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起点。始点。→死転。

 そして、午前零時。

異常はその時間からはじまった。

 きぃ…、と緩やかに病室の扉が開く音がした。既に消灯時間を過ぎているため、光源は廊下からの控えめな光しか存在しない。

病室の主たる青年の傷は驚くべき速さで回復し、今では体を動かすことさえも容易に出来る。

体が比較的頑丈に鍛えられているからだ、と白衣の男が言っていた。

だが、矢張り疑問は尽きなかった。

此処は何処か、自分は誰なのか。

…思い出せぬ己の記憶が不安を呼び覚まし、恐怖感として襲い掛かってくる。

そしてその不安感は睡魔という逃避欲求を押し殺すほどのものであったのだ。


 そんな思考のループに入っていたときの物音であったため、正直少し安心した。

自分のもとへは一、二時間ごとに人が見に来る、と見知らぬ男が教えてくれた。

はじめに会った白い服を着ていた男と同様に、矢張りその男も白い服を着ていた。

入ってきた男もまた白い服を身に着けている。

だから、青年は彼もまたその見回りの人だろうとおもったのだ。

薄暗くなった部屋の中、廊下からの明かりを受けた白衣の男が立っている。

と、思うとようやくふらり、と一歩だけ部屋の中へと入ってきた。

行動が不自然なほど緩慢だ。

影のため顔色をうかがうことは出来なかったが、なんとも危なげな歩き方である。

思わず彼はベッドから立ち上がった。

不安感を掻き立てるような動きに耐え切れなくなったのだ。


「大丈夫ですか、あなた…、具合が悪いんじゃ……あ!?」


 だが、状況が言葉を最後まで紡ぐことをさせてはくれなかった。

ザ…ザザザ…ザザザザザ!

まるで押しては引く波の音が聞こえたのだ。

だが、それは自然の奏でる心安らぐ音などでは、決してない無数の生き物が奏でる徘徊音。

近づいて初めて知ったその男の状態。

男の顔の暗さは、影などではなかったのだ。

その男は口をあけているらしい。

けれどそこから声が出されることはついに無かった。

喉の奥にまで黒い生き物…、艶のない外骨格を纏った昆虫が詰まっているのだ。

そしてそれが、次から次へと外へ這い出してくるのだ。男の顔中を、覆うようにして。

その異常事態にも、白衣の男は抗う様子も無かった。

いや、そもそも顔中に張り付いた虫を払いのけようとしない辺りからして、既に男に意識はないのかもしれない。


「な、な…なぁ……!?」


 思わず後ずさったその足元にぽとり、と球体のようなものが転がり落ちた。

ころころと転がりはしたものの、開かれた扉から入り込んでくる光と影のぎりぎりの位置でそれが止まった。

白と黒。それに、赤い神経の束。

眼球と呼ばれる部分であることに気付くのには、それから更に数瞬を要した。

だが、それを理解したところで更に異常な出来事が起こり続ける。


カリ…、コリ、ゴリ…。


 部屋の中へと生々しい音が侵食し始める。そのたびに男の体がびくん!と痙攣を起こす。

意識はなくとも、既にその命がなくとも、神経への信号伝達があればその通りに体は動くのだ。

記憶をなくした彼でも解る。

これは明らかに、異常な光景だ、と。

飛びつく勢いでナースコールへと手を伸ばし、そのボタンを押す。

そのボタンが何なのか知らずともこれを押せば人が来る、と教えられていたのだ。

時間が時間なためセンターからの反応には時間がかかる。

青年に取ってはその僅かな時間すらも数時間のものに感じられた。

異形への恐怖が、不明瞭な記憶に対する恐怖に容易く打ち勝ったのだ。


(…いずれ、いずれこのオレが……オレがこの病院を…)


 声が聞こえる。

明らかに発声器官としての喉は活動していないのにも関わらず、だ。


(そうすれバ、富が富が……ががガ?ひひひ、ひはは、はははあはははは!!)


 その主は、目の前のこと切れているとしか思えない男しかありえない。

狂気に満ちた笑い声。

誰かに向けられたわけでもない方向性のないそれはぶつん、と唐突に音を立てて途切れた。

ザザザ、と音を立てて影は顔から体へと移動する。

ごとん、と支えを失ったかつて男の顔だったものが床へと落ちた。

白。

最早眼窩には何も存在しない。

いや、影のようなものが時折姿を覗かせる。

所々に影による濃淡が出来たモノクロの物体。カリコリ、とその内部からも音が聞こえる。


「―――――!!」


『――どうなさいましたか?』


 やっと、声が返ってきた。

だが、それはあまりにも遅すぎた。

その時にはもう彼の意識は漆黒へと落ちていったのだ。

スローモーションに世界が傾き始める。

廊下の見える扉が傾き、天井が反転し、五感から外界から一切の情報が断ち切られた。

それとほぼ同時に、白衣の男もバランスを失い、崩れ落ちたが、それを知る術など青年には持ち合わせていなかった。


『…どうされました?もしもし?大丈夫ですか!?』


 控えめな咀嚼音の響く室内に、ナースコールの声だけが大きく響いていた。

それが全ての始まりであった。

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