第5話 黒と緑のノイシュバンシュタイン号
「ああああ……」
オレは膝から崩れ落ちた。ノイシュバンシュタイン号と、オレのKAWASAKI H2SX Ninja。中学から乗っているボロいママチャリと、生活費を削ってまで守ってきた黒と緑の鋼の獣。その二つが、合体した。いや、融合した。いや、統合した。頭の中の声はそう言っていた。
『ピ。統合、完了』
やめろ。完了するな。目の前に現れたのは黒と緑のスタイリッシュに彩られた普通のママチャリだった。
「ああああ」
オレはがっくりと…うん、もういいや。項垂れる前にこの状況を放置しよう。うん。何もなかった。これは夢。よくあるじゃん?訳分からない夢って。これがそれなんだ。よしオレ、早く目を覚ませ。
「風磨?」
ああ、この声が現実を呼び起こす…
「なんだよ」
「なんだかこの、ちゃりって言うのですか?格好いいですね」
「はい?」
思わず、素の声が出た。リュシアは、物置の前に鎮座するそれを、目を輝かせて見つめていた。
黒。
緑。
無駄に鋭いライン。やたら光沢のあるフレーム。前カゴまで、なぜか深いメタリックグリーンに輝いている。サドルの後ろには、申し訳程度に「H2SX」と書かれたステッカー。そして中央には、堂々たる文字。
NEUSCHBANSTEIN
なんだその主張。お前、いつからそんな自我を持った。
「格好いい……の?」
「ええ。とても」
「これが?」
「はい」
「これ、ママチャリだぞ?」
「ままちゃり、というものは、この世界の騎獣なのでしょう?」
「騎獣っていうか、買い物とか通学に使うやつ」
「それで空を飛び、世界修正機構から逃げ切ったのでしょう?」
「飛んだのは事故だ」
「でも飛びましたわ」
「ペットボトル踏んだだけだ」
「それでも飛びましたわ」
言い返せなかった。
くそ。
リュシアの言い分は、時々妙に強い。
「それに、風磨」
「なんだよ」
「この子、さっきより誇らしげです」
「ママチャリに誇りとか持たせるな」
チリン。
ベルが鳴った。
「返事するな!」
いや、待て。今、完全に返事したよな?オレは恐る恐る、黒と緑のママチャリを見た。前カゴ。荷台。ペダル。ベル。ライト。スタンド。どこからどう見てもママチャリだ。ただし、塗装だけがやたら格好いい。KAWASAKIの魂を雑に塗りたくったママチャリ。これ以上、男のロマンを雑に扱う現象があるだろうか。
「……オレのNinja」
声が震えた。
「オレのH2SX……」
頭の奥で、あの声が鳴る。
『ピ。上位走行体の意匠情報を抽出』
『ピ。随伴物の基礎形態を維持』
『ピ。特異点候補の最適移動記憶に基づき再構成』
『ピ。統合結果、良好』
「良好じゃねえよ!」
基礎形態を維持。つまり、世界はこう判断したらしい。オレにとって一番“使える”乗り物はNinjaではなく、ノイシュバンシュタイン号だと。だから、Ninjaの性能でもなく、エンジンでもなく、ただ意匠だけを抽出した。
結果。黒と緑のママチャリ。
「最悪だ……」
「わたくしは好きですわ」
「好きになるな。オレの絶望を」
「だって、風磨らしいですもの」
「オレらしいって何だよ」
リュシアは少し考えた。それから、真面目な顔で言った。
「立派なものを持っていても、なぜか庶民的になるところです」
「やめろ。的確に刺すな」
チリン。
「お前も同意するな!」
オレは頭を抱えた。
だが、黒と緑のノイシュバンシュタイン号は、どこか満足げに見えた。いや、ママチャリに表情なんかない。ないはずだ。でも、前カゴの角度とか、ライトの光り方とか、ベルの鳴り方が、妙にドヤっている。
「……なんだよ」
オレはため息をついた。
「お前、Ninjaになりたかったんじゃなくて、Ninjaっぽくなりたかっただけかよ」
チリン。
「そこは否定しろよ!」
リュシアがくすくす笑った。初めて見る、肩の力が抜けた笑い方だった。王女としてでもなく、死ぬ予定だった少女としてでもなく、ただ目の前の妙な乗り物を面白がっている女の子。
まあ。それはそれで、悪くない。オレのNinjaは死んだが。いや、死んだと言うな。今それを考えると本当に泣く。
「で、風磨」
「なんだ」
「この子には、名前がありますの?」
「ある」
「何というのです?」
「ノイシュバンシュタイン号」
「……長いですわね」
「中学のオレに言ってくれ」
「では、この黒と緑になった姿は?」
「知らん」
その瞬間、ママチャリのライトが点灯した。カチリ、とどこかから音が鳴る。前カゴの底に、緑色の光が走った。メーターなんてあるはずのないハンドル中央に、小さな表示が浮かぶ。
『第二形態』
「勝手に決めんな!」
『ノイシュバンシュタイン号・Ninja仕様』
「仕様で済ませるな!」
「素敵ですわ!」
「素敵じゃない!」
頭の奥で、また声が鳴った。
『ピ。特異点随伴物、再定義完了』
『ピ。分類不能移動体として登録』
『ピ。最高速度、測定不能』
『ピ。動力源、不明』
『ピ。運用条件、特異点候補の意思および脚力』
「最後だけ急に現実的だな!」
脚力。脚力って言ったか。つまりこれ、いくらNinja仕様になっても、結局漕ぐのか。漕がなきゃいけないのか。
「……なあ、リュシア」
「はい」
「異世界の魔法とかで、これエンジンに戻せない?」
「えんじんが何か分かりませんが、無理だと思いますわ」
「即答かよ」
「これはおそらく、風磨の認識を核に再定義されています」
「オレの認識?」
「はい。あなたにとって、今もっとも信頼できる移動手段は、この子だったのでしょう」
「Ninjaじゃなくて?」
「Ninjaは、大切なもの。憧れ。守りたいもの」
リュシアは、黒と緑のママチャリにそっと視線を向けた。
「でも、この子は、あなたと一緒に逃げたものです」
その言葉に、少しだけ黙った。確かに。Ninjaは大事だった。憧れだった。オレが一人で生きていく中で、唯一“格好いい自分”を保つためのものだった。
でも、リュシアを乗せて白仮面から逃げたのは、ノイシュバンシュタイン号だ。地獄坂を下ったのも。ペットボトルを踏んで飛んだのも。ETかよ、と叫ばせたのも。全部こいつだ。
「……だからってNinjaを吸収する必要はないだろ」
「それは、まあ」
リュシアは少し目を逸らした。
「やりすぎですわね」
「だろ?」
チリン。
「お前が鳴るな!」
その時、空気が少しだけ冷えた。さっきまで朝日が差していたアパート裏の空間が、薄く白く濁る。
リュシアの表情が変わった。
「風磨」
「ああ」
来た。
白い亀裂が、物置の壁際に走る。そこから、白い仮面が一体、音もなく現れた。
『ピ。特異点候補を確認』
『ピ。アレマス王女を確認』
『ピ。随伴物、形態変化を確認』
『ピ。分類――』
白仮面は、そこで止まった。顔のない仮面が、黒と緑のママチャリを見ている。沈黙.........長い沈黙。
『ピ』
『……』
『ピ。分類不能』
「だろうな!」
オレは思わず叫んだ。白仮面はさらに首を傾げた。
『上位走行体の意匠を有する、低速人力移動体』
『対象世界の技術体系と不一致』
『アレマス王国の魔導体系とも不一致』
『用途、不明』
『美意識、不明』
「美意識はほっとけ!」
「わたくしは美しいと思いますわ!」
「今は援護しなくていい!」
白仮面の腕が、ゆっくりと持ち上がる。
『ピ。分類不能対象は、因果安定性を著しく低下させる』
『削除対象に追加』
「おい、待て」
オレは黒と緑のノイシュバンシュタイン号のハンドルを掴んだ。
「こいつに触るな」
自分で言ってから、少し驚いた。さっきまで絶望していたくせに。Ninjaがママチャリになったと嘆いていたくせに、削除対象と言われた瞬間、腹が立った。勝手に統合されたのはムカつく。見た目がママチャリなのも泣きたい。でも。これは、オレのものだ。
「勝手に消すな」
白仮面の指先が光る。リュシアが息を呑む。
「風磨、危ないですわ!」
「乗れ!」
「これに!?」
「さっき格好いいって言ったろ!」
「言いましたけど!」
「じゃあ乗れ!」
オレはサドルに跨った。ハンドルを握る。黒と緑のフレームが、低く震えた。エンジン音はしない代わりに、ペダルが妙に軽い。最悪だ。でも、不思議と怖くはなかった。いや、怖い。普通に怖い。でも、さっきよりはマシだ。リュシアが後ろに乗る。
「また荷台ですの!?」
「仕様だ!」
「あら、なんだか座り心地がいいですわ。Ninja仕様だから!?」
「そうなの?って、オレに聞くな!」
白い光が放たれる。その瞬間、オレはペダルを踏み込んだ。黒と緑のノイシュバンシュタイン号が、ありえない加速をした。脚力ではない。絶対に脚力ではない。だって、オレの太ももはもう限界だ。それでも、自転車は滑るように前へ出た。白い光を、紙一重でかわす。物置の壁が、音もなく白く消えた。
「速っ!?」
「速いですわあああ!?」
リュシアが叫ぶ。オレも叫びたい。いや、叫んでいた。
「これもうママチャリじゃねえだろ!」
頭の奥で、声が鳴る。
『ピ。分類不能移動体、起動』
『ピ。動力源、不明』
『ピ。推進方式、不明』
『ピ。ただし、ペダル操作により加速を確認』
『ピ。名称、ノイシュバンシュタイン号・Ninja仕様』
黒と緑のママチャリが、白仮面の横をすり抜ける。
チリン。
ベルが鳴った。まるで勝ち誇るように。白仮面がこちらを追おうとして、また止まった。
『ピ。対象速度、再計算』
『ピ。低速人力移動体として異常』
『ピ。高速移動体としても異常』
『ピ。分類不能』
オレは笑った。笑うしかなかった。
「ざまあ」
「風磨!」
「なんだ!」
「この子、本当にすごいですわ!」
「認めたくねえ!」
「でもすごいですわ!」
「それはそう!」
アパート裏から道路へ飛び出す。朝の空気を切って、黒と緑のママチャリが走る。白仮面は追ってこない。いや、追えない。あいつらは、意味の分からないものに弱い。そして今、オレたちはたぶん、この町内で一番意味の分からない存在だった。頭の奥で、あの声が静かに鳴った。
『ピ。特異点とは』
『予定された世界に、予定されない選択を持ち込む存在』
『ピ。補足』
『当該個体の場合、その選択は概ね不格好』
「補足すんな!」
リュシアが、後ろで笑った。
ノイシュバンシュタイン号が、チリンと鳴った。
そしてオレは、黒と緑のママチャリに乗って、また世界の予定から逃げ出した。
5話一気に上げてみました。誰かの琴線に触れることができれば幸いです。




