第3話 王女様、安アパートに入城する。
どうやら、白仮面どもはいなくなったようだ。いや、いなくなったというより、追ってこられなくなった、の方が正しいのかもしれない。
理由は分からない。ペットボトル。地獄坂。ノイシュバンシュタイン号の謎ジャンプ。朝日を背にしたETごっこ。どれが効いたのか、あるいは全部が効いたのか。
とにかく、世界修正機構とかいう物騒な連中は、今のところ見当たらない。
「リュシア、一度オレのアパートへ戻るぞ」
「あ、アパート? とはなんですの?」
「オレの住まいだ」
「住まい」
リュシアは、なぜか少しだけ安心したような顔をした。
「なるほど。あなたの拠点ですのね」
「まあ、拠点ってほど立派なもんじゃないけどな」
「謙遜は美徳ですわ」
「たぶん謙遜じゃなくて事実だぞ」
ノイシュバンシュタイン号を押しながら、オレたちはアパートへ戻った。途中、リュシアは何度も周囲を見回していた。電柱。自販機。カーブミラー。ゴミ集積所。通学中の高校生。
さっきは逃げるので精一杯だったのだろう。見るもの全部が珍しいらしい。
「風磨」
「なんだ?」
「あの箱は何ですの?」
「自販機」
「ジハンキ」
「金を入れると飲み物が出る」
「小型の供物交換装置ですのね」
「違うような、近いような」
「あちらの柱は?」
「電柱」
「雷を縛っているのですか?」
「発想が神話なんだよなぁ」
「では、あの黒い鳥は?」
「カラス」
「魔鳥?」
「近所のゴミを荒らすって意味では、だいたい合ってる」
そんな会話をしながら、オレたちはアパートの前に戻った。
リュシアは建物を見上げた。
「…………」
しばしの沈黙。
「この建物、先ほどの場所ですが、物置ではないのですね?」
「言い方!」
「はっ、もしや厩?」
「オレの住まいだ!」
「あ、ああ……建物はまあ、アレですけど、人が住むにはちょうどいい大きさですわね」
絶対これが全部で一つの住まいだと勘違いしているな。違うぞ、オレの部屋はこの中の一つだけだ。もっと言えば、二階の端っこの二〇三号室だけだ。
説明するのが、もうすでに少しつらい。
「あれ?」
アパートの入り口で、オレは足を止めた。さっき白仮面に消されたはずの階段の手すりが、元に戻っていた。途中から綺麗に消えていたはずなのに、今は何事もなかったように錆びた鉄パイプがそこにある。錆び方まで元通りだ。
「……戻ってる」
オレは手すりに触れた。ひんやりした鉄の感触に少しざらついた錆。見間違いじゃない。確かに戻っている。
「世界の修正機構ですから」
リュシアが当然のように言った。
「消去された物質は、因果の辻褄合わせとして元に戻りますの」
「それなんて魔法?」
「魔法ではありません。世界修正です」
「もっと分からん」
「例えば、皿が割れたら破片が残りますわよね?」
「まあ」
「でも世界修正機構による消去は、割るのではなく、“なかったことにする”のです」
「怖っ」
「ただし、この世界にとって必要なものまで消した場合、周辺因果が自動補修されます。階段は建物の構造として必要なので、元に戻ったのでしょう」
「夜勤明けの脳に入れていい情報じゃないな」
そうじゃなくても処理しきれない。
王女。勇者召喚。死亡予定。白仮面。世界修正。
並べると、頭痛がする。気を取り直して、オレは非常階段を上がった。カンカンと錆びた音がする。
「足元気をつけろよ」
「失礼ですわ。わたくしは王女です」
「王女、今朝落ちてきたから信用がない」
「それはもう蒸し返さないでくださいまし!」
階段を上がりきると、廊下に出る。薄い鉄板の外廊下。古びた蛍光灯。隣の部屋の前に置かれた傘立て。誰かが放置している宅配の不在票。
二〇三号室。
それがオレの部屋だ。オレはポケットから鍵を取り出した。その瞬間、リュシアが妙な顔をした。
「なんだよ」
「いえ」
「なんでそんな顔してる?」
「別に」
「その“これじゃない”感出すのやめて」
「出していませんわ」
「出てるんだよ。姫の顔面から」
リュシアは気まずそうに視線を逸らした。
「その……あなたの住まいというから、もう少し……」
「もう少し?」
「こう、重厚な扉とか」
「ない」
「門番とか」
「いない」
「紋章とか」
「表札ならある」
「表札」
「風間って書いてある」
「家名を掲げているのですわね。読めないですが」
「急にそれっぽく言うな」
オレは鍵を差し込んだ。
ガチャリ。
開けた瞬間、少しだけ嫌な予感がした。そういえば、部屋を片付けていない。夜勤明けに帰って寝るだけの生活だ、つまり部屋の中は当然、それなりにひどい。
いや、かなりひどい。
「……先に言っておく」
「何ですの?」
「城じゃない」
「分かっていますわ」
「あと、王族を迎える準備もしていない」
「それも分かっています」
「本当に?」
「そこまで失礼ではありませんわ」
オレはドアを開けた。
そして、リュシアは中を見た。
「…………」
また沈黙。
長い。
さっきより長い。玄関には脱ぎっぱなしのスニーカー。流しには洗っていないマグカップ。床にはコンビニ袋。壁際には積まれた漫画。出しっぱなしの布団。カーテンは半分だけ開いている。机の上には、空の缶コーヒーと、充電ケーブルと、なぜか片方だけの軍手。壁には、黒と緑のバイクのポスター。
六畳一間。生活感しかない。王女が入るには、あまりに情報量が地味だ。
「……ここが」
「言うな」
「あなたの」
「言うなって」
「お城」
「やめろ。泣くぞ」
リュシアは真剣な顔で部屋を見回した。
「とても……個性的なお城ですわね」
「優しさで包んだ悪口やめろ」
「生活に必要なものが、すべて手の届く範囲に配置されています」
「狭いって言いたいんだな?」
「効率的ですわ」
「言い換えただけだろ」
「ただ」
「ただ?」
リュシアは少しだけ眉をひそめた。
「ベッドが見当たりませんわ」
「布団」
「フトン?」
「床に敷いて寝る」
「床に!?」
「そんなに驚く?」
「王女でなくとも驚きますわ!」
「この世界では普通だぞ。人によるけど」
「では、この平たい布が寝台……」
「そう」
「そしてこの小さな台が食卓……」
「そう」
「この箱が衣装棚……」
「そう」
「この部屋で、寝て、食べて、着替えて、暮らすのですか?」
「そうだよ」
リュシアは、なぜか少し黙った。今度の沈黙は、バカにしている感じではなかった。不思議そうで、少しだけ戸惑っている。
「……あなたは」
「ん?」
「本当に、一人なのですわね」
不意に、変なところを突かれた。そう言われると、部屋の狭さよりも、物の少なさよりも、別のものが目立つ。誰かと暮らしている気配がない。歯ブラシは一本。コップも一つ。食器もほとんどない。靴も一人分。別に、昨日今日始まったことじゃない。ずっとそうだ。
なのに、異世界の姫に言われると、なぜか少しだけ居心地が悪かった。
「まあな。あ、靴は脱いでくれ」
オレは靴を脱ぎながら言った。
「家族もいないし」
「……先ほども、そう言っていましたわね」
「ああ」
「寂しくは、ありませんの?」
「夜勤明けにその質問は重い」
「す、すみません」
リュシアが素直に謝った。
その反応の方が、むしろ困る。
「いや、別に。慣れてる」
「慣れるものなのですか?」
「慣れるよ。人間、大体のことには慣れる」
そう言ってから、少しだけ違うかもしれないと思った。慣れたというより、考えないようにしているだけだ。でも、そこまで言う必要はない。
オレは部屋の隅に転がっていたクッションを足で寄せた。
「とりあえず座れ。王女様に出せる椅子はないけど」
「では、こちらに」
リュシアは布団の端に腰を下ろそうとした。
「待て待て待て!」
「何ですの!?」
「そこは寝床!」
「寝床に座ってはいけないのですか?」
「いや、いけなくはないけど、なんかこう、心の準備が」
「変な人ですわね」
「王女を自室の布団に座らせる人生を想定してなかったんだよ」
リュシアは首を傾げた。
「では、どこに座れば?」
「……床」
「床...」
「ごめん」
「いえ、構いませんわ」
そう言って、リュシアは意外にも文句を言わずに床へ座った。正座ではない。ドレスを少し整え、膝を横に流すようにして座る。
さすが王女というか、六畳一間の床でも妙に絵になる。腹立つくらい絵になる。オレは流しの横からコップを取ろうとして、止まった。
洗ってない。
終わった。
「水でいいか?」
「いただけるなら」
「コップが……その……」
「大丈夫ですわ。王族は清潔でなくとも死にはしません」
「そこは清潔にしたいんだよ!」
慌ててコップを洗う。蛇口から水を出すと、リュシアが目を丸くした。
「水が出ましたわ!」
「出るよ」
「詠唱なしで?」
「蛇口に詠唱はいらない」
「この世界、奇妙なところで高度ですわね」
「奇妙なところって言うな」
オレは水を注いで渡した。
リュシアは両手でコップを受け取り、恐る恐る口をつける。
「……冷たい」
「水だからな」
「透明で、魔力の濁りもありません」
「水道水に魔力の濁りがあったら嫌だな」
リュシアは小さく息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。逃げて、叫んで、尻を痛めて、知らない世界の安アパートに連れてこられた王女。
そりゃ疲れる。オレも疲れている。
むしろ夜勤明けに世界修正機構とやらから逃げた分、誰より疲れている自信がある。
「で」
オレは床に座り込んだ。
「説明してくれ」
「何をですの?」
「全部」
リュシアはコップを持ったまま、目を伏せた。
「……そうですわね」
その時だった。
部屋の外で、チリン、と音がした。
聞き慣れた音。ノイシュバンシュタイン号のベル。
「……え?」
オレは玄関の方を見た。階下に置いてきたはずのママチャリのベルが、勝手に鳴った。
チリン。
もう一度。リュシアの顔が強張る。
「風磨」
「分かってる」
オレは静かに立ち上がり、ドアスコープを覗いた。
外廊下。非常階段。錆びた手すり。
そして、そこに。ノイシュバンシュタイン号が立っていた。いや、立っていたという表現はおかしい。ママチャリは立つものじゃない。でも、そう見えた。誰も触れていないのに、スタンドを立てたまま、こちらを向いている。前カゴが、わずかに揺れた。
チリン。
ベルが鳴る。頭の奥で、声がした。
『ピ。因果外移動体を確認』
『ピ。名称登録済』
『ノイシュバンシュタイン号』
『ピ。特異点候補の随伴物として、自己修正を開始』
「……おい」
オレはドアから手を離した。
リュシアが不安そうにこちらを見る。
「何でしたの?」
「オレのチャリが」
「チャリ?が?」
「なんか、仲間キャラみたいな扱いになってる」
「……この世界、怖いですわね」
「オレもそう思う」




