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ウンポコ・ポルファボールの再興 【 完結済 】   作者: 内田 食(うちだ はむ)
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7/16

裏路地、楽家留美、くたくたブロッコリーとオムレツと豆のスープ

 暮根雅人のマンションから外に出ると熱気が全身を覆った。そして一瞬で身体中がべったりと濡れた。汗のせいなのか湿気のせいなのか区別がつかない。路地から病院の裏庭に入る。携帯電話を取り出して、時間をちらりと確認する。暮根雅人の部屋を出てからここまで、一分もかかっていない。都合の良いところに暮根雅人が住んでいたプチ奇跡に感謝する。雑草を気にしつつも踏み分けながらついてくる暮根雅人を確認して、非常階段を昇る。三階の非常扉を開けて建物に入る。辺りを窺ってアロアの病室に入る。室内は相変わらず、空きベッドとアロアのベッドがあるだけの部屋。毛布を握りしめてベッドの上に座るアロアがゆっくりこちらを振り返る。

「この子は誰なのかな」と暮根雅人が質問する。

「アロア」とあたしは答える。

「金髪碧眼。そして名前がアロア。どこの国の出身かな」どこの国? そんなこと考えたこともなかった。フランダースの犬の登場人物と同じ名前なのだと告げると暮根雅人は浅くうなずいた。でも、フランダースってどこだろう。ヨーロッパのどこかなんだろうけど。あとで調べておこう。

「ちょっとこれを見て」と言ってあたしはアロアのお気に入りの毛布をはがす。相変わらずアロアはパンツを一枚履いただけの姿で、腕や脚の傷や痣があらわになる。それらを示しながらベッドの上で転がしてもアロアはされるがままである。

「親が虐待していたのよ」

「そうなの?」

「見ればわかるじゃない!」とあたしが言うと「おお、怖いね。怖いお姉ちゃんですね~」と暮根雅人がおどけてみせて、アロアの頭を撫でてあやす。腕を持ち上げたり、傷痕に触れたりしている。暮根雅人の顔を見ると実に柔和な表情を浮かべている。もしかして子供が好きなのか。そういえば、永島さんの店にきた小学生の対応にもやさしさを感じた。あたしに対しては、なんというかもっとこう、怪訝な表情を浮かべることが多いくせに。

「虐待児にしては、目に怯えや恐れの色がないよ」と暮根雅人が言う。

 そう言われると、アロアは基本的におおらかな気性だ。びくびくしたりおどおどしたりしているのを見たことはない。でも、こんなに傷痕ある。痣もある。

「まあ、たしかに傷はたくさんあるね。でも、こんな格好で過ごしているなら、ある程度の怪我はするかも。それと気になるのは虐待されているにしては、肉付きがいい」

「太っているからってなんで虐待じゃないってことになるのよ」

「幼児に対する虐待ってスパイラルするんじゃないのかな。折檻はするわ食事は与えないわ寝るときはベランダに放り出すわ、みたいな感じでさ。折檻はするけど食事はお腹いっぱい食べさせています、ってそんなことあるのかなあ」あるのかなあ、ってそんなのこっちが聞きたいわよ。でも、まあ、言っている意味は少しわかる。わかるけど、このアロアの状況が虐待でないとは思えない。

「でも、だったら、なんで親はこの子の見舞いに来ないのかしら」と疑問を暮根雅人にぶつける。

「いや、そんなこと俺も知らないよ。でも、なんで親が見舞いに来ていないとか言い切れるのかな」

「あたし、入院していたのよ、ここに。この部屋に」

「へえ、どっか悪いの?」

「階段で足を踏み外し……いや、いいのよ、あたしの話は。ああ、でも、親は見舞いに来なかったけど、児童相談所の職員みたいな人は来たわね」ヤマアラシのような髪の毛をした中年女性で背は低く肉付きがよかった。太り方が独特で外に向かって膨らんでいるのではなく、内に込めるように張り詰めた感じ。針で穴を開けたら弾けてどこかに飛んでいってしまいそうだった。看護婦さんと話している内容の断片から児童相談所員と確信している。どんな話をしていたのかは、思い出せないけど。その旨を暮根雅人に伝えると「なるほど」とぽつりと言って、それ以上はとくになにも口にしなかった。

「だから、入院している今はいいけど、退院後にどういう処遇を受けるかわかったものじゃないわ。虐待していた親元に帰らされるかもしれないし施設に入れられるかもしれないのよ」

「それは児童相談所の人が適切に判断することなんじゃないのかな」

 なにを言っているの、この男。ニュースとか見ないのかしら。虐待されていた子供が何度も家に戻されて、その結果行き過ぎた虐待で死亡したなんて事件がいくらでも起こっているのに。

「あたしが思う適切な判断っていうのはアロアを大切にしてくれる人のもとに預けることよ」

「君、まさかとは思うけど、この子を誘拐するつもりなの」

「人命救助です」

「法律はそうは捉えない。だいたいこの子を攫って家に連れて帰って親御さんになんて説明するつもりなのかな」

 あたしは自分の家にこの子を連れ行く気はまったくない。だけど、最初からアロアを暮根雅人の家に連れて行って住まわせるつもりだったことを悟られたくもない。

「二年前にこっそり産んだあたしの子だって言うのよ」さらっと自然に嘘が出た。

「それが通用するとは思えないね」

「そこであなたの出番なわけよ」あたしは鞄からベイクドのチーズケーキを取り出してビニールの包装紙を剥がしてアロアに手渡す。受け取ったアロアは手品かと見紛うほどの素早さでチーズケーキを消し去る。

「どこに俺の出番があるのかな」

「あなたがアロアをあたしの家に連れてきて、自分の子供だと言ってくれればいいのよ」

「え」と暮根雅人が間抜けな声を出す。「俺と君の子供だと言えってことかい。いやだよ、そんなの。だいたい君は中学生だろ。そんなこと言ったら、俺は警察に突き出されちゃうよ」

「なんで、あたしが中学生だって思うのよ」

「この間、ノートを一枚借りたときに鞄の中の教科書が見えたんだ。中学三年の理科の教科書が」そんなものをこっそり覗いていたのか。侮れないな。

「それはとりあえずどうでもいいわ。別にあなたとあたしの子供とか言わなくていいのよ。あなたの子供よ」

「意味がまったくわからない。それでどうして君の親御さんがこの子を育てる話に持っていけるのか」そうよね、あたしも自分で言っていて意味がわからない。

「じゃあ、あなたが自分の部屋にアロアを匿ってやってちょうだい」やっと本題に辿り着いた。

「それだと俺が誘拐の実行犯になっちゃうんだけど」

「あなたのところなら部屋も広いし一人暮らしだし掃除もきちんとしているし料理も上手いし犬もしつけられているしこの病院から近いところに住んでいるし、そしてなによりもアロアと接点がまったくないから足がつかないわ」

 暮根雅人は「いやいやいやいや」とか「そんなことできるわけがないじゃないか」とか「だいたいなんで俺が」とかぶつぶつと呟いている。往生際の悪い男だ。この子の命がかかっているのだから、黙って一肌脱げ。でも、あたしもちょっと焦りすぎた。もっと暮根雅人に取り入って合鍵の一本ももらっておくべきだったのかもしれない。そうすれば、こっそりと暮根雅人の部屋にアロアを連れて行ってそのまま置いてしまうことも可能だった。

「とにかく、君のやろうとしていることは間違っている。児童相談所でこの子の処遇を聞き出すとか自分の親に里親になるように頼むとかそういうことをするべきだと思う。誘拐を企てたりするのではなく」

 そんな悠長なこと言っていられないのよ。わずかな期間でも手遅れになることがある。たった一週間で亜梨珠は……

 亜梨珠。孤立していたあたしに声をかけてくれた。血色の良い顔に綺麗な長い髪。彼女が笑えば、つられてあたしの頬も緩んだ。いつだったか、彼女はもうじきお父さんができると言った。母親の再婚を嬉しそうに話す彼女を見るのが好きだった。でも、やがて彼女はその話をしなくなった。俯いていることが多くなった。笑顔が消えた。体育の授業を休むようになった。あるとき、ふと見た彼女のブラウスの袖口に血がにじんでいた。血を止めてあげようと思って、彼女の袖をまくり上げると前腕のいたるところに赤黒い痣と傷があって、どこに絆創膏を貼るべきなのか逡巡していると彼女は袖を直してボタンを留めた。そして、申し訳なさそうな笑顔を作った。誰にも言わないでね、という風に。そのことをその日の夜にお母さんに話した。先生に相談した方がいいのではないかという母の言葉を真に受けて担任にも打ち明けた。担任はすぐに彼女の家に行った。そして、亜梨珠の家族と会って話してみたが真面目な親御さんだったから心配は不要だ、と言った。しかし、彼女はその日から学校に来なくなった。担任は体調不良の連絡を受けているから問題はないと言った。彼女はそのまま一週間学校に来なかった。心配になって、あたしは彼女の家を訪ねた。呼び鈴を押しても誰も出てこなかったので開いてる窓を探して勝手に家に入った。家の中は無人のようで、でも、そんなのおかしくて、絶対に亜梨珠がいるはずだと思ってしつこく探し回って、ようやくベランダに倒れているのを見つけた。半裸だった。見えている肌には傷やら痣やらが無数にあった。おまけにガリガリにやせ細っていた。亜梨珠を引き起こしてあげようと思って掴んだ手首はとても冷たくて、それはつまり彼女がもう生きてないことを意味していた。あたしは担任を呪った。母も呪った。おそらく虐待の当事者であろう彼女の親を呪った。でも、なによりも誰よりもあたし自身を呪った。もっと冴えたやり方があったはずで、つまりはあたしが亜梨珠を殺したのだ。あたしが亜梨珠を殺したのだ。あたしが亜梨珠を殺し……

 ふいに肩を叩かれた感触に顔を上げると、暮根雅人が大丈夫かと訊いてくる。あたしは暮根雅人にもう帰っていいという手振りをする。

 お役に立てなくて申し訳ない、と暮根雅人は言って病室を出る。あたしはベッドの上に座って、アロアを抱っこしながら窓の外を眺める。非常階段を下り切った暮根雅人が路地に出ていく姿を目で追いつつ、今日のやりとりを反芻する。

 この病室に案内してしまったのは失敗だったかもしれない。暮根雅人に無理やりアロアを押し付けたとしても、この部屋にそっと返されて終わってしまう。いや、この病室がわからなかったとしても、警察にアロアを連れて行って渡してしまうだろうから、病室がわかったことはどうでもいい。もっと情を移させて庇護欲を掻き立てさせることができないだろうか。それともアロアの親がどれほど恐ろしい人間なのかがわかった方が響くのだろうか。アロアの親か。どんなやつなのか気にはなるわね。アロアの髪の毛に触れて、その色味を吟味する。赤ちゃんのときには色素が薄かったりするから、今は金髪に見えるけど成長とともにいくらかの変化があるのかもしれない。

 馴染みの看護婦さんがアロアの昼食を持って病室に入ってきた。茶色の長い髪の毛をまとめあげて頭のてっぺんで括っていて背が高くて胸も大きい。年のころは二十代半ば、あるいはもしかしたら三十歳を超えているかもしれない。紺の上着に白のパンツという制服はユニセックスを意識しているのだろうけど、女性にこれは似合わない。綺麗な人なだけにこんな格好をさせられてお気の毒としか言いようがない。以前に入院していたときに、楽家留美と書かれた名札を見てラッカと読んだら笑顔で窘められてラクイエと読むのだと教えてくれた。それ以来、よく話すようになった。アロアのことも気にかけてくれる。

「お邪魔しています」とあたしは気が晴れないながらも、無理に愛想よく務めて言う。

 留美さんはあたしにひとつ頷いて、アロアに向き直って微笑んで食事のプレートをベッドの脇に置く。くたくたに茹で上がったブロッコリーにオムレツに冷めた豆のスープに鮭を混ぜ込んだごはん。アロアは先割れスプーンを受け取ると、ブロッコリーに突き刺して口に入れ、豆のスープをかき回してこぼしまくり、オムレツをめった裂きにする。

「ねえ、さっきの背の高い男の人は誰なの」と留美さんが言う。こっそり招き入れたつもりだったけど、しっかり見られていたらしい。

「えーと、兄です」とあたしが答えると「あら、ずいぶん年の離れたお兄さんね」と留美さんが言う。

 そこから年を聞かれ(三十歳くらい)身長を聞かれ(さあ?)彼女の有無を聞かれ(たぶん、いない)趣味を聞かれ(料理、でいいのかな)仕事を聞かれる。

「キュイジーヌアナリスト、って言っていました」

「なにそれ、かっこいいわね」

「かっこよくなんかないです。たぶん、新手の詐欺みたいな仕事なんじゃないかな」

「今度、紹介してよ」と留美さんが言う。なんだろう。なにか胸の奥にもやりとしたものがつかえる。もやりとする原因は暮根雅人がもてるらしいところなのか留美さんが軽々しく紹介してくれというところなのか判別はつかないが、それを無理に飲み下して「いいですよ」と答える。そして、話題を変える。

「アロアって、金髪だし名前もカタカナっぽいですし、お父さんお母さんは外国の方なんですかね」と留美さんに訊いてみる。

「国籍はわからないけど、ミネダイラっていう苗字みたいよ。名前はカタカナでアロアね。外国の方というよりは、ハーフなんじゃないかしら」と気さくに返答してくれる。

「ミネダイラってどんな字を書くんですか」

「ミネは山冠の峯で、ダイラは平行の平ね。峯平」と留美さんが言う。峯平アロアね。

「降ってきたわね」と留美さん窓の外を見ながら言う。あたしも窓に目をやると大粒の雨が地面に穴を穿つ勢いで降り始めていた。

 話しているうちにアロアは食事を終えていて、留美さんは食器を片付けて病室を出て行った。

 改めて窓の外を見る。視界が利かないほどの雨で景色がけぶる。今日は傘を持っていない。でも、これほどの大雨ならばいつまでも降ったりはしないわよね。夕方までには止むでしょう。

 というあたしの見立ては大間違いで夕方になっても降る雨は雷を帯びて一層激しさを増し帰り支度をしつつ駅までの最短のルートを思い描きそこに着くまでにどれだけ濡れるものかと憂鬱になりながら病室を出るとドアのそばに無骨で大きな黒い傘が一本置いてあるのを見つけた。それを失敬してやろうと近づいて見てみると柄の部分に貼り付けられた付箋に、明日香へ、と書かれていた。この雨の中、こっそりこれを持ってきて置いていってくれたのか。うん、やはり、悪い人間ではないのよね、暮根雅人は。


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