第4話 ひとまず落ち着こう
「まぁ、その、なんだ、ちょっと整理しよう」
「それがいいですわね」
リュシアは床に座ったまま、こくりと頷いた。
六畳一間の安アパート。出しっぱなしの布団。洗いたてとは言い難いコップ。外には、勝手にベルを鳴らすようになったママチャリ。
そして目の前には、異世界の王女。
整理。整理とは何だ。この状況を整理できる棚があるなら、今すぐ買いたい。
「まず、君が空? から降ってきて、オレに頭突きして――」
「違いますわ! 風磨が頭突きしてきたんですの!」
「いやいやいや。落下してきた側に頭突きの主導権あるだろ」
「わたくしは落下していただけです!」
「それを人は事故って言うんだよ!」
「事故に巻き込まれたのはわたくしですわ!」
「巻き込まれたのオレだろ!」
二人して、しばらく睨み合った。朝から何をしているのだろう。異世界の王女と、頭突きの過失割合について争っている。たぶん、保険会社も困る。
「……まあいい」
「よくありませんが、今は置いておきますわ」
「置けるんだ」
「王族ですから」
「王族便利だな」
オレは床に座り、空の缶コーヒーを横にどけた。
「で、その後、変な声が頭に聞こえた」
「変な声?」
「ああ。ピ、とか言ってた」
「ピ」
「そう。ピ」
「ずいぶん間の抜けた音ですわね」
「内容は全然間抜けてないけどな。変異体確認とか、因果照合失敗とか、アレマスを確保せよとか」
リュシアの顔が、少しだけ硬くなった。
「……やはり、聞こえていたのですわね」
「やはり?」
「世界修正機構の観測音声です」
「観測音声」
「本来、人に聞こえるものではありません」
「本来って言われても、今朝から本来じゃないことしか起きてないんだが」
「それはそうですわね」
認められた。
あまり嬉しくない。
「つまり、あの白仮面たちが出してる声ってことか?」
「正確には、彼らそのものの声ではありません。あれは世界の修正端末です。世界の予定から外れたものを検出し、修正し、必要なら消去する存在です」
「端末」
「ええ」
「世界って、スマホみたいな管理してんの?」
「すまほ?」
「そこから説明する体力はない」
リュシアは少し考えるように、コップの水を見つめた。
「風磨。あなたは、あの声をどのように聞きましたの?」
「どのようにって?」
「耳で?」
「いや、頭の中に直接って感じだな。音っていうより、文字が流れ込んでくるみたいな」
「……干渉されていますわね」
「嫌な言い方するな」
「事実ですもの」
「もっと嫌だ」
リュシアは真面目な顔で続けた。
「普通、世界修正機構の処理は、個人の認識には上がりません。先程も申し上げましたが、割れた皿が直っても、人はそれを不自然だと思わない。最初から割れていなかったことになるからです」
「記憶まで直すってことか?」
「近いですわ。記憶というより、認識の辻褄が合わされます」
「怖っ」
「ですが、あなたはそれを聞き、覚えている」
「聞きたくて聞いてるわけじゃないけどな」
「だから、あなたは特異点候補なのです」
「候補って何だよ。正式採用されたくないんだけど」
「わたくしにも分かりません。ただ……世界にとって、あなたは分類できない存在なのだと思います」
分類できない存在。コンビニ夜勤明け。家族なし。友達なし。彼女なし。趣味は、たまにバイク雑誌を眺めること。生活力は低い。部屋は狭い。朝飯はおにぎりとコロッケパン。そんな男が、分類できない存在。
「世界、見る目ないな」
「自己評価が低すぎますわ」
「今の部屋見てそれ言える?」
「部屋と人の価値は別です」
リュシアが当たり前みたいに言った。
なんだ。そういうことは普通に言うのか、この姫は。オレは少しだけ返事に困った。
「……で、次」
話を逸らすように、オレは指を折った。
「君は勇者召喚に利用された」
「はい」
「でも勇者はいない」
「……はい」
「君は本来、召喚と引き換えに死ぬ予定だった」
「……」
リュシアの表情が、わずかに曇った。さっきまでの勢いが消える。当然だ。自分が死ぬ予定だったなんて、急に言われて平気なやつはいない。王女でも。異世界人でも。
「その死が、勇者を覚醒させるきっかけになる」
「白仮面は、そう言ったのですね」
「ああ」
リュシアはコップをぎゅっと握った。水面が小さく揺れる。
「……わたくしは」
「うん」
「国を救うためなら、命を賭ける覚悟はありました」
急に、声が王女のものになった。さっきまで「おしりが痛いですわ」と叫んでいた子と同じとは思えないくらい、静かで、硬い声。
「アレマス王国は、魔王軍に押されています。砦は落ち、北部の村は焼かれ、王都の結界も長くはもちません。だから、勇者召喚は最後の希望でした」
「……」
「わたくしは、その儀式の中心に立ちました。王家の血が必要だったからです。怖くなかったと言えば嘘になります。でも、それで民が救われるなら、必要な役目だと思いました」
リュシアは顔を上げた。
「でも」
その目は揺れていた。
「死ぬ予定だったなどと、最初から決められていたなんて」
初めて、リュシアが王女ではなく、ただの女の子に見えた。
「そんなものは、覚悟ではありませんわ」
オレは何も言えなかった。軽口を叩くところじゃない。夜勤明けの脳でも、それくらいは分かった。
「……まあ」
だから、少しだけ間を置いてから言った。
「死んでないんだから、今はそれでいいだろ」
リュシアが目を瞬かせた。
「それでいい、ですの?」
「少なくとも、オレはそう思う」
「ずいぶん単純ですわね」
「難しく考えたところで、死んでた方がよかったなんて話にはならないだろ」
リュシアは黙った。
「それに」
「それに?」
「死ぬ予定とか言われても、オレは認めない」
「……なぜ?」
「ムカつくから」
「理由が雑ですわ」
「雑で悪いか」
「悪くは……ありません」
リュシアは小さく笑った。
さっきより少しだけ、顔色が戻ったように見えた。その時。
チリン。外でベルが鳴った。二人とも、同時に黙る。
「……なあ」
「はい」
「あいつ、話の区切りで鳴るタイプなの?」
「わたくしに聞かれても困りますわ」
チリン。もう一度鳴った。オレは玄関を見た。ノイシュバンシュタイン号。さっきから、あいつの存在感が強すぎる。ただのママチャリだったはずなのに。中学から乗っている、錆びて、軋んで、ベルの音だけやけに軽いママチャリだったはずなのに。
「風磨」
「なんだ?」
「外を見た方がよろしいのでは?」
「嫌な予感しかしない」
「同感ですわ」
だが、見ないわけにもいかない。オレは立ち上がり、ドアスコープを覗いた。外廊下には、ノイシュバンシュタイン号がいた。さっきと同じ。スタンドを立てて、こちらを向いている。ただ、今度は違う点があった。前輪が、ゆっくりと回っている。誰も触れていないのに。カラカラ、と音を立てて。
「……回ってる」
「何がですの?」
「前の車輪」
「風もないのに?」
「風はある。オレの名前に二回も」
「今それを言う余裕がありますの?」
「ない」
頭の奥で、また声が鳴った。
『ピ。随伴物、自己修正継続』
『ピ。走行性能、不足』
『ピ。特異点候補の生存率、低下』
『ピ。上位走行体を検索』
「……上位走行体?」
嫌な単語だった。とても嫌な単語だった。オレの部屋に、上位走行体と呼べそうなものはない。ない、はずだ。
いや。ある。正確には、部屋ではない。アパート裏の小さな物置。大家に頼み込んで、月五千円追加で借りている場所。そこに、オレが唯一手放さずにいるものがある。
「風磨?」
リュシアが不安そうに見上げる。オレは、ゆっくりと玄関から離れた。
「……まずい」
「何がですの?」
「ノイシュバンシュタイン号が」
「はい」
「オレの趣味に手を出そうとしている」
「趣味?」
「一番、触れちゃいけないやつに」
チリン。
ベルが鳴った。まるで、返事みたいに。
「……ちょっと待て。お前、まさか」
オレは慌てて玄関を開けた。その瞬間、ノイシュバンシュタイン号のスタンドが勝手に跳ね上がった。
ガチャン。
「おい!」
ママチャリが動いた。いや、勝手に転がり出した。外廊下を、カラカラと。
「ちょ、待て! 止まれ! お前、そっちは――!」
オレは靴をつっかけて飛び出した。リュシアも慌てて後に続く。
「どこへ行くのです!?」
「アパート裏!」
「何があるんですの!?」
「オレの人生で、たぶん一番高いもの!」
階段を駆け下りる。夜勤明けの足に二度目の酷使。もう労基に訴えたい。ノイシュバンシュタイン号は、誰も乗っていないのに、器用に階段の横を回り込み、アパート裏へ向かっていく。
怖い。普通に怖い。ママチャリが自走する光景は、白仮面とは別方向に怖い。
「風磨! あれは生き物なのですか!?」
「昨日までは違った!」
「今日からは!?」
「知らん!」
アパート裏には、小さな物置がある。錆びたシャッターに古い南京錠。普段は誰も気にしない薄暗いスペース。
ノイシュバンシュタイン号は、その前で止まった。
チリン。
ベルが鳴る。オレは息を切らしながら、ママチャリのハンドルを掴んだ。
「ダメだ」
チリン。
「ダメだって言ってるだろ」
チリン。
「それは、本当にダメなやつなんだよ」
「風磨」
リュシアが物置を見上げる。
「この中に、何が?」
オレは答えなかった。答える代わりに、ポケットから鍵を取り出す。手が少し震えていた。白仮面に追われた時とは違う震えだ。もっと個人的で、もっと切実なやつ。南京錠を外してシャッターに手をかける。
「先に言っておく」
「はい」
「触るな」
「まだ何もしていませんわ」
「見るのはいい」
「はい」
「褒めるのもいい」
「はい?」
「だが、触るな」
「……そんなに大切なものなのですか?」
オレは頷いた。
「ある意味オレの人生だ」
シャッターを開ける。ガラガラと音を立てて、薄暗い物置に朝の光が差し込んだ。オイルと金属の匂い。黒と緑の車体。磨かれたタンクに鋭いフロントマスク。安アパートの裏に置くには、明らかに場違いな存在。
KAWASAKI H2SX Ninja。 KAWASAKIが世界に誇る最上級バイクである。
家具は安物。食器は百均。服はだいたい適当。それでも、こいつだけは手放さなかった。
リュシアが息を呑んだ。
「……黒と緑の、鋼の魔獣」
「違う」
オレは言った。
「カワサキだ」
その瞬間。
ノイシュバンシュタイン号の前輪が、Ninjaのタイヤに、こつんと触れた。
チリン。
ベルが鳴り、Ninjaのメーターが、キーも挿していないのに点灯した。
「……おい」
頭の奥で、声が鳴る。
『ピ。上位走行体を確認』
『ピ。所有者一致』
『ピ。随伴物間接続、成立』
『ピ。走行性能差、甚大』
『ピ。統合を開始』
「やめろおおおおおお!」
オレの叫びが、安アパートの裏に響いた。




