしたいです」

「魔王討伐より先に?」

「はい」

 リュシアは真面目な顔で言った。

「世界を救うには、まず朝飯ですもの」

 オレは少し笑った。

「雑がうつってきたな」

「よい傾向ですわ」

 リュシアも、少しだけ笑った。

 店の外では、朝の街が普通に動いている。世界修正機構も、魔王軍も、勇者も、今だけは遠い。目の前にあるのは、空になった丼と、味噌汁の器と、少しだけ残った紅しょうが。

 それで十分だった。少なくとも、今は。

 頭の奥で、久しぶりに声が鳴った。

『ピ。アレマス王女、行動方針に変化』

『ピ。魔王討伐優先度、一時低下』

『ピ。朝食改善計画、発生』

『ピ。因果系統に軽微な混乱』

「軽微で済むんだ」

 リュシアが首を傾げる。

「また声ですの?」

「ああ」

「何と?」

「君が、魔王討伐より朝食を優先し始めたって」

 リュシアは少し頬を赤くした。

「そ、それは、比喩ですわ」

「世界のシステムに比喩は通じないっぽいぞ」

 チリン。

 店の外に停めたノイシュバンシュタイン号のベルが鳴った気がした。いや、店内まで聞こえるわけがない。たぶん気のせいだ。

 たぶん。

「さて」

 オレは立ち上がった。

「行くか」

「どちらへ?」

「とりあえず、服だな」

「服?」

「その格好、目立ちすぎる」

「王女ですから」

「日本ではコスプレだ」

「こすぷれ」

「説明はあと」

 リュシアは少し不満そうにしながらも、素直に頷いた。

「分かりました。郷に入っては郷に従え、ですわね」

「それ、気に入ったのか?」

「便利な呪文ですわ」

「呪文じゃない」

 そうしてオレたちは、牛丼屋を出た。

 世界を救う予定は、まだない。

 魔王を倒す予定も、まだない。

 とりあえず、王女の服をどうにかする。

 そしてできれば、もう一回寝る。

 それが、この時点でのオレの全計画だった。



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