カフェ、ロバート・デ・ニーロ、エシレバター
いつもよりも駅のホームに人が少ないな、とは思った。電車の到着時刻も普段と違っていた。そこまではまだ疑念でしかなかったのだけど、山手線の空き具合で確信に変わった。今日は土曜日だと。いつも通りに制服を着て、いつも通りの時間に家を出てしまった。お母さんが休日に学校に行くことに疑念の一つも呈してくれていれば、まだベッドで寝ていられたものを。まあ、今日が土曜だろうが日曜だろうが、どのみちアロアの病室には向かう。そう、病院には向かうのだけれども、お見舞いまでの時間を潰さないといけない。
以前のように山手線を何周もして時間を潰すか、カフェに入って時間を潰すか。昨日、カフェで本を読むという贅沢を味わってしまったので、山手線に乗り続ける気持ちが自分自身の中に微塵もないことがわかる。そして、お金はある。昨日のラウンジの会計とタクシーの代金を払って高額紙幣の一枚は消えてしまったけれども、まだ残っている一枚がある。いや、まあ、もちろん、これは暮根雅人のお金なんだけど。
おしゃれなカフェのカラフルで生クリームまみれの、なんていうんだっけ? そうだ、フラペラッテだ。イチゴや桃や抹茶やチョコのフラペラッテ。一番大きなサイズで頼んでやろう。
ふと、昨日の暮根雅人の様子を回顧する。席を立つときも戻ってきたときも、極めて平静だったように思う。冷静なままにあそこまで相手を無慈悲に打ち据えることができるものだろうか。怖いな、暮根雅人。でも、暴行に及ぶ前に雑巾小僧がなにかを言っていたようにも見えた。もしかすると、その一言が暮根雅人の逆鱗に触れての惨劇だった可能性もある。しかし、聞いたとたんに逆上して大暴れ、血を見るまで収まらないなんていう滅びの言葉が暮根雅人の心の底に存在するのだとすると、それはそれで怖い。とはいえ、まだ短い付き合いではあるものの、暮根雅人はそれほど理不尽な人間には見えない。
まあ、この際、暴行の動機なんかはどうでもいい。理由はともかく、暮根雅人が先に手を出したのは間違いのないところで……いや、違う。先に手を出したとかの問題ではなく、暮根雅人が一方的に雑巾小僧を打ちのめしていただけのことだった。しばらくの間、暮根雅人は留置所での別荘生活となることだろう。
池袋に到着して電車を降りる。ホームから階段を下り、改札を抜ける。さすが土曜日。昨日は人の流れの中をくらげのように漂うしかなかったけど、今日のあたしは好きな方向に好きなペースで進める。自由だ。人がいないっていいわね。
地上に上がってカフェに向かう。その途中で暮根雅人に電話をする。どうせ出ることはないだろうけど、いちおう確認しておこうという意味での電話である。一つ目のコール音が鳴り終わる前に電話から「もしもし」という声が聞こえる。
「あら」と口をついて出てしまう。なんで電話に出る人がいるのだろう。もしかして、警察の人間が勝手に電話に出たりするのかな。
「どちら様でしょうか」あたしは警戒して質問する。
「そっちからかけてきておいて、どちら様もなにもないだろう」と暮根雅人の声が答える。
「警察から帰ってこられたのね」とあたしが言う。
「君、もしかして昨日、弁護士を呼んでくれたりしたのかな」
「そんなもの呼ばないわよ」弁護士の知り合いなんかいないし、弁護士を呼ぶという発想がそもそも浮かばない。
「うん、そうだよね」
「すぐに帰ってこられたなら良かったわね」と言いながら、思惑が大幅に狂ったことに内心で舌打ちする。これで、暮根雅人がいない間にアロアを連れ出す計画も、フラペラッテで優雅な朝を過ごす時間もなくなった。いや、待てよ。フラペラッテは諦めなくてもいいのではないだろうか。昨日のお釣りをくすねてフラペラッテをいただきながら読書をする、というプランの方をそのまま暮根雅人に打ち明けてみる。
「好きなものを好きなだけ飲めばいいよ。ところで、その優雅な時間を過ごした後にあの子のお見舞いに病院に行くのかな。もし、そうならちょっとうちに寄ってほしいんだけど」
おとといは、あれほどあたしを部屋に入れることに対して警戒していたのに。自分から部屋に寄れとは、どういう風の吹き回しだろう。説教でもするつもりかしら。学校に行かないでいるから、ああいうのに絡まれるんだ、的な。まあ、説教なんか聞き流せばいいだけだ。昨日の警察での顛末を聞きたいところでもあるので、部屋に寄ることを了承する。
「それじゃあ、また後で。メニューの上から順にすべてのフラペラッテを試してみるといいよ」と言って暮根雅人は電話を切る。電話しながら歩き続けていたのですでに目的の店の目前である。ドアを開くと冷たい空気が漏れ出てきたので、それをできるだけ逃さないように素早く店内に入った。
部屋番号を押すとインターフォンに暮根雅人が出たのでオートロックの解除を求める。エレベーターに乗り込んで三階のボタンを押す。そういえば、オートロックの番号は盗み見して知っていたな。ロックを解除してもらうまでもなかった。などと考えながらエレベーターを出て玄関の前に着くと、勝手にドアが開いてびっくりする。自動ドアかと一瞬思ったが、そんなわけはない。タイミングを計って暮根雅人が開けてくれただけだ。
出かける予定がないためか、暮根雅人はアロハを着ていなかった。今日の出で立ちはTシャツにジーンズ。白地のTシャツは胸元に黄色いキャラクターのイラストが描かれていて、その上に赤い文字が書かれている。ミスターなんとかリトルミスなんとかかんとか。ジーンズの方は新品ではないがボロボロでもない。適度に色落ちしたストレートのジーンズ。たぶん、昨日のと同じ。あるいは、おとといのとも同じだと思う。
暮根雅人に軽く会釈して中に入る。ボーちゃんがスリッパを並べる。ん、ボーちゃん? ボーちゃんなの? ふさふさのボーちゃんはいったいどこへ?
「昨日、毛を刈ったんだ。暑くなるといつもこうしている」
五厘狩りというのか五分刈りというかわからないけど、とにかく毛がない。尻尾の毛もない。足先の毛もない。顔だけは以前のままだけど、おかげで頭がすごく大きく見える。そして、犬と言うよりはトカゲっぽく見える。トカゲ犬。ああ、ボーちゃん、なんて憐れな姿なの。
「いや、憐れでも不憫でもなんでもないから。犬は暑いのに弱いんだよ」と暮根雅人が言う。たしかにボーちゃんは尻尾をぶんぶん振りましていて、卑屈な様子は見受けられない。
そのボーちゃんが準備してくれたスリッパに足を突っ込んで玄関を上がり居間に入って勧められてもいないのに勝手にソファーにどさっと座って「あー」と声を上げる。
「もうすっかり自分の部屋ってくらいの寛ぎようなのは、どういうことだろう」と暮根雅人が言う。
鞄を部屋の片隅に投げ捨てると、どすんと大きな音がして、それに反応してボーちゃんが不安げに同じ場所をぐるぐると回りだす。ああ、怖がらせちゃったみたいね。ごめんね、ボーちゃん。ボーちゃんを手招きして謝罪の意味を込めて頭や顔を撫でまわす。背中を撫でると短くなった毛のせいで、ざらざらちくちくする。盛り上がったおでこを触っていると、まだまだ幼い犬のように見える。いくつなんだろう。
「ねえ、ボーちゃんって生後何ヶ月なの」
「えっ? 何ヵ月って……えーと、九十六ヶ月かな」
「仔犬かと思って訊いたんだけど」
「いや、もう老犬になりかけの八歳だよ」
「八歳だと」八歳とはとても思えない。若々しい。あたしの知るそのくらいの年齢の犬は顔の毛が白くなって、目が白内障気味で、動きがもっと緩慢で、好奇心が薄くて、ほとんど常に寝ているだけだ。来客のたびにスキップして寄ってきたりしない。
「スリッパ並べをしつけるのは、どのくらいかかったの」と訊いてみる。
「しつけなんかしてないよ。ボーちゃんが自分で始めたんだ。脱いだ靴も揃えてくれるよ」そんなことを犬が勝手にするものだろうか。折檻しながら骨身に染みつけたんじゃないでしょうね、という疑念の視線を暮根雅人に向ける。
「あのトイレもしつけをしてないってこと」
「ボーちゃんは綺麗好きでさ。ちょっとでもトイレが汚れているとそこで用を足さないんだ。それで用済みのトイレシートを処理する仕組みを作った。君も見たよね。一回実演してみせたら、すぐに覚えたよ。トイレを自分で綺麗にできるのが嬉しかったんじゃないかな。以来、俺はたまにトイレシートをまとめてセットするのと、溜まったゴミを捨てるくらいしか仕事がない」
「実演したって、あなたがトイレシートの上で用を足したということ?」
「そんなことしないよ。ボタンを押して見せたんだよ。ボタンを押すとトイレシートが片付けられるということを実演した」
ボタンを押すだけとはいえ、それを一回で理解して覚えるって本当なのかな。ちょっとボーちゃんを試してみよう。
「ボーちゃん。あそこの鞄、取ってくれる」と鞄を指さしながら話しかけてみる。ボーちゃんは迷わず歩き出し、あたしの鞄を銜えて戻ってくる。えらいね、と労って鞄を受け取る。そして、そのまま鞄をボーちゃんに突き出して「元のところに戻して」と言う。ボーちゃんは鞄を受け取ると、部屋の片隅に鞄を置いて帰ってくる。これはすでに言葉を理解しているレベルね。すごいのを超えて、ちょっと怖い。もう深く考えるのをやめよう。頭を撫でて、背中を軽く叩いて、行っていいよと言うと、ボーちゃんは自分の場所に戻って毛繕いを始めた。
「ところで、カフェでのんびりしてからうちに来る、という話だったのでは」と暮根雅人が疑念を呈する。あたしもこんなに早くにこっちに来ることになるとは思ってなかった。
「フラペラッテが甘いのよね」フラペラッテは甘美なるものと期待していた。でも実際のフラペラッテは甘美を通り越して淫蕩と形容したいような舌にべったりまとわりつくいやらしい甘さで、それに耐えられなかった。
「フラペラッテは甘いもんだよ」
「それにフレーバーがいかがわしいのよ。頼んだのはイチゴのフラペラッテだけど」イチゴというよりは駄菓子に近い。ガムとかキャンデーとかのイチゴの香り。
「やり過ぎ感のあるフレーバーだよね、あれは」
「それで、口直しにアイスコーヒーを追加注文したんだけど、美味しくないのよ」
「不味いっていうほどでもないよ、あそこのアイスコーヒーは」
「でも、昨日のホテルのラウンジで飲んだのと比べると、どうしても見劣りするわ」
「それは、まあ」と暮根雅人が口ごもる。
「つまりは、ここで飲むアイスコーヒーより劣るってことで、そしたら人のお金を使って高い料金を支払うという罪悪感に苛まれたのよね」実際には罪悪感と言うよりは、むしろ失望感。残った昨日のお釣りをローテーブルに置いで付け加える。
「無駄使いして悪かったわね」
「返さなくていいよ」
「なんで?」
「明日もあさっても病院の見舞いまでどこかで時間を潰さないといけないんだろう。それをカフェの代金にするといい」
「ちなみに明日は日曜日なんで、早朝の暇つぶしは必要ありません」
「今日は土曜日なのか。そしたら君はなんで制服を着ているのかな」
「今日が土曜だってこと忘れていて、普通に平日かと思って家を出てきました」
「親御さんはそれをどう思っているのやら……」
「学校に行ってないのは、とっくばれていると思います」
「鷹揚な親御さんだな」
「助かっています」
「木で鼻をくくったような、その受け答えはどうにかならないかな」
「愛想がないのは生まれつきです」フラペラッテの失望感があたしに素っ気ない態度を取らせて、それがさらに暮根雅人の気分を害している。最低ね。ええ、ほんと最低だわ。
暮根雅人が肩をすくめて席から立ち上がる。キッチンに行ってボウルやコーヒーミルやフライパンを握ったと思ったら、瞬く間に料理とアイスコーヒーを持って戻ってくる。その早さたるや手際が良いという次元の問題ではない。
「昨日、食べたそうだったよね、エシレバターのクレープ」
「エシレバター? あたし、そんなこと言ったっけ?」
「エシレバターっていうのは発酵バターのことだよ」発酵バター。思い出した。どこかの店のポスターで見たやつだ。後で寄るチャンスもあったのに、暮根雅人に一蹴されて寄ることが叶わなかった店だ。
出てきたクレープは皿に何枚も重ねられていて横にバターが添えられている。それがエシレバターなのだろう。暮根雅人が小さなダイス状に切られたバターをクレープに乗せて円を描くように溶かし込み、軽く砂糖を振り半円に折り、さらに折って扇にして紙に包んで差し出してくる。あたしがそれを受け取ると、暮根雅人が自分用にもクレープを包み始める。受け取ったクレープを一口食べる。ほんのり甘い。バターの香りに奥行きを感じる。シンプルながらも味わい深い。悪くない。
「甘いのばかりじゃなくて、いろいろな具を入れてもいいんだよ。デザートというより、食事の感覚だね」と言いながら並べたトッピングを適当に示す。レタスやキュウリやトマトやポテトサラダやスライスチーズやハムやツナ、そしてマヨネーズ。
ハムとチーズとポテトサラダを乗せて丸めて食べてみる。なるほど悪くない。次にツナとチーズを巻いていると、にやにやと笑う暮根雅人の顔が目に入った。
「人の顔を見て笑うのをやめてよね」
「口の中にひまわりを詰め込み過ぎたハムスターみたいな顔になっているよ」ハムスター。この前はアイスクリームで、今度はハムスター。暮根雅人にあたしはいったいどう見えているのか。でもまあ、アイスから生物に進化した。ダーウィンもびっくりの進化論ね、と思うと口元が緩んだ。
「眉間に皺を寄せているよりも、その顔の方がいいよ。スマイル」と言って暮根雅人は自分の頬に指を当てて、無理やり口角を上げてこちらを見る。目が笑ってない笑顔が不気味で失笑してしまう。
「四十歳になったら、人は自分の顔に責任をもたなくてはいけない」突然、なにを言い出すのやら。
「責任って言ったって、顔は生まれつきでしょう」巻きかけていたクレープに、少し考えてからトマトを足す。トマトは具にしやすいように薄くスライスされている。
「造作はね。でも、四十年もあったら顔つきは変わると思わない?」太ったり痩せたり皺が寄ったりはするだろうけど、それをもって顔が変わると言っていいのものかしら。
「たとえばさ、いつも怒っている人とか卑屈な人とか横柄な人とか臆病な人とか、そういう表情って顔に焼き付いてしまうと思わないかな。それが四十年も続けば顔も変わるよ」そういうものなのだろうか。四十年とか言われてもあたしには想像がつかない。
「朗らかに生きよ、君」なにが朗らかに生きよ、だ。
「誰の言葉なの、それ」ツナとチーズとトマトを巻いたクレープを口に入れる。トマトのせいで、いくらか水っぽくなったが、幸いクレープ生地は水を吸わなかった。
「朗らかに生きよっていうのが気に入ったのかな。誰の言葉でもないよ」
「そっちじゃないわよ、四十歳になったらってやつよ。なんか聞いたことがあるのよね」
「エイブラハム・リンカーンだな。第十六代アメリカ合衆国大統領」そんなことがさらさらと出てくることに少し感心する。伊達に年は食ってない。いや違う。聞くべきことはそんなことじゃなかった。
「というか、どうやって警察から帰ってきたの」
「え? 歩いて帰ってきたけど。連れていかれた警察署はほんのすぐそこだったんだよ」と言いながら、暮根雅人はキュウリだけをクレープに乗せて巻いて頬張る。
「そういう意味じゃなくて。警察に行ったのは、えーと、その、逮捕されたのよね?」
「傷害罪か暴行罪の現行犯ってことになるんじゃないのかな」
「いつまでも終わらない事情聴取地獄と留置所生活臭い飯地獄を味わっているんだろうなと思っていたのに、あっさり出てきたのが意外になんだけど」
「勘違いがあるみたいだね。いつまでも調書を取られるのは、やったことを認めない人の場合だと思う」と暮根雅人が言う。
「やったことを認めない場合」と復唱する。クレープはまだまだあるけれど、包む具材が寂しくなってきた。
「無罪を主張する人だね。俺は顛末の一部始終を全部説明したし、無罪を主張していない」
「そしたら、犯罪者の前科持ちになったのね」
「いや、釈放されたよ」と暮根雅人言いながら、テーブルの上を片付ける。皿をキッチンに持ち去って、替わりの具材を皿に盛って戻る。今度の具材はフルーツやチョコレートや生クリームだ。
「いま、自分のやったことを認めて全部話したって言ったわよね。それで、なんで釈放されるの?」戻ってきた暮根雅人に質問しつつ、新しい具材でクレープを巻く。バナナとチョコと生クリーム。
「弁護士が来たんだよ。頼んでもいないのに」暮根雅人はもう食べる気がないらしく、アイスコーヒーに手を付ける。
「あたし、呼んでないわよ」次にブドウとモモとマンゴー。ブドウはご丁寧に皮を剥いてありモモはくし切りマンゴーはダイヤモンドカット。どれもクレープに乗せやすい形状に整えられている。
「うん、そうだよね。君が弁護士に伝手があるとは思えない。それでも、この件を知っている人間が君しかいなかったんで、もしかしたらと思って訊いてみたんだ。それで、この弁護士の先生が警察に来る前に、すでに被害者に会っていて刑事告訴を取り下げるという言質を取ってきたみたいなんだな」
「なんだか手回しがいいわね」
「そうなんだよ」と言って、そのまま暮根雅人は考え込んだ。
「弁護士はどんな人だったの」次は基本に立ち返って、エシレバターと砂糖のみ。
「わからない。会ってないんだ」
「弁護士が依頼人に会わないってことがあるの」と言いながら、あたしはバナナを二切れ手のひらに取って、テーブルの下からボーちゃんを手招きする。あ、でもバナナって犬にあげてもいいものなのかな。暮根雅人に目配せすると、ゆっくり頷いた。それを合図にボーちゃんがぱくりとカットされたバナナを丸呑みにする。
「俺は頼んでいないから依頼人じゃないよ。お礼を言いたかったんだけどね」そうか。そうね。呼んだわけでもないものね。
「そもそも、なんで殴ったのよ、あの金髪を」クレープの最後の一枚に残った果物をすべて乗せて畳む。そこにじっとりと重たい視線が注がれるのを感じる。もしや食べすぎを咎められているのだろうか。この大量の食材を出してきたのは暮根雅人自身のくせに。
「なんか、残飯の茶巾寿司って感じだね」と暮根雅人が言う。食べ過ぎに対しての苦言ではなく、美的感覚に対しての非難の眼差しだったか。
「実際、残り物を詰めただけよ。話を逸らさないで、殴るに至った理由を教えてよ」とあたしが言う。
「口のきき方がなってなかったから、かな」という答えが返る。
「あいつはなんて言ってきたの?」あたしが訊きなおす。
暮根雅人は当時の記憶を探るように目を閉じる。しばし沈黙してから言う。
「なんて言っていたかな?」
「なによ、それ」とあたしは言う。忘れたようなふりをしているけど、きっと嘘だ。暮根雅人は話す気がない。どう聞き直そうかと思案を巡らせていると、暮根雅人がテーブルの上の皿をまとめて片付け始める。
「それ、あたしがやるわ」口に押し込んだ最後のクレープを飲み下しながら言う。
食べているばかりでは心苦しい。返事を待たずに皿を取りまとめて流しに運ぶ。シンクの中にさきほど暮根雅人が使っていたであろうはずのフライパンやボウルが見当たらない。すでに洗って仕舞ったのか。料理を出してくるまでの時間も驚異的だったが、その合間に洗い物までもこなしているとか、ありえない。半ば呆れつつ流しの中に皿を置く。なにか違和感がある。
「ねえ、この流し台、高すぎじゃない?」と暮根雅人に訊く。
「俺の背丈に合わせてあるんだ。君にはちょっと高いかもしれない」ちょっと? ちょっとじゃないわよ。「低い流しで作業していると腰に悪くてね。やっぱり俺がやろうか」
「大丈夫、やります」とは答えたものの、踏み台が欲しいところだ。傍から見たら子供が背伸びして手伝いをしている、という体裁になっていることだろう。
「もしかして、広いトイレも特注?」と暮根雅人に尋ねつつ、スポンジに洗剤を染みこませて皿を洗って水を流して泡を濯ぐ。
「いや、トイレは最初から広いんだ。そこが気に入って借りている」
「ボーちゃんのトイレ処理の仕組みも特注ってこと?」洗ったものを水切り台に並べていく。
「トイレの犬の出入り口とキッチンのシンクの高さ調整は改装業者にお願いしたけど、他のものは自分でやった」
「自分でやった?」
「うん、そこにもボーちゃん用のボタンがあるよ。足元を見てごらんよ」と言われて足元を調べる。流しの下にはなにもない。見渡すと、キッチンの奥の下にいかにもボーちゃんに押させるためのボタンが二つあった。
「赤い方がエサを出すボタンで、青い方は水を出すボタンだね」あたしがボタンの位置を見つけたらしいのを察して暮根雅人が言う。あたしは流しの上に干してあった布巾と水切り台に乗せた皿をそれぞれ手に取って、皿を拭きつつボタンに近寄る。試しに足でボタンを押してみると乾燥したエサの粒がざらざらと出てきて、床にある皿がそれを受け止めた。もう一つのボタンを押すと雨どいのようになっているところを水が一定時間流れる仕組みで最終的に水は排水溝に飲み込まれていく。流しそうめんを思わせる。自分でこれを作るのか。器用な男だ。しかし、ボーちゃんは自分が食べたいときにエサを出すことができるのね。これでは、もし暮根雅人が刑務所暮らしになっていたとしても、ボーちゃんの世話とかいらなかったのではないか。
洗い物が終わって、手を拭いながらソファーに戻るとテーブルの上に得体のしれない機械やらスプレー缶やらが散乱していた。
「これもお手製の機械なの」
「いや、そういうわけじゃなくて」と暮根雅人が説明を始めた。
「昨日の事例を見るに、やはり女の子の一人歩きは危ないなと思ったんだよ。この間までは駅前の出入り口のところだけ用心しておけば良かったんだけど、そこからあぶれ出してくるやつがいるんだなと実感した。だから、これを持っていてもらいたい」と暮根雅人がテーブルの上の品々を手で示す。紐の付いたキーホルダーのようなものは防犯ブザーだろう。あと小さな殺虫剤のようなスプレー缶。それと、刃のないバリカンのようなもの。あたしは防犯ブザーを一つ手に取る。
「それは説明いらないよね。紐を引き抜くと音が鳴る」
「うん、それはわかるけど、多すぎじゃないの」十個、いや二十個はあるだろうか。
「何個でも遠慮なく使えるように。襲われたらありったけ紐を引き抜いて投げ散らかすといい」
「このスプレーは?」スプレーは五個ほどあった。
「催涙スプレーだね。相手の顔に向けて吹き付ける」
「このバリカンは?」これは二個。
「スタンガンだよ。この電極を押し当ててボタンを押すと電流が流れる。映画とかだと、これを押し当てると気絶したりするけど、これではそういうことはないらしい。説明書にはそう書いてあった。でも、かなり痛いらしいから反撃する気力は奪えるみたい。ちなみにスプレーもスタンガンも相手に取られると困ったことになる」と暮根雅人は言って「だからスプレーを使うときにはゴーグルをしてもらいたい」と付け加える。防犯グッズの中に水泳で使うようなゴーグルが居心地悪そうに転がっている。
「それと、いざというときに鞄の中からこれらの武器を取り出す余裕がないことも多いと思う」と暮根雅人が続ける。それを聞いて昨日の恐怖が蘇る。たしかになにかを取り出そうとしたけど片手を掴まれただけで鞄を開けることすらままならなかった。
「本当はスマートフォン用に作ったんだけど」と暮根雅人が言いながら、なにやら取り出して自分の腕に装着する。二本の金属製の棒がレールのようになっていて、それを革のベルトで腕に巻き付ける。レールには金属板が取り付けてある。金属板にスタンガンをセットして肘の内側に引き込む。暮根雅人が肘を折った腕を胸の前から前に向かって振り出すと遠心力でスタンガンが手のひらに滑り出す。思わず、おー、と声を上げる。暮根雅人はTシャツ姿なので、装着したレールはむき出しでその動きがよく見える。
「『タクシードライバー』っていう映画の中でロバート・デ・ニーロがいろいろ武装するんだけど」と言って暮根雅人は言葉を切り「ところで、『タクシードライバー』って知っているかな?」と訊いてきたので、あたしは首を横に振る。そうか、と一言呟いて暮根雅人が話しを続ける。
「ま、とにかくその中に出てくるギミックの一つでさ。拳銃がさっと出てきて手に収まるんだよ。それを携帯電話でやったらコケ脅しにいいかなと思って作った。まあ、とにかくこれなら取り出しに手間取ることが無いし、簡単に奪い取られることもない。長袖を着て常に装着しておいてもらいたい」暑い季節にそれは厳しい注文ね。
「なんで二つあるの」
「もちろん、両腕に仕込むからだよ」と暮根雅人は言って、もう片方の腕にも装置を付ける。
「このスタンガンとレールの接続部分は丸い間接になっているんだ。ちょっと見ていてごらん」暮根雅人は両腕を振って飛び出すスタンガンを掴まずに放置する。勢いで手のひらの上でくるくると回るその様は昔の西部劇のガンマンっぽい。
「ちょっとスタンガンを奪い取ってみてよ」と暮根雅人が言う。
あたしは暮根雅人の右手のスタンガンを掴む。もぎ取ろうとしてみたが、簡単には外れない。レールのベルトから外さないと無理そうね、と思っていたところに、左手の方のスタンガンの電極を肩に押し付けられた。
「ちょっと、ボタン押さないでよね」
「押さないよ、もちろん。でも、二つある意味がわかってもらえたかな。片方のスタンガンに執着されたら、もう一個で反撃できる。そしてスタンガンで相手を怯ませておいて催涙スプレーを相手の目にかければ、たいていのことからは逃げられる」
あたしは頷く。
「ところで、このスプレーとスタンガンは使うと相手になにか後遺症が残ったりするの?」
「そういうことはないらしいよ。実際に使ったこともないし、食らったこともないから確かなところはわからないけど」それならば気が楽だ。電池が切れるまでボタンを押し続けてやろう。
「あと、これなんだけど」と暮根雅人がメダルのようなものを摘まみ上げる。一番大きな貨幣よりも、もう一回り大きいくらいのものだ。「これは、GPS機能が付いていて、位置がわかるようになっている」
「GPS機能って、携帯電話に入っているやつ?」地図のアプリを使うときに便利な機能だ。地図があっても、現在位置がわからなければ意味がないもの。
「うん、だからこれを身に付けておいてもらいたい」
「え? あたしが? なんで?」
「攫われたときにすぐに見つけ出せるように」いやいやいやいや、それ持っていたら、どこにいるかばれちゃうんでしょ。それはあなたストーカーでしょ。嫌に決まっているでしょ。
「鞄にでも放り込んでおいてくれればいいよ。充電は意識しなくても、しばらく持つんで気にしないで」充電なんか気にしないけど、持っていること自体が気になるわよ。いや、ちょっと待って。これを持っていれば居場所がわかるのね。
「わかったわ」と言ってGPSメダルを受け取る。
「ボーちゃん、ちょっと鞄取って」と声をかけるとボーちゃんは跳ね起きて鞄に向かい、それを銜えて目の前に持ってくる。暮根雅人がなにか言いたそうにしていたが、口は開かなかった。あたしはテーブルに溢れるもろもろの防犯グッズも鞄に詰め込む。あれはどうすればいいのかなと思って暮根雅人の腕を凝視する。それに気付いた暮根雅人が慌てて腕に装着していたレールのベルトを外してテーブルに置く。それを取り上げて、少し腕に当ててみる。レールの長さがちょっと長いかなと思ったけど、腕に押し当ててみても、それが許容範囲なのかどうかわからない。
「せっかくだから、ちょっと付けてみなよ」と暮根雅人が言う。レールを腕に沿わせてベルトを締める。余るレールを肘の方に持ってくるべきか、手のひらに持ってくるべきかで悩んでいると、暮根雅人が手の先を示した。
「とりあえずは手のひらに合わせてみて。長さは後で合わせよう」と暮根雅人が言う。言われたとおりに装着して、鞄からスタンガンを取り出す。本体を取り付けるための台座のようなものがあるので、そこにスタンガンをスライドさせてセットする。暮根雅人が台座の脇を示して「ちゃんとロックして」と言う。探すと、それっぽいスイッチがあったので、それを切り替えてみる。かちりと小さい音がしてスタンガンが固定されるのがわかる。腕をいろいろな角度に曲げてレール装置を確認してみる。装置の厚みが気になったけど、これならブラウスの袖に収まりそうね。でも袖口のボタンは留められないだろう。
胸の前から前に向けて腕を振り出すと、レールを走るスタンガンの重さと手のひらに到達したときの軽い衝撃を感じる。何回か腕を振っているうちに、スタンガンを掴むタイミングも取れてきた。慣れると、スタンガンを無駄に回す技も身について、これが妙に癖になる。なるほど。
「なんか、ちょっと面白いわね」試しにスタンガンのボタンを押してみた。不快な音と不気味な電気が電極に漂う。
「気を付けてね」と暮根雅人が言う。
あたしはレールとスタンガンを腕から外して鞄に仕舞う。少し考えてから、鞄からスタンガンを一個取り出して、スカートのポケットに移す。ついでに防犯ブザーを逆のポケットに入れる。そうそう不測の事態が起こるとは思わないけど、備えがあったのに使えなかったというのは避けたい。用心するに越したことはないだろう。現に昨日は怖い目に会っている。
「レールを鞄から出してもらえるかな。カットして長さを調整するから」そうだ、忘れていた。金属のレールを取り出して、暮根雅人に渡す。
「ちょっと失礼」と暮根雅人は言って、レールをあたしの腕に押し当てて、マジックでカットする位置を刻む。
「その作業、どのくらい時間がかかるのかしら? できたらその間に合鍵を作りたいんで、鍵貸してよ」
「なんで?」と暮根雅人が至極まっとうな疑問を口にする。
「合鍵があれば電話が通じなくても部屋に上がれて便利だから」とあたしが言うと、暮根雅人は点目開き口になる。そして「それは君の便利であって、俺の便利ではない」と答える。
「暮根雅人君」とあたしは言う。「いろいろと防犯関連の品物を買ってくれてありがとう。これで自衛することはできそうだけど、出来得ることならそういう危険な目に会わないことが一番だと思うのよね。そしたら、外をぶらぶらしている時間をより短くすることが、安全の第一歩と言えるんじゃないのかな。ここに居れば安心で安全なのよ」
「それなら、自分の家に引きこもって出てこなければいいじゃな……」と言いかける暮根雅人を遮る。
「危険があろうとなかろうと、あたしはアロアのお見舞いを続けます」とあたしが宣言すると、暮根雅人は固い息を一つ吐くとジーンズのポケットから鍵を出した。数本ある鍵のうちの一本をキーホルダーから外し、あたしに手渡す。
「お金はあるのかな」
「昨日のお釣りがあるから大丈夫」
「そう、それじゃ、合鍵を作ってくるといいよ」
よし、と心の中で叫ぶ。これでいざというときに、アロアを匿う場所ができたわ。




