第6話 二人乗りは違反です
黒と緑のノイシュバンシュタイン号は、信じられない速度で朝の住宅街を抜けた。
いや、速度そのものはよく分からない。
ペダルを漕いでいる感覚はある。だが、脚にかかる重さはほとんどない。風だけが、やたら鋭く顔を叩いてくる。
「風磨! 速いですわ! この子、本当に速いですわ!」
「認めたくねえけどな!」
「なぜですの!? 素晴らしいではありませんか!」
「男にはな、納得できる速さと、納得できない速さがあるんだよ!」
「分かりませんわ!」
「オレも説明できん!」
背後を見る。白仮面はいない。物置の壁際に現れた一体も、アパート前で止まっていた三体も、追ってきてはいなかった。
代わりに、頭の奥であの声だけが鳴る。
『ピ。追跡不能』
『ピ。対象、公共生活領域へ侵入』
『ピ。観測者多数』
『ピ。修正処理、露見リスク増大』
『ピ。追跡一時停止』
「……止まった?」
「何がですの?」
「白仮面。追ってこない」
「本当ですの?」
「たぶん。人が多い場所だと、派手に動けないらしい」
「世界修正機構にも、人目を気にする概念がありますのね」
「意外と世間体あるんだな」
そう言って、オレは大通りへ出た。その瞬間、後ろのリュシアが息を呑んだ。
「……」
「どうした?」
返事がない。
不安になって振り返りかけたが、二人乗りでそれをやると普通に危ないのでやめた。
「リュシア?」
「……すごい」
小さな声だった。
「すごいですわ……」
朝の街。
通勤の人々。車の列。歩道を行き交う学生。ガラス張りのビル。信号機。高架の上を走る電車。自販機の並ぶ角。コンビニの明るい看板。
オレにとっては、見慣れた街だ。うるさくて、忙しくて、たまに息苦しくて、夜勤明けには眩しすぎるだけの街。だが、リュシアはまるで宝石でも見るように、それを見ていた。
「この街には……光が多いのですね」
「まあ、都会ほどじゃないけどな」
「人も多いですわ」
「朝だからな」
「誰も怯えていません」
その言葉に、少しだけペダルを踏む足が鈍った。
「……怯えて?」
「アレマスの王都では、空を見る者が減りました」
リュシアの声は静かだった。
「魔王軍の飛竜が来るかもしれない。結界が破れるかもしれない。夜になれば、遠くの砦が燃える光が見える。だから、皆、空を見上げなくなりました」
「……」
「でも、この街の人たちは、空を見ていなくても、怯えていない。歩いています。話しています。怒っています。笑っています」
リュシアの手が、オレのパーカーを少し強く掴んだ。
「風磨。この世界は、平和なのですね」
平和。
そう言われると、少し困る。この世界にも、嫌なことは山ほどある。金はない。仕事はきつい。孤独は消えない。ニュースを見れば、ろくでもない話ばかりだ。
でも。
少なくとも今、この朝の街で、誰も魔王軍の飛竜に怯えてはいない。
「まあ」
オレは前を見たまま言った。
「完璧じゃないけどな」
「それでも」
リュシアは言った。
「とても、綺麗ですわ」
その声が妙にまっすぐで、オレは何も言えなくなった。その時だった。
「そこの自転車ー!」
現実が、ものすごい勢いで戻ってきた。
「はい?」
歩道の向こう。交番の前。制服姿の警察官が、こちらを見ていた。
「二人乗りはダメだよー! 止まりなさーい!」
「……」
「風磨?」
「……リュシア」
「はい」
「この世界にも、守らなきゃいけない予定がある」
「世界修正機構ですの?」
「もっと身近で厄介なやつだ」
「まさか」
「警察だ」
「けいさつ」
「この国の秩序担当」
「騎士団ですのね」
「だいたい合ってる」
「逃げますの?」
「逃げたら余計まずい」
オレはブレーキを握った。黒と緑のノイシュバンシュタイン号は、妙に滑らかに止まった。
チリン。ベルが鳴る。
「鳴るな。反省してる感じ出せ」
警察官がこちらへ歩いてくる。若い男性警官だった。眠そうな顔をしたコンビニ夜勤明けの男。異国どころではない格好の銀髪王女。黒と緑の妙にかっこいいママチャリ。しかも二人乗り。どう考えても職質案件だ。
「君たち、危ないから二人乗りはダメだよ」
「すみません」
オレは即座に頭を下げた。こういう時は早い方がいい。謝罪は速度だ。
「この子、ヘルメットもしてないしね」
「はい、本当にすみません」
リュシアが後ろで小声で囁いた。
「風磨」
「なんだ」
「この方が、騎士団長ですの?」
「違う」
「しかし、あなたがすごく従順ですわ」
「現代日本で警察に逆らうな」
「魔王軍よりも?」
「種類が違う怖さだ」
警察官がリュシアを見た。
「えっと……その子、外国の人?」
「まあ、そんな感じです」
「観光?」
「まあ、そんな感じです」
「その服は?」
「まあ、そんな感じです」
「全部そんな感じだね」
「すみません」
警察官は困ったように笑った。
「とにかく、二人乗りは危ないから。歩いて移動してね」
「はい」
「あと、その自転車……すごい色だね」
「ですよね」
「改造してる?」
「してません」
言ってから、少し迷った。してない。オレはしてない。だが、された。
世界に。
「……たぶん」
「たぶん?」
「すみません。寝不足で」
「気をつけてね」
警察官は少し怪しそうにしながらも、それ以上は追及しなかった。
ありがたい。この世界の秩序担当は、意外と優しかった。オレはノイシュバンシュタイン号から降りた。
「降りろ、リュシア」
「歩くのですか?」
「そう。二人乗りは違反」
「違反……」
リュシアは少し真面目な顔で頷いた。
「分かりました。郷に入っては郷に従え、ですわね」
「なんでその言葉知ってるんだ」
「今、雰囲気で言いました」
「すごいな王女」
リュシアはノイシュバンシュタイン号から降りると、改めて街を見回した。
信号が青に変わる。人々が一斉に歩き出す。車が止まり、歩行者が渡る。誰かのスマホが鳴る。パン屋から焼きたての匂いがする。
そして、歩道の脇を学生が自転車で通り過ぎた。その後ろから、買い物カゴをつけたおばちゃんの自転車。さらに向こうの駐輪場には、何十台ものママチャリが並んでいる。
リュシアの目が輝いた。
「あ! あっちにも、こっちにも、ままちゃりがいますわ!」
「まあ、日本には多いからな」
「皆様、風磨のように飛ぶのですね?」
「それはないと思う」
「では、飛べるままちゃりと、飛べないままちゃりがあるのですか?」
「普通は全部飛べない」
「では、風磨のままちゃりだけが特別?」
「すごく認めたくないけど、今のところそうなる」
チリン。
ノイシュバンシュタイン号が、少し得意げに鳴った。
「だから鳴るな。お前を褒めたわけじゃない」
「ですが、この街にはこれほど多くのままちゃりがあるのですね……」
リュシアは駐輪場を見つめたまま、真剣な顔で呟いた。
「もし全てが飛べるようになれば、空軍になりますわ」
「やめろ。日本の駐輪場を軍事利用するな」
「ですが、魔王軍の飛竜にも対抗できるのでは?」
「おばちゃんが前カゴにパンとか入れて空飛ぶ戦場、嫌すぎるだろ」
リュシアは少し想像したのか、眉をひそめた。
「……たしかに、絵面が強すぎますわね」
「強いって言うな」
「風磨」
「なんだ?」
「この世界には、魔法がないのですよね?」
「たぶんない」
「でも、すごいですわ」
「何が?」
「魔法がなくても、こんなに人が暮らしている」
リュシアは、少しだけ笑った。
「わたくし、少しだけ分かった気がします」
「何を?」
「あなたが、なぜ世界修正機構に分類できないのか」
「なんで?」
「あなたは、この世界の人だからです」
「……普通すぎる理由だな」
「普通だから、ですわ」
リュシアはまっすぐに言った。
「わたくしたちの世界では、奇跡は魔法や神託や勇者が起こすものです。でも、この世界では、普通の人が普通に生きるために、たくさんの仕組みを作っている」
彼女は信号機を見上げた。
「あの光も。あの箱も。水の出る蛇口も。夜でも明るい街も」
「……」
「風磨。あなたはたぶん、特別な力を持っているのではありません」
「じゃあなんなんだよ」
「普通を、わたくしたちの世界に持ち込んでしまう人なのかもしれません」
普通を持ち込む。それが、世界にとっては異常。なんだそれ。変な話だ。
でも、少しだけ分かる気もした。白仮面は、魔法にも、因果にも、勇者にも対応できる。
でも、ペットボトルやママチャリや警察には、妙に弱い。
世界修正機構が管理している“物語”の外側にあるもの。それが、この世界の普通なのかもしれない。
「……つまり、オレの武器は普通ってこと?」
「はい」
「普通の男にしては、背負うものがでかすぎるんだが」
「それも、風磨らしいですわ」
「またそれかよ」
チリン。
ノイシュバンシュタイン号が鳴った。
「お前も“それな”みたいに鳴るな」
リュシアが笑った。
白仮面は追ってこない。
世界修正機構の声も、今は静かだ。
ほんの少しだけ、時間が止まったみたいだった。いや、止まってはいない。信号は変わる。人は歩く。車は流れる。街は普通に動いている。
その普通さが、今だけ少しありがたかった。
「で、風磨」
「なんだ?」
「これからどうしますの?」
聞かれて、オレは空を見た。朝日はすっかり昇っていた。夜勤明けの眠気は限界。腹も減っている。王女は現代日本に感動している。ママチャリはNinja仕様。白仮面は一時停止中。オレの朝飯の入ったコンビニ袋は消失。
さて。
「まず」
「はい」
「朝飯だ」
リュシアは目を瞬かせた。
「朝飯」
「そう。世界の前に飯」
「……雑ですわね」
「雑で結構」
オレは歩き出した。
リュシアがその隣に並ぶ。
黒と緑のノイシュバンシュタイン号を押しながら、オレたちは朝の街を歩き出した。その日、異世界の王女は初めて、現代日本の街を歩いた。
そしてオレは初めて、誰かと朝飯を食べることになった。




