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――緩やかな広がり

 今日の回診は妙に時間が遅い。

それにしても壁の向こうが酷く騒がしい、一体何が暴れているのだろう。

まあ、そんなことは如何でもいい、退屈だ。

相変わらず私が何故こんな所にいるのかがわからないし、誰なのかもわからない。

嗚呼、まったく難儀なことだ。

今ではもうすっかり未知への不安感も無視できるようになった。

だが、退屈はどうしようもない。

音の出る箱でもつけることにしよう。

適当に押したら映る映像も変わったものになるらしい。


『……大学での研究結果ですが、××病院内で発見された昆虫は廃棄物を含んだ土を食べたことから体内で化学変化が起こり、それによって――』


 難しい話をしている。大学だの研究結果だの、昆虫だの廃棄物だのわからない言葉ばかりだ。

こんな時は違う映像に変えるべきだろう。…こちらも同じだ、こちらも。臨時ニュース?

良くわからないが、難しい言葉ばかりで解らない。気晴らしにはならなかった。


――ぶつん。


 と、映っている映像を消した。


「コんにちハ、調子はドうかな?」


「ああ、ようやく来ましたか」


 そんなときに都合よく白衣の男がやってきてくれた。落ち着かせるようなゆったりとした喋り方だ。

だが、今日は何時もとは違う姿だ、足元が真っ黒い。

話し言葉も何処かたどたどしい。


「さっきまでそっちで何かが暴れていたようですが」


「さア、キット疲れてるんだロう、何もいなかったヨ」


 がしゃがしゃがしゃ…。

気のせいか足元の黒い部分が面積を広げたような気がする。

何処かでこんな光景を見たような気がする。

けれど全く思い出せない。まあ如何でもいいことなのだろう。

廊下には確かに誰もいない、白い服と黒い服が残っているだけだ。

確かに白衣の男が言うとおり何もなかったのだろう、きっと自分の気のせいだ。


「アア悪意が足りなイ、君ほどでなケレば矢張り駄目だ」


 意味不明なことは映像の出る箱ばかりではなく白衣の男もまた同じであった。

彼が近づいてくるのに比例して、がしゃがしゃと耳障りな音は大きく増してくるばかり。

気がつけば男が着ているものは既に白ではなく、真っ黒になっていた。


…ザ、ザザ……。


「…何のことです?一体何を言ってるのですか?」


「マだ喋れるとイウことが奇跡なのだヨ」


 静かだ、静か過ぎる。

この場所に何時から私がいたのかは覚えていないが、記憶では確か、もっと騒々しかったはずだ。

それなのに今聞こえてくるのは男の声と、まるで木の葉のざわめきのような音だけなのだ。

波の音なのかもしれない。


 だが、それ以外はまるで誰もいないかのように静寂。

だから、ぼとりと何かが落ちた音にも気がつけたのだ。

白い球体。だがそこにこびりついた赤い色。何処かで、見たことがある…。

ザザ、ザザザ!


「ぅ、ヒヒ…ひはははは!!」


 人間の皮膚へと鋭い爪を穿ち、漆黒の鎧で守られた体がかつて眼球のあった場所からがしゃがしゃと姿を見せ始めた。

一匹、二匹、数えている暇などない、次から次へとその『虫』は溢れてきた。

互いの骨格をこすり合わせ、ザザザと奇妙な音を響き渡らせる。

見る見るうちに男の顔を漆黒に染め上げ、狂気に笑う赤い咥内をも埋め尽くしてゆく。

其処から彩りというものが一切奪われる、黒と言う色彩のみに塗り上げられてゆく。

ぷつり、そんな音と共に青年の視界に移る色は白と黒の濃淡のみへと変化した。

白衣を着ていた男から聞こえてくる音、かしかし、がりがりと言う音は皮膚を食い破り、肉を喰らい、骨を削り砕く音。

直感的にそう解ってしまった。


「うわ、うわああああ!!」


 それゆえに、逃げ出した。

狂気と異常を目の前にして平穏を保っていられる人間が一体どれほどいようか。

彼の行動は人間という動物であれば一般的な行動のうちの一つであった。

すなわち、逃避。

虫の塊となった男の横をすり抜け、真っ白い廊下に出る。まっすぐに伸びたその道の何処にも人影は無かった。

足元に踏みつけた黒い服、白い服が何かがいた形跡を教えてくれる。

だが、その判断ができるのは自分の身以外に心配する余裕がある者だけであり、彼はそうではなかった。

生き残るために鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚がザザザザ、という音と、何処からか聞こえてくる人の声を拾う。

迷う暇などない、すぐ耳元から聞こえてくる音から逃げるためには、声のするほうへ向かうしかないのだ。


『――研究結果により、この虫は人間の中のある種の感情に作用し――』


「た、たすけて、助けてくれ!私もその中に入れてくれ!」


 淡々と箱の中で喋る男へと向けて、彼は切に声を張り上げた。

だが箱の男はそれに気付いた様子も無く言葉を続けている。

こんなにも近くにいるというのに、何故声が届かないのか。苛立たしい、苛立たしい。

こんなとき、私は如何していたのだったか。


『――という感情に反応し、その持ち主へと寄生して数日のうちに孵化、内側からその感情を糧にして育つという従来の生態系では考えられな』


 がしゃん!


「煩い!私を無視するというのなら死んでしまえ!」


 苛立ちに任せて箱を殴りつける。

結局彼がその中へと逃げ込むことは出来なかった。

殴りつけたとたんに画面が真っ暗になり、箱の中の男が消えてしまったからだ。

そして、その様を呆然と見る彼の目に自分の手が映る。

かしゃかしゃかしゃ、と小さく蠢く、黒い影。

波の音を奏でるには余りにも少ない量だが


「うわあああああ!」


 青年は当然恐慌状態に陥り、乱暴に手を振り回し、いつの間にか手に食いついた虫たちを払う。

ばしばしと強く叩いて落としているのにも関わらず、それらは一向に減ってくれない。

足元に落ちた虫は踏みにじり、再び這い上がってこられないようにした。

傷口の中へと入り込もうとしているのか、既にその内側も、黒い。


 だが何故だろう、痛みは感じなかった。かといって不快感が消えるわけでもない。

また、耳元で音が聞こえ始めた。

逃げなければならない。

虫を追い払いながらもあちこちに散乱する白い服、黒い服を蹴飛ばし、彼はより光の強いほうへと走っていく。

それは生物としての本能だったのかもしれない。

透明な扉へぶつかるようにして外、外界へと転がり出ることが出来た。

最早彼の動きを束縛する閉鎖空間からは逃れきれた。

あとは如何とでも逃げられる。

――にも関わらずこの不安感は一体なんだというのか。


 白と、黒の濃淡で構成された世界が目の前に広がっている。

その所々の黒さが先ほどの、あの生き物を連想させるのだろうか。

あちこちに散乱した黒い服、白い服。影色の建物に白みがかった建物。

ザザザザザ、とまた耳元にあの音が聞こえてきた。

逃げなければならない、逃げなければならない。


―――だが一体、何から?


『…の虫は悪意を食べることにより成長し、成体となると空気中に卵を排出することが解りました。そうして増殖し…』


『だから悪意に反応してその声が聞こえるようになるわケですね』


『寄生された人は徐々に虫に支配され、その感情をも……、ああ、いえこれは私の推測なのですガ、アなたのよウな低俗ナモノでは解らないでショうが』


 声だ、声が聞こえる。けれどその言っている内容が理解できない。

何処から音が聞こえてくるのだろう。その距離感すらも忘れてしまった。

目の前にはいくつもの人の顔が入っている箱が並んでいた。どれもこれも同じ顔のつくりだ。


『人間ニ対する不信感は、報道をしていれバ嫌でも募る。悪意を目の当たリにするのダから』


 そして、その中に映るすべての顔が変色し始めている。

黒く、黒く、真っ黒な生物に。


『サア最モ悪意に満ち溢れタ者よ、虫達でアっても食い尽くスことの出来ない悪意の持ち主ヨ!この世界ヲ喰っテしまえ…!』


 高らかな宣言。

慌てたように動きだす箱の中。


『は、早く皆避難するんだ!』


『隔離が先だろう!?』


『馬鹿かお前、どうやってするんだよ!大体病院までどれだけ時間がかかると思ってるんだ!』


『お前、オレの事そんな風に思っていたのか…殺してやる!』


『生きている価値なんてないんだよ!』


 どたん、ばた、がしゃん!


――ぶつん。


 唐突に沸き起こった騒々しさの後に画面に波紋が走り、次いで一切の声が失われた。

そうしてついに、全ての音が消え去った。

画面に映っていた顔が一斉に消えたのだ。

ザザザザザ…、奇妙な音だけが耳の中から聞こえてくる。

解らない、解らない。


「……あれ?」


 ザザ、ザザザ…ザ…、徐々に音は小さくなっていく。

それと同時に『私』の内側で奇妙な違和感が生じた。

それは何処かで感じたことがあるかもしれない疑問だった。

私は誰だっただろう。

私は何故こんな所にいるのだろう。

私はこれから一体何をすればいいのだろう。

疑問が浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる。

終わることのない不毛なループ。


 答えを得ようとしても、手がかりになるものは何処にもない。

目に付くものは全て物体であり、問いかけることの出来る生き物がいないからだ。

ふらり、と解放された世界の中、青年は夢遊病者のように歩き始めた。

何処へ行けばいいのかなど、解るはずがない。

自分が誰であったかなど、最早如何でもいい。

本能のままに、ただ緩やかな動きを以って。

無意識のうちに世界の悪意を糧とするために…。


ざ、ざ、ざ、ざ、ざ……。

―――ぶつん。

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