マンション、ボーちゃん、ステーキ
朝の八時。今日は山手線での回遊をせずに池袋で電車を降りる。朝のラッシュの真っ只中にこの駅を使うのは久しぶりだけど、とにかく人が多い。自分の意志で進むことすらままならず、人の波の流れに任せて辿り着いた適当な改札を出る。地下街を見渡すものの場所の見当が付かないので、手近な階段を昇って地上に出る。空は曇天。湿気が重くまとわりつく。周りには簡略化された漢字の看板に、―や|やロやトみたいなもので組み上げた文字の看板ばかり。この異国感。どうやら駅の北口に出たらしい。路上には飲食店からの廃棄物を入れたゴミ袋が引き裂かれていて、野菜の切れ端やわずかに肉の残った鳥の骨や脂身や果物の皮や排水溝に溜まっていたと思しきヘドロやそれに溶け込む米粒やパンの欠片などの厨芥が散らばる。そこから立ち上る臭気にむせ返りそうになるけれど、烏たちはそれを気にする様子はなくゴミ袋の中からさらなる残飯の発掘に余念がない。
荒れた光景を後にして昨日の公園に向けて歩き出す。駅前の広場を突っ切れば公園は近いのだが、暮根雅人に指摘されてからそこを通るのに気後れする。朝っぱらから人外どもがたむろしているとは考えづらいが、絡まれたらどうしようという心配は付きまとう。駅前広場を避けて迂回しようかとも思ったが、そちらの道を使うと信号をいくつも待つ羽目になる。遠回り自体は苦にならないけど、信号で足止めを食らうのはいただけない。時間がないわけではないし、どちらかというと時間なんか有り余っていると言ってもいいのだけれど、無駄な信号待ちの時間が許せないこの気持ちはなんなのだろう。
迂回せずに広場を渡るならば、なにか武器になりえるものが欲しい。鞄を開けて中を物色する。教科書、ノート、筆記具、ヘアピン、ヘアゴム、ヘアブラシ、リップ、裁縫セット、日焼け止めクリーム、ティッシュ、ハンカチ、絆創膏、定期券、生徒手帳、鍵、財布、コインケース、それとは別にむき出しの紙幣。紙幣? このお金はなんだろう。まあ、それはともかく、武器になりそうなものは筆箱の中の鉛筆やシャーペンくらいか。鉛筆を握ってみると、尖ったペン先はほんの数センチメートルほどしか手の先に出ていない。こんな小さな突起でどうしろというのか。強く握るとみしりと音がして鉛筆が折れる。だめだ、こんなものでは戦えない。
人外に立ち向かうことを諦めて迂回を試みる。信号待ちは望まないので地下街を行くことにする。地下街の地理には不慣れだけれど、これを機会に慣れておくのもいいだろう。さっき昇ってきた階段を、そのまま降る。地下街には地図があちこちに設置されているし、そうそう迷うこともないだろう。
気楽に歩き出したが、簡単に迷った。書いてある地図と実際の通路の様子がうまく頭の中でつながらない。なぜ地下ではこれほどまでに方向感や距離感が乱れるのか。地下道と地上の違いはなんだろう。地上を歩いているときには漠然と方向くらいは把握できるのに。
見通しのよい地上だと遠くの高いビルとか少し先の交差点とか道に並ぶ看板とか道脇の店舗とか道の勾配とかで感覚的に位置を把握しているのかもしれない。それに比べて地下は見通しが悪すぎる。店舗の店構えも均一的で見分けがつかないのも位置を把握しづらい一因だろう。
地図を見つける度に現在位置と行き先を何度も指さして方向と距離を確認しながら進み、苦労の末にようやく辿り着く。もう地下道なんか歩くものか。
階段を上がって地上に出る。さっきの北口の路上が準地獄だとしたら、この公園は準天国と言ってもいい。ゴミもなく、ゲロもなく、烏に威嚇されることもない。
すべてのベンチが空いていたが、なんとなく昨日と同じベンチに腰を下ろす。携帯電話を出して電話かける。コール音が三回半鳴ったところで暮根雅人が電話に出る。
「あたしです。えーと、竜宮院明日香?」名前の語尾を上げてしまった。
「また、ずいぶんとお早いことで」ああ、そうね。泥棒が起きているような時間じゃなかったかな。
「トレバー・ラビンとミートローフ、持ってきたわよ」昨日のドレッシングのレシピのメモは決して親切と善意だけではなく下の方に持ってきてほしいCDが記載されていたのだ。あたかも、ドレッシングのレシピとCDが交換条件であるかのように。電話の向こうで暮根雅人が居住まいを正す音が聞こえる。
「持ってきてくれたんだね。ありがとう。そしたらどこに受け取りに行けばいいのかな」
「いま、あなたはどこにいるの」
「自分の部屋だけど」
「そちらに伺います」と言って、あたしは公園のベンチを立つ。
「ここに?」
「ええ、あなたのうちに持っていきます」話ながら歩き出す。
「場所、知らないでしょ」
「だいたいの場所はわかるので、近くに着いたら電話します。そしたら迎えに出てきてほしい」病院の裏の路地。あの辺りで間違いない。
「わざわざ届けてもらわな」暮根雅人が話している途中で電話を切る。やりとりが面倒くさい。親切で届けてあげるわけじゃないわよ。あたしは宅配便じゃないんだから。部屋を見たいのよ。アロアを匿うのに適切かどうかを判断するために。
公園を出て、アロアの病院の方に向けて進む。途中、コンビニに寄ってアロアのおやつを買う。今日はスティックタイプのベイクドのチーズケーキにする。スフレチーズケーキの軽さやレアチーズケーキの酸味が苦手なあたしの選ぶチーズケーキはベイクドの一択だ。
コンビニを出ると汗が一気に肌を覆う。暑い。しかし、今日は夏服を着てきたのでいくらか救われる。衣替えの日はとっくに過ぎていたのだけれども、すっかり忘れて昨日まで冬服を着ていたのだ。とはいえ、夏服だから快適だと言う気はない。当然、暑い。汗を拭きながら歩く。ハンカチが存分に汗を吸って、絞れそうなほどになったところで病院の裏の路地に着いた。電話をかける。
「病院の裏に着いたので出てきて欲しい」とだけ伝えて電話を切る。
少し待つと暮根雅人が現れる。今日のアロハは薄い黄色と薄い青と薄いオレンジであしらわれたハワイアンな柄だ。ヤシとかカメとか花なんかが大胆なほどに太い線でシンプルに描かれている。しかし、本当にアロハしか持っていないのではないかという懸念は深まる。
「わざわざすまなかったね」と言って暮根雅人が手を出す。CDを渡して帰れ、という意思表示だろう。その手を無視して路地の奥に進む。どこから暮根雅人が出てくるか、当たりをつけて見張っていたのだ。奥に見える三階建てのレンガ張りの建物から出てきたのを確認している。暮根雅人が後ろから声をかけてくる。待ちなさいとか、どこに行くのかとか、止まりなさいとか。警察か、と思う。あたしは振り返って「何階?」と尋ねる。
「女の子が一人で男の部屋を訪ねるのはよくない」と暮根雅人がこめかみを手で押さえながら言う。
「それはあなたが唐突に欲情を催してあたしを押し倒したりする、ということかしら」
「欲情を催すって……いや、そんなことにはならないけど」
「ならいいじゃない」
「もっと用心して行動した方がいいよ」
「あたしは誰もかれも信用しているわけじゃないわよ」
暮根雅人は頭をがりがりと掻いて「信頼されているようで、なによりだ」と言って諦めて、建物入口にあるオートロックの番号を押してドアを開ける。暮根雅人の指の動きを追って暗証番号を覚える。中に入るように促してくれたので、それに従う。建物は小綺麗で新築っぽいにおいがした。エレベーターに乗って暮根雅人は三階のボタンを押す。最上階だ。しかし三階建ての、いわば低層と言ってもいい建物にエレベーターが付いているのはめずらしい。エレベーターを降りて一番近い部屋の前で暮根雅人が鍵を出す。鍵を開けようとして、ふと手を止めてこちらを見る。愛嬌を振りまいておこうと思って、にっこりとほほ笑む。暮根雅人はそれを見て、ため息を一つ吐いて首を左右に振る。その暮根雅人の振る舞いを見て、あたしの笑顔が引きつる。
部屋に入ると出迎えがいる。犬だ。大きな犬。白と茶色のふさふさである。
「この犬、噛まないでしょうね」
「さあ、どうだろう。知らない人を部屋に上げたことがないからわからない」
「名前はなんていうの」
「ボーダーコリーなんで、ボーちゃん」
「安直な名前ね」
「安直な名前で失礼しました。竜宮院明日香さん」あたしの偽名を皮肉ってきた。
「ボーちゃん」とあたしは名前を呼びながら頭をなでる。ボーダーコリーといえば、白と黒だと思い込んでいたけれど、白地に淡い茶色なんていう子もいるのね。それにしてもずいぶんと愛想の良い犬で、尻尾を左右にぶんぶんと力強く振りながら、頭を手に押し付けてくる。
「ボーちゃんは賢くて気の利くいい犬だよ。なんでもすぐに覚えてくれて、しつけで苦労したことがない」と暮根雅人が親バカぶりを発揮する。そして、向き直って「ボーちゃん、スリッパ取って」と暮根雅人が言うと、犬は玄関の片隅に行き、置いている箱の中からスリッパを銜えて戻ってくる。あたしの目の前にスリッパを置いて向きを整えてから、ひと声吠える。
驚いて暮根雅人に目をやって、この感動をなんと伝えたものかと思案していると「褒めてやってもらえるかな」と暮根雅人が言った。靴を脱いでスリッパに足を突っ込み「すごいね、ありがとね、いい子だね」と労って頭をなでてあげると、犬は暮根雅人の分のスリッパを取りに行った。
しかし、改めて見ると広々とした玄関である。脱ぎ散らかした靴も見当たらず、きちんと整理されているし埃が吹き溜っている様子もない。暮根雅人がいつも履いていると思われるモスグリーンのスニーカーは隅にきちんと揃えて置いてある。今の暮根雅人が履いているサンダルは軽い外出用なのだろう。あたしはしゃがんで自分の靴を整える。普段は脱ぎっぱなしで靴を揃えたりなんかしないけど、犬にも劣ると思われたくなかった。房飾りの付いた茶色のローファーの踵を揃えて持って、向きを返す。よく見るとこの房飾り、ザクロの花っぽい。靴を揃えて満足して立ち上がる。でも、もしかして脱ぎ散らかしておいても、ボーちゃんが揃えてくれたりしたのだろうか。
廊下には左側にドアが二つ、右側に引き戸が一つと脱衣所と風呂らしき空間、そして廊下の突き当りに磨りガラスをはめ込んだドアが一つ。その一番奥の突き当りのドアまで進んで中に案内される。
部屋の奥に背の丈ほどの高さの窓がありレースのカーテン越しの明かりが室内を十分に照らす。窓の左右に引かれたカーテンは若草色。居間のかなりの部分をアイランドキッチンが占めている。一人暮らしにしてはやたらと大きな冷蔵庫や広いコンロ台やシンクやレンジやなんかが視界に入る。整理されて清潔な台所だ。居間の部分にガラストップのローテーブルをソファーがL字に囲み、向かい側にはテレビとステレオセットとスピーカーが置いてある。ステレオの前には犬のベッドらしいものが置いてある。楕円形をしたピンク色の平たいベッドで、縁が少しだけ盛り上がっていてハンドトスのピザ生地を思わせる。壁際に小さな書き物机と椅子があって机の上に置いてあるのは閉じられたノートパソコン。座るように促されたソファーは白みがかった緑色でヨモギの葉に似ている。座るとずいぶんと硬い座面で少しも身体が沈みこまないけど、不思議と座り心地は悪くない。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいかな」と暮根雅人が訊いてくる。
「朝ごはんは食べたの」
「いや、まだだけど」
「一人分作るのも二人分作るのも同じでしょう。一緒に食べてあげるわよ」とあたしが言うと、暮根雅人が一瞬、眉根を寄せる。
「たいしたものはできないけど、それでよければ作りましょう」と言って暮根雅人はキッチンに入る。ソファーからではキッチンの中までは見えないが、おおよその行動はつかめる。行平鍋に水を張って火にかけ、ボウルに卵をいくつか割り、冷蔵庫から出した何かに塩を振りグリルに入れる。それらはあっという間に調理され、ローテーブルに並ぶ。
はじかみを添えた塩鮭の切り身はメダカの群れが描かれた角皿に盛り付けられ、朝顔の柄が縁をぐるりと彩る器に卵焼きを乗せてその横にマヨネーズを絞り、豆腐とワカメを具としたシンプルな味噌汁を漆塗りの椀によそい、キュウリの漬物が二切れほど小さな器に入れられ、ごはんを盛った茶碗は手に馴染む形で、その側面には軽いタッチで描かれたかわいらしいだるまの絵があしらわれ、その手前に置かれた箸は六角形で側面には貝細工の千鳥がはめ込まれている。
「いただきます」と言って味噌汁の椀を手に取る。雑味がなく、さっぱりとして潔い味がする。鮭は塩が効いていてくさみがない。卵焼きは甘めの味付けでそのままでも十分に美味しいのだけれど、添えられたマヨネーズを付けると味が化ける。ごはんよりも、パンに挟んで食べたくなる。そしてこのキュウリは、ぬか漬けだろうか。あたしの知るぬか漬けはくさくて塩辛くてあまり良い記憶はないのだけど、これにはそのくささも辛さもない。いや、くさいどころか香り爽やかで品の良い塩味。こんなに上品なぬか漬けは初めてだ。
ごはんもおかずも軽く平らげて、未練がましくぬか漬けをちびちびと齧っていると、暮根雅人が席を立つ。
戻ってきた暮根雅人は焼いた厚揚げに薬味を盛った皿とナスとピーマンの味噌炒めをテーブルに並べる。
「ごはんのおかわりは要るかな」と聞かれて、茶碗を差し出す。暮根雅人は茶碗を受け取ると、他の空いた皿と一緒にキッチンに運ぶ。厚揚げはそのままを焼いただけに見えたが、箸を入れると隠し包丁が入っていて、簡単に切り分けられる。薬味にはネギ、ショウガ、鰹節、わずかにミョウガの香りもする。短時間にこんな面倒なことをよくやるわ、と感心しつつ厚揚げを平らげる。おかわりのごはんを受け取って、みそ炒めでいただく。甘めの味噌ダレにピーマンの苦味が良い。油とナスの相性も抜群でごはんが進む。
さらに、茶碗蒸しと焼いた鯛の切り身がテーブルに上がる。茶碗蒸しの表面をスプーンで軽く触れると波紋が立つ。スプーンで掬って軽く吸うとするりと口の中に飛び込んでくる。あちっ、と声を上げかけたところに暮根雅人が水の入ったグラスを手渡してくれる。慌てて水を飲み下すことで事なきを得た。しかし、このふるふる食感。卵の加減が絶妙なのだろう。改めて茶碗蒸しを検分する。上に三つ葉が添えられ、中をかき分けると梅の花に模したニンジン、干しシイタケ、鶏肉、カマボコ、銀杏が現れる。
鯛の方はかりっと焼きあがった皮目を上にし、山椒の若芽らしきものが添えてある。皿の余白にムースがぽつん、ぽつん、ぽつん、と盛り付けられて、これがおそらくソースなのだろう。なんだかフランス料理っぽいなと思いつつ箸にムースを乗せて舐めると、予想に反してなじみ深い味がする。醤油にスダチを絞ったものを泡立てだけじゃないか。いや、醤油ってかき混ぜたからといってムース状になるものだっけ。わからない。わからないけど、これがフランス料理ではないことだけはわかる。箸を入れると、皮がぱきっと小気味よい音を立てて割れ、現れた白身はしっとり柔らか。これにスダチと醤油が合わないわけがない。
とどめに出てきたのが分厚いステーキ。朝っぱらからステーキかよ、と思うものの焼き立ての肉が放つ音が耳に心地よい。なぜ音が聞こえるのかというと、暮根雅人は肉をフライパンに入れたまま食卓に持ってきたからだ。
鍋敷きをテーブルに放って、その上にフライパンを置く。持っていた包丁の切っ先をフライパンの底に当ててそのまま軽く引く。肉は刃に抵抗するでもなく、切っ先はフライパンをひっかくいやな音を立てるでもなく、あっさりと肉が切り分けられる。摩擦係数ゼロ。肉が恐ろしく柔らかいのか、包丁がとんでもなく切れるのか、どちらなのかわからない。きっと肉は自分が切られたことに気付いていないんじゃないかな、と思う。
暮根雅人が瞬時に切った肉を二三切れほど包丁で突きさして、あたしのごはんの上に置き包丁を茶碗の縁にかけて引き抜くと、ステーキ丼の出来上がりである。
茶碗を持ち上げて目の前で見る肉の断面は極わずかに薄いピンク色を残しつつも、染み出る肉汁に血のにおいは感じない。しかし、この断面を見るに、これは赤身肉ね。霜降りではない。霜降りじゃないのか。和牛の価値は脂で決まると言っても過言ではないのに。という失望感を抱きつつ、肉を箸でつまみ上げて口に放り込む。味付けは塩胡椒のみ。軽く噛むと驚くほど簡単に歯が通る。この噛み味はいい。そして、噛むと同時に肉の旨味が溢れ出る。赤身肉は焼くとばさばさの食感になるものかと思っていたけど、なぜこれほどにジューシーなのだろうか。そしてその肉汁たるや旨味百パーセントのジュースといった趣きで、これを食べてしまうと霜降りの脂はいささか野暮ったい。うん、あたしはこっちの方が好きだな。あっさりと宗旨変えを果たす。赤身肉、最高。赤身肉、万歳。さきほどの醤油のムースを流用してステーキに乗せる。牛肉と醤油の相性の良さにごはんのおかわりを要求する。
「焼き加減が完璧」と声に出てしまった。
「肉の内部温度は六十度くらいだね。本当は五十三度が最適と言われているんだけどね」
五十三度。いったい誰がそんな細かい温度を割り出すのか。
「ケンジ・ロペス=アルトって人だね。この人は料理に科学的アプローチで迫ろうという探究家で、ステーキの内部温度を一度ずつ変えて、各温度での仕上がり具合を詳細に検証したらしい。その結果として、最高のステーキの内部温度を割り出したんだとさ」
科学的というよりは偏執的なのではないのかしら。だいたい、フライパンでそんな細かい温度の管理をできるものなのだろうか。いや、でも、六十度か五十三度かは知らないけど、本当に素晴らしい焼き加減だった。
「ごちそうさま。とてもおいしかった」重ねて褒めると、暮根雅人はにこにこしながら皿をまとめてシンクに持って行く。
「いや、しかし、すごいね」と暮根雅人が戻りしなに言う。え、もう洗い終えたのか。早すぎるだろうと驚愕していると、先を続けて言う。「君のその食欲。大量の皿を洗いながら思ったよ。こんなに食べたのか、ってさ」褒められているのか貶されているのか判別できずに「そりゃ、どうも」と答えておく。
「そういえば、昨日もらったレシピでドレッシング作ったんだけど……」
「レシピはきちんと守りましょう」と暮根雅人が声のトーンから察したらしく、先回りして言う。
「うちにはキッチンスケールがないから分量が計れないのよ。それに普通の家庭にはアンチョビなんかない。ゴマもない。微量と言われたけど、割った卵を残しても使い道がないから一個まるまる使ってやった」とあたしは胸を張って言う。
「材料が揃っていようと揃っていまいと、君が食べる君の料理だから好きにやるといいよ」
「あたしじゃなくて、お母さんに食べてもらいたかったのよ」あたしがそう言うと、暮根雅人は顎に手を当てて、ふむ、と一言呟いて立ち上がりキッチンに向かう。あちこちの戸棚を開けてなにかを見繕って戻ってくる。持ってきたものをテーブルに並べる。
「これがアンチョビの缶詰。こっちはゴマ。あと、秤」
「貸してくれるの?」
「いや、あげるよ。開けた缶詰を返してもらってもしょうがないじゃないか」
「食べ物は返さないわよ。キッチンスケールとかあるじゃない」
暮根雅人は両方の手のひらを上に向けて、こちらに差し出すような動作をする。黙って受け取れということなのだろう。あたしはテーブルに並ぶそれらを仕舞うために鞄を開けると、中に頼まれていたCDが入っているのを見つける。それを掴み出して、かわりにアンチョビとゴマとキッチンスケールを鞄に入れる。
CDを受け取ると、暮根雅人の表情が緩む。トレバー・ラビンのCDを見入る。革ジャンに髪の長い男の写真のジャケット。古くさいしダサい。あたしはそのCDに興味をそそられなかったので聴いたこともない。感想なし。
「これ、誰だかわかるかな」
「トレバー・ラビンって人でしょう」
「うん、それはそうなんだけど。一時期、YESのメンバーだった人だね」
「YESならちょっとわかるわ。でも、名前を知っているメンバーはジョン・アンダーソンだけ」
「それだけ知っていれば十分だよ」そう言いながら、暮根雅人はCDの裏表をじっくり検分している。
「そしたら、こっちは」と言って残りの一枚のCDを暮根雅人がかざす。ミートローフ。『地獄のロックライダーⅡ 地獄への帰還』という名のアルバム。貧相なバベルの塔のようなものによじ登る巨大なコウモリの化け物に向かって空飛ぶバイクにまたがった革ジャンの男が拳を振り上げてそれに殴りかからんとする構図のジャケット。タイトルもアーティスト名もごてごてとしたゴシック調の飾り文字が使われていて、いかにもヘビーメタルだ。シンバルによる金属音の豪雨、スピード最優先のギターフレーズ、卒倒寸前のヒステリックなボーカル、それらを想像しただけで頭が痛くなるわ。
「聴いたことがないみたいだね」嫌悪感が顔に出てしまっていたのだろうか。暮根雅人がそう言って、CDをステレオにセットする。
朝っぱらメタルを聴かされるのかと身構えつつ、ライナーを見る。劇場らしき椅子に座って踏ん反り返る一人の太った金髪の男の写真。これがミートローフなのかな。バンド名かと思ったけど、他にメンバーっぽい人間の写真は見当たらない。それによく考えるとミートローフって名前はどうなの。ミートローフってひき肉を寄せ集めてオーブンで焼く料理よね。勝手に和訳させてもらうと西洋肉団子ってことになるけど、それは果たしてヘビーメタル的な命名なのだろうか。確かに写真の男は肉団子っていう感じはするけれども。
一曲目の序盤の部分こそメタルっぽいギターがバイクのエンジン音を模して始まったもののそれが唐突に止むとピアノが静かに旋律を奏でボーカルがそれに合わせて穏やかに進行するも突如ピアノのテンポが上がってあっという間にトップギアに入ってドラムとギターがそれを追い立ててさらにコーラスが螺旋を描いて宙に昇って昇って昇って昇ってそして一気に突き破る。なんだろう、この高揚感は。しかし、この曲の展開、構成、盛り上げ方はなにかを思い出す。なんだっけ?
「ボニー・タイラー」そうだ、ボニー・タイラーの『ヒーロー』もこんな構成だった。
「ストリート・オブ・ファイアー」ファイアー・インクか。『今夜は青春』のコーラスに酷似している。
「エア・サプライ」なるほど『渚の誓い』のピアノを思い出す。
「っていうか、人の思考に割り込んでヒントを出さないでちょうだい」と暮根雅人に文句を言う。
「思考っていうか、全部声に出ていたけど。それで、それらすべてはジム・スタインマンという人の曲だな。なんでも本業は脚本家だそうで、どの曲もドラマチックに盛り上げないと気が済まないらしい」
「このアルバム、ヘビーメタルかと思っていたわ」
「俺はこれをロックオペラと呼びたいね」ロックオペラねえ。聞いたことがないわ、そんなジャンル。ライナーの曲目を眺める。『愛にすべてを捧ぐ』『ひどい人生だ、金返せ!』『焼け焦げたフライパンの中から(そして炎の中へ)』『お嬢ちゃんは天国に(不良少女はどこへだっていける)』『地獄への帰還』 うん、曲名を見てもストーリーが一つも見えてこない。
「誰に曲提供しようが微塵も揺るがぬ作曲姿勢」と言いながら暮根雅人がソファーに戻ってくる。アイスティーとミルクピッチャーとガムシロップをあたしの目の前に置く。知らないうちにお茶を淹れていたのか。
「これは本物の生クリームだから心配せずに使うといいよ」と暮根雅人が言う。お言葉に甘えてミルクとガムシロップをグラスに入れてストローでかき回す。暮根雅人が自分の方に置いたのはアイスコーヒーのようだ。その涼しげなグラスにうっすらと付いた水滴を見て思い至る。顔や腕や首から汗がすっかり引いていることに。室内が特別涼しいとは感じなかったので冷房をかけているわけではなさそうだ。除湿だけでここまで快適になるものだろうか。
アイスティーのグラスを寄せるとふわりと香りがそよぐ。口を付けると、昨日のイタリアンの店で飲んだものよりも渋みが控えめで飲み口が爽やかだ。
「昨日飲んだのと全然違う」と思わず漏らす。
「昨日のって、クアンド・レ・ラディチのパスタのセットで付いてきたアイスティーのことかな」
「うん、昨日のそれは渋い水って感じだった」
「あれはおそらく業務用の出来合いで、紙パックに入った紅茶だからね。まあ、ランチのおまけで付けるようなものだから、あんなもんだよ」
「これは?」
「これはフォートナム&メイソンのダージリン。香りがいいよね」
フォートナム&メイソン。名前と味を記憶に焼き付けようと意識して飲んでいたら、あっと言う間になくなってしまった。
「ところで、今日から衣替えなのかな」とあたしの制服を見て暮根雅人が訊く。冬服はブレザーなのだけど、夏服はセーラー服である。セーラーブラウスは左右の襟が胸元で水平に一直線になるデザイン。襟の淵には紺のラインが走る。胸のリボンもスカートも紺色である。
「今日が衣替えってわけじゃなくて、学校に行ってないから衣替えの日が過ぎていることに気付けなかったのよね」
「学校……」
「ちょっとトイレ借りるわね」暮根雅人が学校のことを根掘り葉掘り尋ね始めるのではないかと危惧したとはいえ、またトイレ宣告をすることになってしまった。まあちょうどいい。他の部屋も見たかったし、トイレと言っておけば様子を見に来たりはしないでしょう。
廊下に出て一つのドアを開ける。室内には箱が散乱している。物置だろうか。あるいはウォークインクローゼット。それにしてはちょっと広い。そして、物置にしては明るい。明かりの元をたどると、カーテンから漏れる光に気付く。窓があるということは普通の部屋が物置化されているということね。床に置かれているものに注意して部屋の奥に進んでカーテンを引いて光を呼び込む。室内を占有していたのは引っ越し会社のロゴとキャラクターが印刷された段ボールの箱であることがわかる。近くにある一つを見てみると口は開けられて、覚書に食器と記してある。中には新聞紙に包まれたものが詰まっている。新聞紙の日付は二年ほど前のようだ。他の箱の覚書も鍋や調理器具といったキッチン関連の文字が並ぶ。箱は床だけではなく、開かれた物置の中にも積まれていて、いったいどれだけあるのか見当がつかない。すべてキッチン関連のものなのかどうかもわからない。そもそも、この段ボールたちが荷解きの途中で放置されているものなのか、あるいは逆に引っ越しの準備の真っ最中なのかもわからない。引っ越し準備中なのだとしたら、足掛け二年間の大仕事ということになるけれど。
廊下に戻って次のドアを開ける。窓が二面にある。そうか、ここは角部屋なのね。窓が多いのはいいわね。部屋の中にはベッド、タンス、本棚、サイドテーブルなんかがある。寝室ね。本棚に並ぶ本の背表紙を覗きたい衝動に駆られるも、ここは堪える。本を見ていると時間を忘れてしまう。あんまり戻りが遅くなると、さすがに様子を見に来られてしまう。この部屋も奥に物置があったので開けてみる。物置というよりはクローゼットだった。ハンガーに下げられたアロハシャツがずらりと並ぶ。いったい何着あるのか。冬物らしい服を探すと、端っこの方に長袖のシャツが少しとグレーでロングのダッフルコートが一着あるだけだった。夏物と冬物との疎密の差が激しいわね。クローゼットを閉じて、ベッドに目を転じる。青い枕に青いシーツ、そこに軽そうな布団がかけてある。布団にはカバーがかけられておらず、地の柄がそのまま出ていた。横にあるサイドテーブルはよく見ると、なにやら怪しい鉄の塊のような器械が縁に付いている。金属のハンドルの付いた無骨な器械。引き出しがあったので、上から順に開けてみる。一段目にはペンチやドライバーや刃の細かいノコギリやハンマー。二段目にはネジというか、ボルトやナットやらの金具いろいろ。三段目には電気ドリル、かしら? でも、先端がプラスのドライバーになっている。うむ、よくわからない。けど、まあいい。血糊とか見当たらないし、拷問道具ってわけじゃないでしょう。
次にタンスの一段目を引き出す。Tシャツが俵のように畳まれて律儀に並んでいる。なるほど、これなら選びやすくて取り出しやすい。そういえば、クローゼットの中のアロハシャツにも、このTシャツの中にも緑系の色合いのものが見当たらない。インテリアは緑系ばかりなので、てっきり緑が好きなのかと思ったのだけれど、どうにも趣味が読み切れない。二段目には下着や靴下。三段目にはジーンズやマフラーと手袋とか冬物の小物。四段目はタオル。五段目は空っぽだった。
脱衣所と風呂も見ておく。脱衣所には洗濯機と洗面台がある。洗面台の方は使用されている様子がない。流しの部分にタオルとか開けていない石鹸の箱とかが置かれている。水を流すつもりがないから、ここに物を置いているのだろうと推測する。そして、お風呂か。カビだらけのお風呂とか見たくないなあ。お風呂も綺麗であってくれることを祈る。そして勢いよく開けて、さっと見渡す。うん、ぱっと見ただけでも掃除が行き届いているのがわかる。全体はクリーム色の壁だけど、鏡のある面の壁だけはこげ茶色をあしらっていてアクセントが効いている。湯船は大きくてゆったりしている。脚を伸ばしても入れそうである。しかし、男の一人暮らしでここまで掃除が行き届いているものかしら。彼女がいるのか。その人があちこちこまめに掃除してくれていると考える方が普通かもしれない。でも、風呂場にあるシャンプーは脂汚れすっきり頭皮さっぱりを謳い文句にしているような、いかにも男性が選びそうな無骨な代物で、コンデショナーの類いは見当たらず、石鹸に至ってはただの固形石鹸だ。女性の影は感じられない。できることならば、彼女はいないでいてくれると助かるのだけれど。巻き込む人間が増えると、説明の手間が増える上に説得する難易度が上がる。
最後にトイレね。さすがにトイレだけ異様に汚いということもないだろう。でも、別にあたしは部屋の掃除の行き届き状況を見たかったわけではないのよね。暮根雅人に虐待の趣味があって犬や猫をさらってきて切り刻んでいるとか、実は猟奇殺人鬼で死体の入ったポリ容器が部屋に置いてあるとか、そういう事実の確認したかったのだけど、いやまさかこんな潔癖症的室内状況とは思いもしませんでしたよ、と思いながらトイレの引き戸を開ける。
広い。とにかく広い。個人宅のトイレでこの広さはなんだ。駅や商業施設にある車いすでも利用可能のトイレよりも広いくらいだ。手洗いのための洗面台、その上部に鏡、石鹸タオルまで装備されている。あれ、脱衣所にも洗面台があったよね。まあ、使われてなかったけど。少し違和感を覚えるのは、便座の対角線上の奥に犬のトイレシートが敷いてあることだろうか。犬もここでトイレを済ますということなのだろうか。そして、その向かい側の壁際にあるゴミ箱もなんだかすこぶる大きい。
いささか広すぎるトイレに臆するところもあるが、せっかくなので用を済まして戻ろうと思い、便座に腰を下ろしかけたところで、いや、待てよ、と思ってトイレットペーパーをいくらか手に取り畳んで洗面台で水をかけて簡易布巾として便座を拭う。拭いたトイレットペーパーをトイレに流す。改めて便座に座る。座ると唐突に奥の壁が開いた。驚いて息が止まる。壁が開くというか、壁の下の方の一部が押すと開くドアになっている。建付けが良すぎて、閉じた状態ではそのドアの存在に気付けなかった。そして、そこから大きな毛むくじゃらが入ってくる。……犬か。犬ね。ボーちゃんだ。
ボーちゃんはトイレに入ると何周かぐるぐると回ってシートに狙いをつけてしゃがみ込んで小用を足した。それが終わるとなにかを前足で叩く。とたん、トイレシートの四隅が摘み上げられ、天井に設置されていたレールに沿って移動した先にあるゴミ箱の蓋が勝手に開き、そこに用済みのトイレシートが投下されて蓋が閉まる。もともとのトイレシートのある場所には未使用のトイレシートが表面に現れている。なんなの、このカラクリは。カラクリに驚くべきなのか、トイレを片付ける犬に驚くべきなのか。そしてボーちゃんは座っているあたしの元にやってきて、膝の上に顎を乗っけて上目遣いで見つめてくる。なにを求められているのか、皆目見当が付かないので、見つめ返す。
間近に顔を見ることで鼻も茶色であることがわかる。耳が垂れている。よく見れば目も垂れている。上目遣いをすることでわずかに覗く白目の部分が無性にかわいい。「ボーちゃん」と名前を呼ぶと尻尾を振る。
そうか、褒めるのか。スリッパのときに褒めてやってくれって言っていたわよね。「よしよし。トイレ上手ね」と言って頭をなでると、ボーちゃんは満足そうに入ってきたドアから出て行った。自分も小用を終わらせて水を流して手を洗う。そしてトイレシートを検分する。トイレシートは何枚も重ねられている。上には釣り糸みたいな透明の糸がトイレシートの四隅に付いている。おそらく、これは手作業で準備されたもののように思う。天井付近のレールはカーテンのものを流用しているようだ。便座からだとよく見えなかったが、床に大きな赤いボタンがあった。仕組みの詳細はわからないけれど、動きはわかった。このボタンをボーちゃんが叩くと、トイレシートに付けられた糸が巻き上げられてレールに沿って進み、糸が切れるか離されるかしてゴミ箱の中にリリースされる。これ、暮根雅人が自分で作ったのかな。器用な男だ。
トイレを出て、居間に戻る。
「ボーちゃんがトイレにお邪魔したみたいで悪かったね」居間に戻ると暮根雅人が言う。
「びっくりはしたけど、大丈夫よ。トイレ、自分で片付けるのね、この子」
「手がかからないんだよ、本当に。それで探索はどうだった。なにかめぼしいものはあったかな」ばれている。下手にごまかすのはやめておこう。
「物置みたいな部屋に段ボール箱が積んであったけど、あれは」
「ほとんどが皿、かな」
「一人暮らしで使う量じゃないと思うんだけど」
「店で使っていたやつを捨てられなくてね。それを持ってきたものの仕舞うための食器棚も場所もなくて、見ての通りで放置している状態だね」
「店で使っていた? お店をやっていたの? 飲食店よね」
「俺は料理しかできないからね」
「潰れたの」
「潰れる前にやめた、という感じだね」
「なんで潰れたの」
「いや、潰れたわけじゃない。潰れる前にやめたんだって言ったよね」
「おんなじでしょ。その話、聞かせてよ」
「どこから話せばいいのかな。いかに苦労して店を構えてそれを有名人気店まで育て上げたもののつまらないことで失敗して店を畳むはめになったんだけど。やっぱり最初からかな」
「有名人気店?」
「うん、けっこう繁盛していた」
「それが、つまらないことで閉店した」
「そのとおり」
「年寄りの苦労話は長くなりそうだからいらないわ。潰れるに至った要点だけ話してくれればいいわ」とあたしが言う。年長者はもうちょっと敬った方がいいな、とかぶつぶつとつぶやきながら立ち上がり「ちょっと準備するよ」と言って暮根雅人はキッチンに入っていく。飲み物のおかわりでも持ってくるのかと思ったら、なにやら大きな寸胴を火にかけている。なにをするつもりなのかはわからないけど、料理に関しては異様にフットワークが軽い。面倒くさいとは感じないのだろうか。冷蔵庫からなにかを出したりラップを切ったり寸胴の火加減を見たりこまごまと働いてからソファーに戻ってくる。手にはきっちりアイスティーとアイスコーヒーを持っていた。わざわざ新しいグラスに作ったものをローテーブルに置く。あれだけアイスティーが美味しいなら、アイスコーヒーもかなりのものなのではなかろうかと思い、あたしは自分の前に置かれたものを奥に押し、暮根雅人が自分のために用意したものを手元に寄せてストローを差す。
暮根雅人はそれを見て「お好きな方でどうぞ」と言いながらステレオの方に進む。そういえばミートローフのCDが終わっている。新しいCDをセットするつもりらしい。
「話が聞きづらくなるから音楽はいいわ」とあたしが言うと、暮根雅人は手に持っていたCDをちらりと眺めて、そのまま棚に戻した。
「えーと、それで店の盛衰記を語ればいいんだっけ」と言って暮根雅人が話し始める。
「盛の部分の話は薄め、衰の部分の話を厚めでお願いね」とあたしが言うと「はいはい」と暮根雅人が頷く。
「その頃の俺の店は予約が常に一ヶ月先まで埋まっているくらいには繁盛していた。その日その日の入荷する素材は旬とか出来で判断して適当に仕入れていたので決まったメニューは存在しなかった。まあ、日替わり定食みたいな感じだね。料理の種類に関してもこだわりはなかったので、和食やイタリアンやフレンチなんかをアレンジしたものを出していた。
基本的にコース料理のような形態で食事を提供していたんだけど、スープのかわりに茶碗蒸し出したり、ライスのかわりに握り寿司を出したり、メイン料理もテリーヌやアクアパッツァやコンフィやフリカッセやコキーユなんかをその時の材料と季節と客との兼ね合いで適当に提供していた。
それである日、常連の客が仲間を連れて店にきた。いつも贔屓にしてくれるお客でね。仲間に対して、いかにうちの店の料理が美味しいかを力説してくれる。店がそれほど大きくないのとで、厨房までそれが届くんだな。まあ、それはいつものことなので別に気にしなかった。
ただ、この日に限って料理を出すときの味見を失念していた。そのとき出していたのは鶏のむね肉を添えたサラダで味見の必要もないだろうと思っていたんだな。それでも、気付いたからには確認しないといけない。そしたら、むね肉の下ごしらえを間違えていたことがわかった。普段、砂糖大さじ一杯を肉にすり込んで、そのあとに塩小さじ一杯をもみ込むところを、おそらく逆にしてしまったようで実に塩辛くなっていた。
どういうものか簡単に説明しておくと、むね肉を太目の棒状にまとめて低温で調理するもので仕上がりはハムっぽくなる。簡易鶏ハムだね。薄くスライスしてサラダに乗せたり、細かく切ってグラタンとかピラフの具にしたり、いろいろ重宝するんでいつも欠かすことのないものなんだけど、この鶏ハムの味を確認せずに出してしまったわけだ。
それで客のところに行って謝って、味付けを間違えていたので取り替えさせてもらいたい、と申し出た。
でも、ちょっと思い出してほしい。常連客はこれを連れに対して褒めまくっていたんだよね。そこに料理人が出てきて失敗作出してすみませんでした、とか言いだしたものだから、常連客はメンツをつぶされて怒った。
恥をかかせるのかとか、馬鹿にしているのかとか。挙句に名刺を出して自分はこういうものだと言い出した。名刺には料理評論家とあった。そのときの客が本当に料理評論家なのかどうかはよくわからない。でもSNSとかで発信力のある人間ではあるようだった。インフルエンサーっていうのかな。それで後日、その人が店を貶し始めた。そしたら客がみるみると減っていった。
あとでわかったんだけど、そもそもうちの店に客が付き始めたのはこの料理評論家のおかげだったみたいなんだな。俺の店の開店時から通ってくれていて毎回その時の料理を自分のSNSにあげて誉めてくれていた、らしい」
「らしい?」
「うん、あとから人に聞いたんだ。こういうのが載っているんだけど知ってるか、ってさ」暮根雅人が続ける。
「ま、とにかく、そのおかげで客が付き始めたらしい。俺は自分の作るものに自信があったから、客が付くのは当然だと思っていた。でも、実際は影響力のある人間が店を宣伝してくれていたってことだったんだな。
結局、客が寄ってきたのも客が去っていったのも、この自称料理評論家のせいだったってことだね。
その事実に嫌気がさして潰れる前に店を畳んだ。そのとき調理場を手伝ってくれていた料理人はどこかのホテルの調理場に就職したっていう話は聞いた。ホールをやってくれていた二人にはちょっと多めに退職金を渡した。それで解散しておしまい」
「つまり、あなたは自分の間違いを認めて、それを客に伝えたら逆切れされて悪評を流されてお店が潰れたってことね」とあたしが言う。
「なにか曲解されている気がするね。俺は詫びたわけじゃないよ。こんな明確な味の違いもわからないんですか、って当てこすりをしたんだよ。それもその料理評論家の取り巻きの前でさ。うん、怒って当然じゃないかな」と暮根雅人がさばさばと説明する。店を潰したことに関しての未練みたいなものを感じていないのだろうか。
「なんだかお店が潰れてせいせいした、っていう風に聞こえるけど」
「そういうつもりはないけど……」と暮根雅人が言葉を濁す。そして少し考えこんでから先を続けた。
「でも、そうだね。繁盛はしていたんだけど、釈然としないものを抱えて料理していたかな。客の顔がさ、心の底から料理を楽しんでいるって感じじゃなかったんだよね。そこにもってきて、その評論家の話を聞いて確信した。みんな、ネットで評判の店で予約して待たされて高い金額を払ったんだから美味しいに決まっている、っていう顔だったんだよ」それに、と暮根雅人が付け加える。「もう勿体ぶってごてごてとした料理を作るのもいやになった。シンプルなのがいい。さっきの料理みたいなさ」
「うん、あなたの料理はおいしいわよ」すごく? とてつもなく? なにか形容詞を付けてあげたかったけど、ぴったりの言葉が出てこなかった。
「君の食べっぷりはいいね。顔を見ていて飽きなかったよ。久々に料理していて楽しかったな」
「やっていたお店の名前はなんていうの」
「ポルファボール」
「なんて意味」
「意味? 意味か。響きで付けただけの名前なんだよね。たしかスペイン語で、くださいとか、お願いとか、そんな意味だったかな。フランス語にシルブプレっていう実に便利な言葉があるんだけど、それのスペイン語版なんじゃないかな、と思っている」
そのとき、ピピピと機械音が鳴る。それを聞いて暮根雅人がキッチンに向かう。寸胴からなにかを取り出す。暮根雅人がまな板を用意して包丁を取り出すのが見える。流しで軽く洗い物を終えて手を拭いて皿を持って戻ってくる。
「これが今話していた鶏ハムだね」と言って皿と箸を置く。薄くスライスされた丸いシェイプ。なるほど、ハムっぽく見える。
「こっちが本来のもので」と右側の肉片を差し「こっちのものは塩と砂糖の加減を逆にしたもの」と左側の肉片を指で示して言う。「先に食べるのはこっちね」と言われて本来の味付けのものを食べる。しっとりして柔らかい。これほんとに鶏のむね肉なの。さっきの赤身肉のステーキといい、なんだかあたしの常識がぐらぐらと揺らぐ。次に味加減を間違えたものを食す。歯ごたえや質感は変わらないわね。ただ、そうね、ちょっとしょっぱい。いや、ちょっとじゃない、かなりしょっぱい。でもサラダと合わせるなら、むしろこのくらいの塩加減はありだろう。
「どうかな」両方をあたしが口に入れるのを待って、暮根雅人が尋ねる。
「確かに塩辛いわね。でも、悪くない。なんにせよ火加減がいいわね。使い方次第ではまったく問題ないんじゃない。サンドイッチにして野菜と合わせてマヨネーズの油で塩気をごまかせば、すごい美味しくなるんじゃないかな」
「実際、塩味の感じ方は体調によって変わるしね。疲れていたら身体が塩分を求めるし、身体に塩分が足りてきたら少々の塩でもきつく感じる。うん、しかし、やっぱり君は面白いね」
「君って呼ぶの、やめてくれない。自分のことのような気がしない」
「ふむ、そしたら、お嬢ちゃん?」
お嬢ちゃん! あたしは小学生の女児か。
「いや、名前で呼んでよ。明日香と」
「名前って言っても、それ偽名じゃないか」
「明日香、で」偽名だという抗議には取り合わない。毅然とした態度で押し通す。
「善処するよ」と暮根雅人が約束を守らない政治家みたいな返答をする。
名前を呼びつけてやろうと口を開きかけて、ふと戸惑う。暮根雅人……さん? 様? 殿? いやいやいや、そうね……君? ああ、これがいいわね。
「暮根雅人君」と呼びつける。なにかを言いかける暮根雅人が一転、口を固く結ぶ。一呼吸置いて、改めて口を開いて「まあ、君の好きなように呼んでくれていいよ」と言う。
「君って呼ぶな」
「ああ、そうか、悪い。えーと、竜宮院明日香さん」と暮根雅人がおざなりに謝り、続けて「それで、いい加減になにをしようとしているのかを教えてもらえないかな。意味なく付きまとっているわけじゃないだろう」弱みを握って付け込むか、あるいはなにかを盾に脅して要求を突きつけようかと思っていたのだけど、今に至ってもなんの材料も見つけられていないし、良策もなにも考えつかない。しかたない。ここは正直にいこう。
「そうね。わかったわ」と答えて鞄を取って背負い「ちょっと出かけましょう」と暮根雅人に言う。




