↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ウンポコ・ポルファボールの再興 【 完結済 】   作者: 内田 食(うちだ はむ)
PR
8/16

ラウンジ、雑巾小僧、クラブサンド

 朝八時。いつもの公園。いつものベンチ。本日は晴天なり。昨日の雨のせいか、いつもより木々の緑が深い。

 暮根雅人に電話をかける。「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」というメッセージを聞いて電話を切る。さきほどから何度もこのメッセージを聞かされている。携帯電話の縁の金属の部分をこつこつと爪で叩く。単純に携帯電話の充電切れか、あるいは携帯電話がなんらかの理由で壊れたか、それともあえて電源を切っているのか。

 部屋の場所は判明しているので押しかけてピンポン連打するという手段に出ることはできる。しかし、それが空振りに終わると、あの辺りには時間を潰すための場所がなにもない。アロアの病院の見舞いの時間にはまだ早い。ん、アロア……。なんだっけ? アロアに関するなにかを忘れているような気がする。右手を額に添えて人差し指でこつこつと頭を叩いて記憶を刺激する。あ、そうだ。「フランダース」と携帯電話に打ち込んで調べると「フランダースの犬」という文言がずらりと並ぶ。フランダースの地理を知りたいので、「フランダース地方」と入れなおす。なぜか一番上に出てきた検索結果は「フランドル」でそのスニペットを見ると「フランダース、フランデレン。フラマン語を話すフラマン語共同体」とある。横にネーデルランド十七州地図というのが表示されているがそれを見てもヨーロッパのどの辺を指しているのか見当がつかない。こめかみから流れた汗が顔を伝い顎から落ちて下に構えている携帯の画面の上ではぜる。あ、そうだ。忘れていた。もう一度、電話をかける。「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っ」メッセージの途中で電話を切る。まさか、これ、着信拒否のメッセージのバリエーションの一つだったりして。着信拒否。いや、それは考えないでおこう。再びリダイアルから電話をかける。「おかけになった電話は電波の届か」電話を切ってベンチから立つ。しかたない、カフェを探そう。昨日、鞄の中に発見した紙幣もあるし。なんのお金なのか思い出せない点は気持ち悪いが、この炎天下で数時間を費やすのは度し難い。

 以前から気になっていたおしゃれで人気のカフェを目指す。公園を駅の方向に出て右手に歩く。すでに営業しているようで、朝早いにもかかわらず賑わっている。店内に入る前に外に開かれているメニューをチェックする。飲み物一杯分でランチが食べられそうな価格である。中学生には厳しい価格設定だ。でも、アイスコーヒーならそれほど高くもない、かな。いちおう、あっちにあるチェーン店のカフェも見ておこう。てくてく歩くその途中に発酵バターを売りにしたクレープ屋がある。まだ開店していないようだけど、商品説明のポスターが貼られている。その写真を見るに溶けたバターに砂糖を振ってあるだけのシンプルなクレープである。気になる。とても気になるものの、開店前なのでどうしようもない。クレープ店を後にしてチェーン店のカフェに着く。うん、さっきのおしゃれなカフェに比べたら断然安い。ほとんど半額以下である。外から店内を覗く。置いてある座席の間隔が狭く、長時間を快適に過ごしてもらおうという意図やら意思やらは感じさせない。まあ、この値段だものね。客を回転させないと経営が成り立たないのだろう。しばし悩んで、さきほどのおしゃれなカフェに戻る。途中、もう一度電話をかけてみる。「おかけになっ」と自動音声が流れ始めたところで即切りする。おしゃれカフェの店内に入って注文カウンターをスルーして、先に席を押さえる。壁際のソファー席。後ろを人が通ると落ち着かないので、壁を背に出来るのはありがたい。ありがたい? ありがたいなら芋虫は……えーと、なんだっけ? まあ、いいや。カウンターに戻って注文する。

「アイスコーヒーを」

「サイズはいかがないさいますか。ショート、トール、グランデからお選びください」カタカナの羅列を店員が早口にまくし立てる。なにを言ったのか一つも聞き取れなかったが、たしか最初にサイズって言っていたわよね。

「一番小さいのでお願いします」と伝えて正体不明の紙幣を払っておつりの小銭を受け取る。

「お隣のカウンターからお出しします」と会計した店員が言う。周りを眺めまわすとホイップクリームをあしらったパステルでカラフルな飲み物が人気のようで、どのテーブルにもそれが置かれている。フラペラッテというやつだ。昼食並みの価格を誇り、カロリーもハンバーガーと遜色のない飲み物。みんな食事の替わりに飲んでいるのかもしれない。

 ことり、と音がしてカウンターに目を戻すと自分の頼んだアイスコーヒーが用意されていた。黒い液体の揺れるそのグラスを受け取ってガムシロップのポーションを握り、紙コップに水を張って席に戻る。ソファーに座ると身体が包まれるように沈み込む。そうそう、ソファーってこういうものよね。ストローをアイスコーヒーのグラスに立てて、少し飲む。いささか苦い。苦さの中に刺を感じる。ガムシロップを入れると、いくらか角がとれた味になった。暮根雅人のアイスコーヒーはもっとまろやかですっきりしていてガムシロップ無しでも美味しかった。でも、苦味よりも気になるのは香りの無さ。このグラスからコーヒーの香りがしないのみならず、カフェを謳っているにしては店内にもコーヒーが立ち昇っていない。どうやらここはコーヒーを飲むべき店ではないのかもしれない。次に来るときにはフラペラッテを注文しよう、と心に決めて鞄から文庫本を取り出す。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 フィリップ・K・ディック。電気仕掛けのペットは大事にするけど、見分けがつかないほどに人間そっくりなレプリカントは容赦なく始末する世界。ふと、ボーちゃんを思い出す。あの子は賢すぎるから、もしかしたら電気仕掛けの犬なのかもしれない。でも、と思う。電気仕掛けのペットは動物の行動をなぞるだけで賢くないのよね。となると、ボーちゃんはさしずめレプリカント犬か。などとたわいもない空想をしつつページを繰っているといつしか本に没頭していった。


 ふと本から顔を上げる。店内に時計を探す。右手の壁の上部に見つけた壁掛け時計によると十一時半を少し回ったくらいだった。もう見舞いに行っても構わない時間だ。というか、少々長居し過ぎたくらい。居心地の良さについ読書にのめり込み過ぎた。携帯電話を出して暮根雅人にかける。呼び出し音があって、アナウンスがあって、電話を切る。出ない。意図的に出ないのか、なんらかの事情があって出られないのか。ふと思い立ってSNSをチェックすると、新しい書き込みがあった。電話には出ないくせに、SNSに書き込む時間はあるのかと憤りつつ内容を見てみると昨日の夜に書かれたもので、先日の居酒屋のドレッシングのことが書かれていて、これは、つまり宣伝のつもりなのだろうか。十人ほどの人にしか読まれていないようだけれど。

 ああ、でも、一つだけコメントが付いている。「ラディチの味、パクってんじゃねえよ」というもので、SNSは品位の欠片も感じない文面が多くて読んでいて気が滅入る。 

 しかし、この人、たまたまこの日にこの居酒屋にいてこれを書いたのか、それとも暮根雅人の書き込みを読んで店に行ったのか。前者なら奇特だし、後者なら酔狂よね。アカウント名を見るとヒューゴーネビュラとあった。ヒューゴー賞とネビュラ賞を意識してのアカウント名なのだろうと推測する。画面をスワイプする間際に目に入ったフォロワー数が暮根雅人のアカウントのフォロワーより桁が三つか四つ多かったので笑った。なんでこんな乱暴な物言いの書き込みをみんな読みたがるのだろう。下劣な書き込みをする方も気に入らないが、それを喜んで読んでいるようなやつがこんなに多いというのも気持ち悪い。まあ、いいや。噛みつかれているのはあたしじゃなくて、暮根雅人だし。

 携帯電話で再び時間を確認する。十一時四十六分。うん、そろそろアロアの病院のお見舞いに行こう、とソファーから立ち上がろうとすると腰に痛みが走る。普段使わない筋肉が軋むようなこの感じ。これはもしかして、ぎっくり腰とかいうやつなのだろうか。ひじ掛けを頼って慎重に立ち上がり、軽く屈伸をして身体をほぐす。動く。大丈夫。柔らかすぎるソファーの座面のせいのような気がする。ソファーは柔らかければいいというわけではないということか。暮根雅人のところのソファーがやたら堅かったのは、それを踏まえてのことなのだろうか。今度、聞いてみよう。

 鞄を背負って席に忘れものがないかを確認し飲み干したグラスを片付けて店員に「ごちそうさまでした」と声をかけて店を出て、病院に向かう。

 日差しは強烈を越して凶悪と化していて、熱せられた路面で靴底が溶けそうだった。途中、コンビニに入ると汗がすべて凍りつく。エクレアを選んで買って外に出ると、凍り付いた汗が一瞬で昇華する。頭の中でミートローフが歌う。焼けたフライパンから炎の中へ飛び込め、と。昨日、一回聴かされただけだというのにボーカルとコーラスが頭蓋骨の内側に塗りたくられたように忘れ難い。忘れ難い? ああ、そうだ、忘れていた。電話をかける。同じメッセージの繰り返し。電話を切って朦朧としながら歩くと、いつの間にか病院に着く。

 アロアの病室に入ると、ちょうど留美さんが昼食を置いているところだった。こんにちは、と留美さんに声をかける。

 「今日はお兄さん連れてきてないの?」と恨めしそうに言う留美さんを、あはははと笑って交わす。今日の献立はコロッケとカボチャの煮物とくたくたのブロッコリーとトマトのスープと食パン、それに牛乳。くたくたのブロッコリーはここの定番である。カボチャは薄く切られているところを見ると煮物ではなく茹でただけの代物かもしれない。アロアはそれらを掘削機のような食欲で飲み下していく。皿まで食べてしまうのではないかと心配になるほどの食欲である。アロアが食べ終わると留美さんは食器を持って病室から出て行った。今日の留美さんは忙しそうだ。

 病室は冷房が効いているが、壁際の方から熱気が押し寄せる。できるだけ窓から離れてアロアを抱っこする。

 アロアの誘拐の計画を暮根雅人に話したのは早計だった。もしかしたら、それで暮根雅人はあたしから距離を取ろうとしているのかもしれない。でも、アロアを助けるのに暮根雅人の協力は必須だ。電話の不通が電池切れなのか、意図的に避けられているのか。不安を感じつつ電話をかける。お馴染みの自動音声。もしかしたら、路地を通りかかったりするかもしれない。それとも、ここまで来たのだから暮根雅人の家の呼び鈴を壊れるまで押しまくってやるか。でも避けられているのだとしたら、それは逆効果に思える。それに誰もいないのに呼び鈴を鳴らしまくるのは、ボーちゃんの気に障るだろう。

窓際から距離を取ったが、もしかしたら暮根雅人が路地を通りかかるかもしれないと思い、結局窓のそばに陣取って表に注意を向けながらアロアと遊ぶ。

 携帯電話で時間を確認する。三時五分。見ている限りでは、路地を暮根雅人が通りかかった様子はなかった。もちろん一瞬たりとも目を離さなかったというわけではないので、見逃しているのかもしれない。アロアにエクレアをあげて引き上げることにする。包装を取ってアロアにエクレアを渡すと、二口で食べてしまった。その姿はカバが丸ごと一個のスイカを食べる映像とオーバーラップする。そしてもっとヘルシーなおやつにした方がいいのだろうかと悩む。煮干しとか。煮干し。煮干しをアロアは喜んで食べるだろうか。まあ、食べられればなんでもいい感は否めないけど。


 病院を引き上げてきたものの帰るにはいささか早い時間で結局いつもの公園に向かってしまう。ハーモニカ老人がいて、あいかわらず寂しげな曲を吹いていたので、横を通り過ぎる際にロックとかポップとかを吹いて欲しいと頼む。ハーモニカ老人は頷くと別の曲を吹き始める。少し耳に入っただけで、それがアナーキン・イン・ザ・UKであることを悟る。ギターのバッキングをハーモニカで巧みに表現している。老人に向けて手を上げて、ハイタッチを誘うも、意を汲んでもらえない。老人の手を指さしたり、自分の手と手を打ち合わせたり、いろいろなジェスチャーでハイタッチを表現する。やがて意図が通じて老人とのハイタッチに至ったときの達成感はひとしおだった。しかし普段クラシックばかりを吹く老人からセックス・ピストルズが飛び出してくるとは。

 いつものベンチまで行き何度目になるかわからない電話して自動音声を聞いて即切りして、さてどうしようかと思ったところに男が話しかけてきた。


「お嬢さん、暇?」声をかけられて見上げると知らない顔がある。金髪。細い吊り目に薄い眉。潰れた鼻。耳は両方穴だらけで右に五つ、左に四つ、ついでに唇にも一つのピアス。張ったエラと分厚い唇が顔の下半分を占めている。チョウチンアンコウにそっくりね。そう思って見ると、口のピアスは引っかかった釣り針のようにしか見えなくなる。そして、この暑さの中で上も下も黒い服。黒いシャツはサイズがだぼだぼ、逆にパンツはぴっちりした七分丈。肉付きの良い脚にスリムのパンツははち切れそうで痛々しい。裸足で履いている靴はエナメルで、その中の蒸れを想像しただけで不快になる。そしてにおう。まず先に鼻を突くのは揮発性の高い香水の香り。香水とはいっても、この匂いのどこがよくて身体に振りまくのか疑問しか湧かない。きっとどこかのブランドもので、さぞかしお高いのだろうけれどあたしにとってはただの空気汚染である。そして遅れて届く雑巾のにおい。偏見だけど、夏場に黒い服を着ているやつは雑菌臭がする確率が高い。ちゃんと洗濯しろ、周りに迷惑だから。

「ちょっとお茶しようよ」と言って、あたしの左の手首を掴んできた。汚い手で触るな雑巾小僧、と声を上げようとして口を開けるものの音を成さない。憤怒と恐怖が同時に背中を駆け上がってきて息の仕方もわからなくなる。なにか武器になるものを鞄から出さないと。鉛筆かシャーペン、ボールペンでもいい。でも片手では鞄の口を開けることすらままならない。それにぐいぐいと引かれる左腕が肩から抜けそうに痛い。周りの風景が白くなっていって、自分の瞳孔が広がっているのを感じる。

「お疲れ様です」と横から雑巾小僧に声をかける人間がいた。まさかこいつの仲間が来たのか、と思って声の方向を見ると暮根雅人だった。

「お兄さん、ホストですよね。営業ですか。こんな暑い中、大変ですね。でも、お兄さん、かっこいいから表で営業なんかしなくても太客がたくさん付いているんじゃないんですか。ああ、それでも営業努力を欠かさないってことですね。えらい。えらいなあ。あ、コーラいかがですか」と暮根雅人がまくしたてると、雑巾小僧は呆けた顔をしてあたしの腕を放してコーラを受け取った。

 あたしは放された腕を引いて握られていた手首をさすり、金髪の持つ飲み物に目をやる。コーラ? いや、それはコーラじゃなくて、あたしがこの前に買ってあげた炭酸よね。それより、この不細工がホストなの。この釣り上げ損ねたチョウチンアンコウみたいな顔をしたのが。

「なんだよ、お前は」と雑巾小僧が言いながら、受け取った炭酸飲料のプルタブを引く。それは暮根雅人がずっと持ち歩いていたであろうものなのでまったく冷たくないと思うのだけれど、雑巾小僧はそんなことには頓着せず、ぐいっとあおる。

「ぬるい! なんだよ、このぬるい炭酸は! あ……、いや、まずい! なんだ、こりゃ!」と叫ぶと同時に炭酸飲料の缶を地面に投げ捨て、水道を探して駆け出す。

「ほら、今のうちに行くよ」と暮根雅人が言ってあたしの手を取り、立たせて歩く。雑巾小僧は見つけた蛇口に齧り付いている。

 公園を出て、角を曲がって後ろを振り返る。雑巾小僧は追ってきてはいない。

「どこか店に入ろう」と暮根雅人が提案する。

「それなら、そこがいいわ」と通りがかったクレープ屋を指さした。朝に見かけた発酵バターのクレープ屋だ。

「オープンカフェじゃないか。さっきのやつが探しに来るかもしれないから、ここはやめておこう。もう少し先にあるホテルのラウンジにしよう」

 クレープ屋を名残惜しく眺めつつ先に進む。着いたエントランスには南国っぽい植木があり黒いモニュメントにはホテル名が白い文字で書かれていて低い段をいくつか上った先にあるドアを通ってロビーに入る。入ってすぐ脇にあるフロア案内を見ると美容室とか花屋とか洋菓子屋なんかのテナントの名前が書かれている。正面奥にフロントがあり、その右横がラウンジになっていた。ラウンジの、というかホテルの一階部分の天井はすごく高く、壁のほとんどはガラス張りである。おかげで照明はほとんど点いていないにも関わらず、室内は適度な明るさに保たれている。

 ラウンジ内は広く客席も多いが、座っている人は疎らだ。スーツを着た若い女性二人が向かい合わせに座ってテンションの高い声で語り合っている。それと新聞を読みふける職業不詳年齢不明の男性。ジャケットの胸のポケットからはみ出すハンカチの覗かせ方が作為的でなんともいやらしい。そしてなによりも目を引くのが上品な服を着た若いお母さんと太った子供。小学校の低学年か、あるいは就学前と思われる男の子で左手にソフトクリームのコーンを掴み、右手のフォークでナポリタンを巻き取って一心不乱に口に運ぶ。母親は携帯電話の操作にかかりきりで、子供に注意を払わない。溶けたソフトクリームは子供の左腕を伝ってテーブルに滴り、雑に振り回すフォークが口を真っ赤に染め上げる。子供の食欲に当てられて口をあんぐりと開けていると、暮根雅人が横から「君が食べている姿も、あの子とたいして変わらないよ」と失礼なことを言う。

 やがて給仕がやってきてあたしたちを壁際の席に案内する。壁と言っても周りはすべてガラス張りなので、実質窓際とも言える。あたしはガラスを背にしたソファーに座り、暮根雅人が向かい側に腰を下ろす。朝に入ったカフェよりもさらに柔らかい座面で、まるで底なし沼に腰を突いたような塩梅である。ここから立ち上がるのは十分に気を付けないと本当に腰を痛めかねない。メニューに手を伸ばす。アイスコーヒーの値段は朝にあたしが奮発して入ったカフェの値段の三倍もする。あ、そうだ、もしかして

「もしかして、あたしの鞄にお金を入れた?」

「え、ああ、おとといのことかな。うん。入れた」と暮根雅人は答えながらウエイターを呼ぶ。

「なんで」

「あのとき飲み物を奢ってもらっただろう。こんな子供から奢られるわけにはいかないなと思ってこっそり鞄に入れておいた。直接渡しても受け取らないだろうし」

 それはそうなんだけど。そしてそのお金も使っちゃったからすでに返せないわけなんだけど。

「アイスコーヒー」と暮根雅人はやってきた店員に告げて「君は?」とあたしに訊く。店員を呼んでからメニューを選ばせないでよ、と思う。「同じものでいい。でも、ちょっとお腹すいた」とあたしが言うと、暮根雅人はアイスコーヒーを二つにクラブサンドを注文する。クラブサンドってなんだろう。普通のサンドイッチとなにか違うのだろうか。ウエイターが伝票に注文を書き込み、会釈して立ち去る。

「さっきは助けてくれてありがとう」とあたしはお礼を言った。お礼は言ったものの、釈然としないのもまた事実で、もっとかっこよく救い出してくれてもよかったんじゃないかと思わないでもない。

「平和的解決。誰も怪我をしなくてよかった」暮根雅人は相変わらず、人の心を読んだかのような返答をする。

「あんな雑巾小僧、ぼこぼこにしてくれればよかったのに」

「俺は平和主義者だからね。人を殴ったりしないよ」平和的解決だとか平和主義者だとか言うなら、アロアを虐待から救えっていうの。

「だから、君のその計画は犯罪だからね」

「犯罪じゃなくて正義よ」

「正義ねえ」

「それよりも」とあたしは言う。「今日、ずっとあなたに電話していたんですけど」

「昨日からちょっと忙しくてね」

「忙しくて携帯電話の電源を切っていた、と」

「いや、電池が切れてさ。俺のスマートフォンは古いから」

「充電もできないほどに忙しかったと」

 暮根雅人はそれには答えず、おしぼりを開いて顔を拭った。おでこから頬から首の左右までを拭うと勝ち誇ったように言う。「暑い日に喫茶店に入って誰に遠慮することなくおしぼりで顔を拭く。これはおっさんの特権だな」

 みっともないと思う反面、うらやましい。あたしも顔を拭きたい。首も、腕も。と考えていたらさっき握られた手首がとても不潔なような気がしてきた。

「ちょっとトイレに……」ああああ、あたしはまたトイレ宣告をすることになってしまった。暮根雅人は、いってらっしゃいと言って手を振る。その素振りにいらっとしてソファーから勢いよく立ち上がってしまい、腰に痛みが走る。それを悟られないようにトイレに向かおうと思ったが、方向がわからない。ふと見ると暮根雅人が店の奥の方を指さしていて、そちらを見るとトイレのピクトグラムが目に入る。


 トイレの洗面所で手首を念入りに洗う。ついでに顔も洗う。すごくさっぱりする。鞄から日焼け止めを取り出す。さっぱりしたところにべとべとしたものを塗り付けるは不本意だったけど、しかたない。せっかくトイレに来たものの尿意はまったく感じられなかった。汗のかき過ぎで尿に回る水分がないのだろう。でも、それならトイレではなく手洗いに行くと言えばよかった。

 席に戻ると、注文のアイスコーヒーとクラブサンドがテーブルに乗っていた。ミルクとガムシロップはそれぞれが小さなピッチャーに入っていてポーションタイプではない。暮根雅人をちらりと見ると「ここのミルクは大丈夫。乳脂肪だよ」と請け負う。でも、とりあえずはそのままのアイスコーヒーを啜る。ん、おいしい。口に含んだときに感じる苦味はすぐに溶けて爽やかな余韻だけが残る。色の透明度もいい。そしてなにより、香りがいい。あれ、でも、これって、と思ってもう一度啜る。

「これってあなたの家で飲んだやつと同じ味がする」

「おー、さすがだね。うちのコーヒー豆はここのものだよ」と暮根雅人が答える。

 クラブサンドに手を伸ばしかけて、引っ込める。これ、手で食べていいんだよね。それとも紙で包んだりするのかな。それを見た暮根雅人が「俺も一つもらっていいかな」と言って素手で掴んで食べる。なんだ、それでいいんだ。というか、自分で注文したんだからあたしに断ったりせず勝手に食べればいいのに。

「いや、君のために注文したもんだからさ」と暮根雅人があたしの顔色を読んで言う。

「ところで、これはサンドイッチとどう違うの」と訊いてみる。

「サンドイッチは二枚のパンで作って、クラブサンドは三枚のパンで作る、っていうのが基本的な違いかな。あとクラブサンドはトーストしてある場合が多いね」

 なるほど。言われてみれば、パンが一枚間に入って間仕切りのようになっていて、二種類の具が挟んである。片側にトマト、キュウリ、レタス、逆側にローストビーフを挟んだものを指でつまんで食べる。トマトは瑞々しいのにパンはべたついておらず、ローストビーフはしっとり仕上がっている。うん、コーヒーもクラブサンドも素晴らしい。

「君は美味しいもの食べると炎天下のアイスクリームみたいな顔になるよね」と暮根雅人が言う。どんな顔なのよ、それ。

「ああ、別に悪い意味じゃないから」と暮根雅人は取り繕うが、溶けたアイスクリームみたいな顔という表現をどう受け止めれば良い意味として捉えることができるのか教えて欲しい。

「それで、なんで忙しかったの」とあたしが話を蒸し返す。

「俺がこの話題を避けようとしていたのはわかっているよね」と暮根雅人が言う。

「避けようとしていたのか、ごまかそうとしていたのかはわからないけど、そういう雰囲気はわかっている」

「じゃ、議事録にちゃんと書いておいて。俺がこれを避けていたにも関わらず、君の執拗な要求で話す羽目になった、と」

「議事録なんか誰も付けてないわよ」つまらない冗談をやめろ、と思う。やれやれと肩をすくめて暮根雅人が話を始める。

「昨日の夜、永島さんが血を吐いて倒れた。病院で付き添っていたけど、さっき亡くなった」永島さんって、居酒屋のおじさんよね。死んだって、どういうこと。たしかにお酒は飲みすぎかなとは思ったけど、昨日今日で急に死んでしまうというほどの体調の悪さとは思えなかった。でも、耳から血が出たとかいう話をしていなかっただろうか。反対の耳からも血が出たらもうおしまいだとか、そんな話を。

「なにそれ? ちゃんと話してよ」

 さすがに話し方が素っ気なかったと反省したのか、暮根雅人は少し姿勢を正して語り出した。

「昨日の夕方に永島さんの店に行ったんだ。そのときの永島さんは元気だった。元気? いや、元気というか、まあ、普通だった。

 ドレッシングのこととかの話をしていたら珍しく開店時間直後から団体の客が来て、成り行きで手伝うことになった。俺が厨房で、永島さんがホール。客が切れたら帰ろうと思っていたんだけど、なぜだか昨日はやたらと繁盛していて、いつまでも客が途切れなかった。大雨が降っていたのに。まあ雨はいつのまにか止んでいたみたいだったけどね。なんだかんだで結局、閉店まで手伝ってしまった。最後の客を帰して、自分も厨房から出てホールを整理して、のれんと看板を仕舞って、店内に戻ったら、永島さんが血を吐いて倒れていた。床が血の海になっていた。慌てて救急車を呼んだよ。救急車が来るまでの間に、なにかしてあげたかったんだけど、適切な処置がまったくわからない。血を吐いているから、仰向けに寝かすのはまずいだろうと思った。でも、血の海に横たえておくのも気が引けたんで、血だまりから離して、横向けに寝かせた。息はあったし、脈もあった。遠くに救急車の音が聞こえて、外に出た。手を振って救急車に合図して急ぐように促した。救急車が着いて、救急隊員の人に自分の見た状況を伝えた。救急隊員は手際よく移動式のベッドに永島さんを乗せて、それを救急車に運び入れた。付き添いとして一緒に来てくれと言われて救急車に乗った。救急車の中では搬入先の病院を探す無線の声が飛び交っていた。ベッドの傍らの救急隊員は永島さんの脈を計る。状況は全然わからないけど、切羽詰まった空気感だけは伝わってきた。

 病院に着くと永島さんは診察室に運び込まれて、俺は待合室に残された。しばらくすると警察が来て事情を聞かれた。わかる限りのことは話したけど、俺が知っていることなんて、永島さんの名前くらいしかない。あと奥さんと別居中らしいとか、そんな程度しか話せなかった。なんで警察が病院に来たのかはわからない。救急と警察で連携を取っているのかもしれない。その後、かなり長い時間を待たされて待合室でうとうとしていると医者が俺のところに来て言うんだ。もう危ない、と。そして延命しますか、って聞くんだ。話を詳しく聞いてみると延命の装置は一度付けたら外すことができないようだった。もう意識は戻りそうにもないから延命の必要はありませんので装置を外してください、とは言えないらしいんだ。そんな重い決断を他人の俺ができるわけがない。そう医者に伝えた。医者はそうですかと言って待合室を後にした。でも、振り返って俺を手招きした。診察室に案内されるのかと思ったら、四階に連れていかれた。どうも俺が寝ているうちに診察室から病室に移されていたらしい。そこに着くと、永島さんは俺が思っているよりはよほど元気だった。延命とか言うから、もう意識がないのかと思っていたんだけど、看護婦さんと普通にやりとりをしていた。永島さんは水が欲しいと訴えていたんだけど、どういう理由かわからないけど看護婦さんは水を与えてあげなかった。永島さんのベッドの脇に椅子があったので、そこに座った。話しかけると永島さんは意識が虚ろになっていった。今、はっきりしゃべっていたかと思うと、次の瞬間にはまどろんでいた。しばらく見守っていると、永島さんの奥さんだという人が病室に来た。警察から連絡をもらって来たらしい。永島さんの奥さんにしては若く見えた。肌が焼けて痩せぎすな感じの女性だった。奥さんが来たことを医者が聞きつけたみたいで、延命処置に関して話をしにきた。奥さんはきっぱりと、延命は不要だと言った。それを聞いて医者は病室を出た。

 永島さんがはたして延命されてまで生き続けたいと感じていたかどうかはわからない。ただ、奥さんの延命不要という申告は、いわばさっさと死んでくれと言っているのも同然に思えて、少し胸が痛んだ。

 奥さんと話すことは別になかったんだけど、沈黙が重くて、それが嫌でなにかしら会話を繋げていた。なにを言ってなにを聞いたのかは全部忘れた。しばらくすると永島さんが急に苦しみだして、俺は慌ててナースコールを押した。奥さんが永島さんにすがって、お父さん、お父さんと何度も叫んだ。医者と看護婦さんが病室に入ってきた。だけど、とくになにをするでもなかった。俺はなにか処置をしてくれるように頼んだ。痛み止めとか、そういう処置を。でも、少ししたら永島さんは急に静かになった。医者が脈を取った。そして時計を見て、時間を看護婦さんに告げて、ご愁傷様ですと言った」

 あたしは相槌を入れることも、質問を挟むこともできずに、ただただ暮根雅人の話を聞いていた。

「病院っていうのは事務的なところでさ。そのあとすぐに、葬儀の予定を聞いてきた。そんな予定は俺にも奥さんにもない。そしたら、医者が業者を見繕って案内してくれると言う。奥さんは葬儀を出すお金なんかないと言う。火葬だけにしてもらいたいと。それは業者と相談してください、と医者は言って引き上げる。永島さんと奥さんと俺が病室に残される。もう話すことはなにもない。何時間たったのかわからないけど、葬儀屋がやってきた。揉み手をしながら。俺は初めて見たよ。本当に揉み手をするやつをさ。揉み手なんて漫画とかドラマとかでしか見たことなかった。実際に両手を胸の前に上げて、手のひらを揉みしだくという動きが、あれほど気色悪いものだとは思わなかった。葬儀屋は一通りのお悔やみの言葉を述べると大きなカタログを広げて、一つずつ選んでいきましょうって言うんだ。奥さんは最低限の火葬だけでいいと言うんだけど、棺桶とかを選べとのことだった。棺桶は五段階くらいのグレードに分かれていたけど奥さんは迷わず一番安いものを選んだ。他にもいくつか選ばないといけないものがあったけど、どれも微塵も迷うことなく一番下のものを選んでいった。それでも、最終的にはちょっとした金額になって奥さんが困っていたので、俺が援助を申し出た。火葬は順番待ちとのことで、二日後に行うことになった。それまでの冷暗所での保管にも金がかかると葬儀屋は言っていた。それらが終わったのが、ほんのついさっきのことだね」

「永島さんの娘さんは来たの」

「いや、奥さんだけだよ」

「永島さん、娘さんに会いたがっていたのにね」

「永島さんの望みを慮るその真意はなんだろう。君に言わせると、虐待していた永島さんなんか死んでも構わないっていう理屈じゃなかったっけ」

「亡くなった人を悪く言うほどひどい人間じゃないわよ」

「死んだら罪は赦される、と」暮根雅人の言葉に虚を突かれる。

「死んでも罪は赦されないと思う。死んでしまったら謝罪も贖罪もできない」

「そしたら、生きているうちに謝罪と贖罪をすれば罪は赦されるのかな」

 子供の万引きとかなら謝罪で罪を贖うというのはわかる。でも子供に対する虐待で相応の罰ってどのくらいが適切なんだろう。量刑を調べるなら刑法を見ればいいのだろうけど、そこに記載された刑罰が果たして本当に相応の罰と言えるのかしら。たとえば、誰かに怪我を負わせて、それが一生治らない傷なのだとしたら、犯罪者は自分の一生を費やして謝罪していく、というのはかろうじて想像がつく。その犯罪が殺人なら? 奪った命に対しては自分の命で贖うしかないんじゃないのかな。でも、一人を殺した程度の殺人犯はほとんど死刑になったりしない。いや、仮に五人殺した殺人犯が死刑になったとしても釣り合わない。殺人犯の命は一つで、殺した人は五人。それが、殺人犯が死刑になってチャラになるのだとしたら、殺人犯の命一つと善良なる魂五人分と釣り合うみたいじゃないか。つまりなんだか、人を殺せば殺すほどに、殺人犯の命の価値が上がるみたいなことになってしまう。すごく釈然としない。いや、でも、悪いやつはみんな死ねばいいんだ。死ね。さっきの雑巾小僧も死ね。

「なんだか剣呑な顔になっているよ。ほら、クラブサンドの残り、食べちゃってよ」

 片側にポテトサラダ、反対側にハムとレタスとチーズのものをつまんでいただく。暮根雅人が手をあげてアイスコーヒーのおかわりを頼んでいる。おかわり? こんなに高いコーヒーをおかわりするの? 

「ああ、ここの飲み物はおかわり自由なんだよ」なんだと。こんなにおいしいアイスコーヒーが飲み放題だとは。あたしも急いで飲み干して注文する。

「そんな慌てなくても、ゆっくり飲んでからでいいのに」と暮根雅人が言う。

「あなたは永島さんが亡くなって悲しくないの」とあたしは暮根雅人に訊いてみる。

「悲しんでいないように見えるってこと」

「うん、まあ、飄々としているように見えるわね」

「そうか」

「そうか、ってずいぶん薄い反応ね。薄情者」

「俺だって悲しくないわけじゃない。ただ永島さんは見ての通り不摂生を極めた人で、ある意味死に急いでいるのかなと思うところも多々あった。もちろん、亡くなったのは残念だなと思う。だけど、もしかしたらあっさりと逝くことは永島さんの望み通りの結果だったんじゃないかな。とにかく」暮根雅人は話しをやめて、ガムシロップのピッチャーを持ち上げてアイスコーヒーに入れる。色味が揺れて沈む。続けてミルクを入れるとコーヒーの中に白いカーテンが折り重なる。

「甘いアイスコーヒーもいいんだよね。ホットなら断然ブラックなんだけどさ」と暮根雅人が言う。

「とにかく、の後は」とあたしはさっきの話の先を促す。

「ああ」と暮根雅人が言って続ける。「とにかくさ。あっけなかったよ。人の命ってあんなにあっけないだな」と言って窓の外に目をやった。何気なく外に目をやったという風だったけど、暮根雅人の目は外に釘付けになっていた。なにかを見つけたのかと思い、あたしも窓の外を見るべく身体をひねると「ちょっとトイレに行ってくる」と唐突に暮根雅人が言う。

「ああ、そう。どうぞいくらでも」とあたしが答えると暮根雅人が席を立つ。

 あたしは改めて身をひねる。交差点が見える。狭い道の交差点だけど信号もあるし横断歩道もある。交差点を渡る人々がいて、信号で待つ人々がいる。男性、女性、若者、老人。ちょっとした空間があって、待ち合わせをしている人、忙しそうに青信号をせかせかと渡人、ステッキを突いて信号を待つ人。

歩行者の多い道で、車両はあまり入ってこない。夕方と呼ぶにはまだまだ日は高いが交差点の当たりはちょうどビルの陰になっていて薄暗い。目を引くなにかは見当たらない。暮根雅人はなにを見ていたのだろう。

 そこに暮根雅人が出てくる。あれ、トイレだって言っていたのに。迷いのない足取りで青になった交差点を渡る。その後ろ姿を目で追う。その足の向かう先に金髪黒服の男がいる。こいつはさっきの雑巾小僧ではないのか。遠目から改めて見ると、シャツは黒地に黒色で文字っぽいものがプリントされていて、光の加減で文字が浮き出たり消えたりした。よく見るとその文字はどうやらブランドのロゴのようで、それが縦横に並んでいる。黒地に黒文字であしらうブランドロゴ。そのデザインは最先端なのだろうか。色彩感覚の欠如としか感じられないけど。

 そして鼻腔に雑巾臭が蘇る。うん、ブランドものとかを着る前に、やつに必要なのは洗濯だ。

 雑巾小僧はなにかを探しているように辺りを見回していたが、向かってくる暮根雅人に気付いてそれに相対する位置を取るべく上半身を大げさに揺すって半歩動く。距離を測って雑巾小僧は暮根雅人になにかを言う。唐突に暮根雅人が右腕を振るう。右腕は鞭のようにしなって雑巾小僧の左の頬を抉る。殴られた雑巾小僧は半身をよじって後ろに倒れかける。が、殴った右手がそのまま雑巾小僧の後頭部の頭髪を掴んで倒れさせない。髪を掴んだまま押して先に進み、雑巾小僧の顔を奥にある壁に叩きつける。一度だけではない。二度、三度と叩きつける。雑巾小僧が自分の顔を庇うように左手で壁を押さえようとするも、暮根雅人はその手を掴んで背中に回して捻り上げ、さらに顔を壁に打ち付ける。

 ガラス越しに見ているせいか、あるいは音が聞こえないせいか、それらの光景は違う世界の出来事を映しているように感じる。数人の通行人が足を止めてその光景を見ている。でも大多数は関りにならないように足早に去っていく。暮根雅人がほとんど出会いがしらで暴行に及んでいる理由はわからない。後ろ姿しか見えないために表情もうかがい知れない。

 やがて雑巾小僧の脚から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。暮根雅人がその上にしゃがみ込む。なにか言い含めているのか、追い打ちで殴りつけているのかはわからない。視線を上げると壁に丸い形の赤い染みがあって、それが魚拓を思わせる。いや、顔拓というべきだろうか。

 暮根雅人が傍観者の一人に声をかける。話しかけられた女性は狼狽して脚が震えていたけど、暮根雅人はお構いなしになにかを告げる。女性が何度も頷いて、携帯電話を取り出してどこかにかける。それを見届けることなく、暮根雅人は交差点を戻ってくる。戻ってくる途中の暮根雅人と目が合った。慌てて正面に向き直ってアイスコーヒーを両手に握ってストローを吸う。甘い。あれ、なんで甘いんだろう。そうだ、さっきガムシロップとミルクを入れていたっけ、暮根雅人が。一口飲んだアイスコーヒーを元に戻し、手を付けていなかった方のアイスコーヒーを手元に置く。

 暮根雅人が席に戻ってきて「お待たせ」とこともなげに言って座り、おしぼりで手を拭う。真っ赤になるかと思えたおしぼりだが、さほど血は付かず、考えてみれば殴ったのは最初の一発目だけで、あとは後頭部を持って壁に打ち付けていただけだったなと思い至る。

「なんかぐったりしているけど、まさか死んでないわよね、あの人」

「あんなやつ死ねばいい、とか言ってなかったっけ」

「そんなこと言ってないわよ」と答えるものの自信がない。そんなことを思ったような気はする。でも、ほんとに死ねばいいと思っていたわけじゃない。いや、違う。死ねばいいとは思ったけど、実際に死ぬとなると話は別だ。

「あの程度じゃ人間、死なないよ。まあ、鼻は潰れただろうけど。救急車も呼んでもらったから大丈夫」さっきの震えていた女の人。あの人に救急車を呼ばせたのか。

「女の人、怯えていたじゃない。自分で呼べばよかったのに」

「そんなことしたら電話番号がばれるじゃないか。通報したのに救急車を待たずに消えていたらいかにも怪しいだろ」

「なんでいきなり殴りかかったの?」

 暮根雅人はクラブサンドの皿が空いているのを目にとめて「もっとなにか頼んだら? クラブサンド一皿ごときでは、君の空腹は収まらないんじゃないのかな」と言って暮根雅人は手を上げて給仕を呼ぶ。

 すかさずウエイターがやってきて伝票を構える。ああ、もう。メニューを見る時間くらい待ってよ。慌ててメニューをめくるがなにも思いつかない。アイスコーヒーのおかわりを注文しようと思って、まだグラスが空いていないことに気付く。

「なにも注文しないでいいの?」と暮根雅人が言う。あなたが時間をくれないからでしょう。

「ええ、いまはいいわよ。それでなんで殴ったの」と繰り返したところでサイレンが聞こえてきて、表の交差点に救急車とパトロールカーが止まった。救急車は一台、パトロールカーは二台。救急隊員が倒れている雑巾小僧のもとに走り、警官が電話をした女性に話を聞いている。暮根雅人が財布から高額紙幣を一枚出す。少し考えてから、もう一枚引っ張り出して合わせて二枚の高額紙幣をあたしに押し付けて「ここの支払いをしておいてもらえるかな。それと、今日はタクシーで帰りなさい」と言う。

「逃げるの」とあたしが訊く。

「本当はそうするつもりだったけどね。気が変わった。警官に説明してくるよ」と言って暮根雅人は出て行った。

 暮根雅人が席を立ったのであたしは窓際の席から、反対側の席に座りなおして窓の外の動向を伺う。出てきた暮根雅人を電話の女性が指さして警官になにかを言う。警官は二人で暮根雅人を挟んで腕を取る。雑巾小僧は救急車に乗せられてどこかに運ばれて行き、少し遅れて暮根雅人もパトロールカーでどこかに連れ去られて行く。しばらくすると残っていた警官も検分が済んだのか、車に乗り込んで去って行った。辺りに溜まっていた野次馬もやがて通行人の流れに溶かされて疎らになり、壁に残る血の顔拓だけが事件の痕跡として残された。

 このまま暮根雅人が留置所だか拘置所だかに留め置かれるとあたしのアロア救出構想が崩れてしまう。でも、暮根雅人が部屋に帰ってこられないという状況は、ある意味望ましいともいえる。暮根雅人がいなければアロアを病院に戻す、あるいは警察に連れて行く人間はいないわけだ。もっとも、部屋の合鍵があれば、の話だけれど。鍵か。鍵ね。そうだ、本人から貰えばいいんだ。留置が長引くならば、誰かがボーちゃんの世話をしないといけない。あたしが世話をすると申し出れば鍵を貰えるのではなかろうか。明日、暮根雅人が部屋に戻っていなければ警察に行って面会しよう。そして鍵を受け取る。暮根雅人がいない間、部屋を好きに使わせてもらう。うん、完璧だ。急に明日が楽しみになった。メニューを再び開く。前祝いになにか注文しよう。暮根雅人のお金で本人の投獄を祝うのはちょっとだけ気が引けるけれど。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。