オワリニイッポ
異常な出来事があったとしても朝は必ず来る。
天体の動きは人間によって定義されたものではなく、そう言うものだと位置づけられているからである。
人はその時間に従い活動を強いられる。
『今朝方××病院で医師の一人が行方不明になるという出来事が起こりました。直前まで身に着けていたと思われる衣服が残っていることから警察では何らかの事件に…』
「この病院…、あの子が入院しているところじゃないか」
好都合だ、と夫は内心舌なめずりをしていた。
もしもその事件とやらに息子が巻き込まれ、いなくなってでもくれていれば悩み事が解決する。
その際妻は悲しむだろうが、そんな悲しみなど如何とでもごまかしが効く。
彼は僅かの間そんな暗い妄想に浸った。
だが、疎ましいことだがそのためにも自分は息子の身を案じている演技を続けなければならない。
出勤前で助かった。
会社へ電話を入れ、休みを取ることを早急に告げる。事情は既に昨日、伝えてあるために容易く休暇を貰うことができた。
そこで夫は、ふと違和感を覚えた。
妻が出てこないのだ。
朝食をいつもどおり済ませ、彼はリビングに、彼女はキッチンにいたが、それでも声は届いたはずだ。
「……どうしたんだい?」
不思議に思い、キッチンへと向かった。
だが妻は何時もと全く同じ様子で食器を洗っているだけであった。
かちゃかちゃと陶器製の皿が擦れあう音がする。
怪訝そうな自分の問いかけに、しばらくしてから彼女はようやく気がついたらしい、軽く首を傾けて
「え?」
と、むしろ逆に不思議そうに問い返してきたのだ。
おかしい、あんなにもあの疫病神を心配していたというのにもかかわらず、今は全く気にもかけていない、
「あなた、会社は?」
とまで聞いてきた。
そういえば昨晩はかなり咳をしていたような記憶がある。
もしかしたら風邪を悪化させてしまったのかもしれない、その所為で頭がぼんやりとしているのだろうか。
「今日は休むよ、あの子の様子も見たいし。それに、君も少し調子が悪いんじゃないか?どうせなら一緒に診てもらおう」
「え、ええ。そうかしら。それじゃあ、行ってみようかしら」
どうも釈然としない。
恐らく自分も同じような表情を浮かべているのだろう。
…まさか、あの疫病神のことで混乱しているのだろうか?
いや、それにしてはそれ以外の行動に関してはごくごく普通である。
『次のニュースです、先日のがけ崩れの後から不法に投棄されたと思われる大量の化学薬品が…』
なにやら関係のないアナウンスの始まったテレビを消し、妻を促し外へと出る。
ちょうど出勤時間と言うこともあり、外には幾人かの隣人が姿を見せていた。
そして事故や事件に巻き込まれた家族に対する世間の目がそうであるように、誰もが好機の視線で此方を見てきた。
(ねえ、あそこのお子さんが…)
(せいせいしたわね、全くどんな教育をされていたのかしら…)
(両親が不仲だと子供が――)
(これでこの辺りも平和に――)
(邪魔だったわ)
(さっさといなくなればいいのよ)
(あいつら、お見舞いにでも行くつもりか?あのクソ餓鬼の――)
(よくもうちの子を――)
「うわあああ!?」
その途端、響き渡ってくる声、声、声!
どれもがどす黒い感情となって襲い掛かってくる。
どれが、誰の声なのかも解らない。ただ共通して言えるのはそのどれもが直接聞いていることが出来ないほどおぞましい感覚を引き起こしてくることだ。
「けほ…ッ、ごほっ!」
妻が咳き込み始めた。自分も喉に妙な引っ掛かりを覚えて咳き込んだ。
「…ちょっと、大丈夫ですか?」
(風邪か、気が狂ったか。どっちにしても余り関わりたくないな)
親しくしていた隣人が声をかけてきた。だが、彼は差し伸べられた手を乱暴に振り払う。
「放っといてくれ!」
大声で怒鳴る。すると周りから聞こえてくる声は一層大きくなり、不快な音として脳に叩き込まれる。
激しく咳き込み始めた妻と共に逃げるように車へ入り、ばたん!と大きく音を立てて扉を閉める。
それで声は随分と静まってくれた。
大きく肩で息をする。ふとサイドミラーへ目をやれば、そこへ映った自分の顔がとても青ざめていることに気がついた。
自分も何か病気なのかもしれない。一緒に診てもらおう…。
畜生、それもこれも、あの子の所為だ。
あいつさえいなければこんなことにはならなかったのだ。
「……あなた、あいつって…誰?」
隣に座っている妻がまるで幽鬼のような表情で、今にも掻き消えそうな呼吸をしながら聞いてきた。
(浮気でもしているのかしら)
(それを回り皆が知っていて私だけ知らないのかしら)
声が、また聞こえ始める。
先ほどまで聞こえてきた声に比べれば、幾分かましだが、精神をかきむしる声であることに変わりはない。
「あいつは、あの子だよ!僕と君の子供!」
「でも、あなた…」
空耳だ、これは空耳なのだ。そうでなければ聴覚以外の感覚で音を捉えるなどありえないのだから。
乱暴に車のキーを差し込み、エンジンをかける。
音を掻き消すためにラジオをつけた。
彼女の次の言葉を発せさせないためでもある。
『…現場に大量に残っていた未知の昆虫を現在××大学で慎重に調べが進められており、現在の見方ではこれは不法に…』
ニュースなど今はいい!何か音楽を、気を紛らわせるための音楽を!
でたらめに周波数をあわせ、意味のない音を流すために音量を上げる。
大音量でクラッシックが流され始めた。
「あの病院も病院だ!高い金ふんだくるくせに、自衛の一つも出来ないのか…!」
悪態をつき、ハンドルを握る。
ラジオの音量のこともあり、妻には聞こえていないだろう。勿論自分自身の耳にもその声は入らなかったのだから。
それにしても今日は何時もにもまして道路が混雑している。
時間帯のこともあるのだろうが、車の中で呆けている者、外に出て辺りを見回している者など明らかに異常なものが多い。
それらを見ているだけで苛々してくる、胸に言い知れぬ不快感が湧き上がってくる。
どうして誰もそれをとがめようとしないのか。
自分たちは急いでいるというのに、この馬鹿共は…!
面倒になったのでアクセルを踏み、数人を跳ね飛ばしていくことにした。
道路の真ん中に突っ立っている方が悪いのだ。
車に注意すべきは歩行者の方であるべきなのだから。
車体を通して鈍い感触が伝わってくるが、気にするほどのことでもない。
固定されていない体がそのたびに跳ねるが、目的地にたどり着くことが今は最優先。
どいつもこいつも、どうして腹立たしいことばかり!
病院の駐車場に停車後は強引に妻を連れ病院へと入っていく。
途中白と黒の車や白黒の服を着込んだ男にぶつかったが、にらみつけて退散させる。
受付では金色の免許証と保険証を叩きつけるように提示した。
「あの子との面会にきました。あと、僕と妻の診察を」
「あ、はい。では、ええと……105号室ですね。その間に作業をしておきますので」
受付嬢の対応も横柄だ。
免許証の名前を確認した後にあの疫病神のいる病室の番号を告げるまでの動きも鈍い。
それに、面会謝絶と書いてあるではないか!
一体なんの作業をするのかの説明もないままであるし。
大音量でラジオをつけていたため静寂に耳が慣れない。
加えて耳元ではかちかち、ザザザザ、と不快な音が絶え間なく続くのだし!
「あなた…」
「いいから、もうすぐだ。あの疫病神を見るだけ見たら次は、ええとなんだったか!」
いけない、怒鳴ってしまう。
これではまるで、本当に病気ではないか。しかも体のではなく、心の。
今朝からの出来事の所為でどうも情緒不安定になっているらしい。
だが、彼女の発言はそれをもさらに上回るものであった。
「……あなた、誰?」
「何なんだ!」
苛立っている時に、妻からそんな声をかけられれば再び怒鳴ってしまってもおかしくない。
しかも内容が内容だ、ふざけているとしか思えない。一体何十年連れ添ってきたと思っているんだ。
彼は間違いなく、過去最大の怒りを感じていた。
廊下でこれほどまで騒がしくしていれば、注意の一つも飛んでくるはずである。だが不思議な事に廊下を通るものは、誰もいない。
「…ここはどこだ?」
ふと、我に返った。
知らない、白い、真っ白い廊下だ。
唐突に、彼の中で何かがぶつんと音を立てて途切れた。
一気に頭の中がクールダウンする。
先ほどまで、一体何に怒りを覚えていたのかも解らない。
白い風景、目の前の女もまた真っ白な服を着ている。
顔を恐怖に白く染め、自分を見つめてくる。…彼女は、誰だ?
「なんだ、何だここは!?どうして僕はこんなところにいるんだ!?」
「知らないわ、私が聞きたいそんなの!」
乱暴に掴んでいた手を振りほどかれた。
何故だか知らないが、それが無性に腹が立つ。
そうだ、苛立ちは彼女に対してだった。
黒い服を着た男が怒りに顔をどす黒く染め、彼女に掴みかかった。
「煩い、うるさい!黙れ黙れ、そんなこと僕がしるか!」
この生意気な女は何なんだ。
無性に腹が立つ、今まで一体僕がどれだけのことを我慢してきたのか知っているのか!
散々自分より格下の相手に、自分の生産物に怯えてこびへつらって生きてきた屈辱を知っているのか!
「知らないわよそんなこと!あなただって、私がどんな目にあわされてきたか知らないくせに!」
殴る蹴るなど当たり前の生活だった、明らかに殺そうとされたこともあるわ。
それを、それをあなたは見て見ぬ振りをしてきたんだから!
どすん、と白い廊下に黒い髪が広がる。
女は組み伏せられ、男はその白い首へと手をかけている。
お互いを知らぬはずであるのに、何故だか互いを知っている。
そして酷く、憎らしい。
それが何だ、僕に何の助けも求めてこなかったくせに!
求められないとあなたは何も出来ないのね、この臆病者!
ぎしり、と男の腕に力が込められる。
みしり、と女は手入れのされた爪で男の手を掻き毟りはじめている。皮膚を抉り、肉へと穿つ。男の手からは少量の血が流れた。
女は供給されるべき酸素を失い、血液の流れを止められ、その表情はどんどんと赤く変化していった。
にもかかわらず、彼らには解らない何らかの感覚を用いての罵りあいは続いていた。
だいたいあなたが…、ああもう何だったかもういいわ、とにかくあなたが全部わるいの!
お前だ、お前が悪いんだ!お前の所為で全て何だったか……何かが狂ったんだ!
ザザ、ザ…ザザザザザザザ!!
それはまるでテレビの雑音のように不快感を掻きたてる音。
ぼとん、と男の眼球が落ちた。
ぽん、と女の眼球が飛び出した。
その奥には、真っ黒な闇が濃縮されて詰まっている。
脳は、思考を司る部分である。
すなわち彼らの罵りあいもまたその器官を用いて行われているのだ。
おまえがあなたがおまえがあなたがおまえがあなたがああああぁぁぁぁあ!
ザザ――――。
―――ぶつん。




