公園、老人、二十種類以上のフルーツフレーバー
裾を掴んでどうしたものかと思案する。このまま帰らせるわけにはいかない。さりとて、なにを話して間を繋いだものか。掴んだ裾をじっと見る。やはり生地が裏表である。アロハシャツのボタンを留めればその過ちに気付けるものを、だらしなく着こなしているから恥をさらす羽目になる。本来なら内側に隠れているはずの品質表示のタグを探す。裏表になっているので、タグは外に出ているはずだ。アロハの裾を引いたり押したりして探していると、暮根雅人がぶつぶつと文句を言いながら歩き始めた。歩くな、という気持ちを込めて裾を引くと暮根雅人は止まった。裾を緩めると歩き始めた。馬の手綱の要領で動かすと、おおむね思った通りに動いた。そのまま駅の方を目指して歩かせる。途中の交差点で歩行者用の信号が赤なので裾を引く。
「引っ張らなくても赤信号は見えているよ」と暮根雅人が文句を言う。交差点を超えて少し進むと公園に出る。朝に寄った公園だ。酔いつぶれた若い男はいなくなっているがハーモニカの老人はいまだに家路を吹いている。同じ曲をずっと吹いていたのか、たまたまのめぐり合わせなのか、いやそれよりもまさか朝からずっとここに居るのだろうか?
他のベンチには外回りの営業と思われる男が座って資料を出して次の営業先に備えている。その隣では年齢不詳かつ職業不明の紺のワンピースを着た女性が座っている。ワンピースと言ってはみたものの、やたらと露出の多いそれは下着のようにしか見えない。女性はその姿を恥じらう様子もなく、携帯電話に指を走らせている。縦に横にとすばやく動かす指の動きは携帯電話に対して何度も何度も十字を切っているように見える。その人たちを避けて、空いているベンチまで誘導する。
「ここに座りましょう」とあたしは言う。なにかいろいろと達観したらしく、暮根雅人はおとなしく座った。「なにか奢るわよ、あそこの自販機のものでよければ」
「いや、いいよ、別に」と暮根雅人は素っ気なく言って、ハーモニカの老人に目をやって耳を澄ます風を装う。老人の吹く寂しげなハーモニカの音が聞こえる。足元にハトたちがやって来て地面をついばむ。小さな子供が両腕を広げてハトの群れに駆け寄る。少しだけ羽ばたいて驚きを表現するも、ハトは捕まらないと高を括っているのか歩いて子供を避ける。あたしの沈黙を察した暮根雅人がこちらを見る。
「ああ、そうだね、そしたら水をお願いできるかな」と不機嫌を感じ取った暮根雅人が言う。
あたしは公園の向こう側に見える自販機に向かう。ハーモニカの老人の座るベンチの横を通り過ぎる。脇にはステッキが置かれていて、その柄は鳥の形をしている。老人はブラウン系の上着とベストにスラックスという格好に、ベストのポケットからは懐中時計の鎖が覗く。この時期としてはいささか暑そうな身なりである。でも、自分の恰好も大差ない。うん、暑い。暑いよ。律儀に上着とベストを着る時期じゃないよ。
自販機の前に立ってコインケースを鞄の中から探す。そのときにふとひらめく。トイレに行っておこう、と。天啓というものがあるとしたら、こういう感じなのだろうか。
近代建築風の大きな建物が目に入ったので、その中でトイレを探す。ここならきっとトイレも綺麗だろう。建物内部に入ると、そのがらんとした様子に少し気後れする。でも、関係者以外立ち入り禁止という表示は見当たらない。警備員に注意されたら、そのときに出て行けばいいだろう。案内板を見つけてトイレの位置を確認する。おかげで迷わずトイレに着く。清潔なトイレで用を済ませて、手を洗う。目の前に大きな鏡があり、そこに映る自分が見える。ああ、髪を括ったままだったわ。頭のゴムに指をかけて外す。改めて自分の顔を見る。くちびるの右下に赤い点を発見する。ニキビだろうかと思い、恐る恐る触れてみると点が消えた。さっきのパスタが顔に跳ねていたのか。制服に飛び散ってないかを確認するも、幸いに服にはかかっていなかった。しかし、跳ねた食べ物を顔にくっつけたままあたしは公衆の面前を闊歩していたのか。羞恥で顔が紅潮する。教えなさいよ、暮根雅人。気が利かないなあ。
なおも食べ物の痕跡を顔に探して鏡とにらみ合う。あごを見て、口回りから鼻や頬をチェックして、おでこから眉間を経て目に至る。三白眼のその目があたしを睨む。他の顔のパーツに不満はない。あごは小さい方で口はまっすぐに閉じられていて曲がったり歪んだりはしていない。頬のラインも丸すぎず角張りすぎず。鼻は、そうね、高いとは言わないけど低いというほどでもない。鼻筋は通っている方だと思う。耳の主張も穏やかで、眉毛はちょっと濃いけど太すぎるというわけではない。問題は目よね。三白眼。よく、怖いと言われた。薄情そうとも言われる。鏡の中の両目を覗き込もうと顔を寄せると虹彩が収縮して酷薄さが増した。ひとつ息を深く吐いてトイレを後にする。
建物を出て自販機に向かい、自分用に冷たい緑茶のペットボトルを選び、暮根雅人用には飲んだことのない炭酸飲料を選ぶ。水を飲みたいなら、その辺の蛇口から飲めばいい。わざわざ買うものじゃないでしょう。ふと思いついて、やはり水のペットボトルも購入する。
ベンチに戻る道すがら、ハーモニカの老人の横に立って腕を軽くつつく。老人が驚いた様子を見せつつ、こちらを振り返る。その表情は穏やかで、まさに好々爺といった感じだ。
「もっと、勢いのある曲を吹いてくれませんか」と言ってみる。老人はにっこり笑って頷いて違う曲を吹き始める。なんだか血沸き肉躍るという感じの迫力のある曲だ。ありがとう、と言って礼がわりに水のペットボトルを老人の傍らに置いて自分のベンチに戻る。
暮根雅人に炭酸飲料を渡すと「ずいぶんと遅かったね」と言われる。
「トイレに寄っていたのよ」しまった。それを言いたくなかったからこっそりとトイレを済ませたというのに。自分からしゃべってしまってどうする。
「あのおじいさんは友達なのかな」いや、友達ってわけではないけど。
「寂しい曲を吹くのをやめて、とお願いしただけよ」と答えて「この曲、知っているの」と訊いてみる。
「ワグナーだね。ニーベルングの指輪。第一日。ワルキューレの騎行」
ワグナーというのが作曲家の名前であることはわかる。クラシックの作曲家よね。うん、そのくらいはわかるわ。ニーベルングの指輪というのが曲名なのかワルキューレのキコウというのが曲名なのか。そもそもキコウとはなんなのか。あたしが困惑の果てに半眼半口になっていると暮根雅人が先を続ける。
「ニーベルングの指輪っていうのは、歌劇の名前だね。序夜、第一日、第二日、第三日とあって全部で十五時間くらいの演奏時間になる。この曲は第一日の第三幕、ワルキューレの騎行という曲だよ。『地獄の黙示録』という映画に使われていてかなり有名な曲だね」と言って暮根雅人は不審そうに炭酸飲料を手の中で転がす。
「クラシックに詳しいのね」
「水をお願いしたと思うんだけど」と暮根雅人はあたしの質問を無視して言う。
「ところで、ずっと気になっていたんだけど、アロハシャツが裏返しになっているわよ」お返しに、こちらも質問を黙殺する。
「よく言われるんだけど、これはこういうアロハなんだよ」と言いながら、洗濯の注意事項やサイズが書かれたタグを内側から出して示す。あたしはそれを凝視する。裏地を表に出すアロハシャツ。そんなものがあるのね。
「それで、アロハシャツの裏表を指摘するのが、君の用事だとしたら、ここらでお暇してもいいかな」
「それが本題ではないわ」とあたしが言うと、暮根雅人は話を促すような仕草をして耳を向けてくる。
「さっきの居酒屋のおじさん」
「永島さんね」
「そう、その永島さんだけど、ご家族となにかあったの」
「あんまり人のプライバシーを他人に語るのは好きじゃないけど、まあ、君もさっき、みーちゃん、と呼ばれて気になるのもわかる」と暮根雅人が言う。「でも、もったいつけておいてこう言うのもなんだけど、そんなに詳しいことは知らない」
暮根雅人は炭酸飲料の蓋を開けようしたが容器のラベルに目をやって少し考えて開けずにそのままベンチの上に置いた。置かれたそれをちらりと見る。容器の大部分をエンジ色が占め、商品名の横のキャッチコピーには、二十種類以上のフルーツフレーバーのブレンドとある。たくさん混ぜればおいしくなるだろうという発想なのだろうか。
「今の永島さんは酔うと足腰の立たないただのへべれけなんだけど、昔はそうじゃなかった。飲むほどに元気になった。元気になるって言っているのは、大声を出したり、暴れたり、そういうタイプの元気だな。よく子供に手をあげたらしい」
「虐待」あたしは断罪するようにつぶやく。
「まあ、そうだね。奥さんが危険を感じて娘さんを連れて家出したということだから」
「あなたはその頃から永島さんと知り合いなの」
「俺が永島さんと知り合ったのはこの二、三年だよ。奥さんが出て行ったのがいつ頃のことなのかはわからない。ねえ、なにが訊きたいのかな」
「あなたはどっちの味方なの」
「どっち? どっちの味方?」暮根雅人が目をぱちぱちとまたたく。言っている意味がわからない、というアピールだろう。そのぱちぱちさせている目を見て思う。こいつも三白眼ね。
「ずいぶんと永島さんに同情的だなと思って。虐待されていた娘さん……娘さんの名前はなんていうの?」
「お子さんの名前は美穂ちゃんだと言っていたよ」
「そう、美穂ちゃんはかわいそうだと思わないの」
「君、虐待されているの?」
「あたしは虐待なんかされていません」
「ふむ」と暮根雅人は言うと、右手をあごにつけてしばらく沈黙した。ベンチの向こうでは老人の吹くハーモニカの旋律が変化する。これもまだワルキューレの騎行とかいう曲なのだろうか。もしかして、あの老人はニーベルングの指輪という歌劇を全部通しで吹くつもりなのだろうか。十五時間と暮根雅人は言っていた。
「永島さんの行った暴力はいただけない」と暮根雅人が話し始める。「暴行の程度は見ていないのでなんとも言えないけど、娘さんを連れて奥さんが逃げ出しているくらいだから、命の危険を感じるレベルだったんだと思う。一緒に居続ければどうなったかわからないから、逃げ出したのは奥さんの英断だね。最悪の事態を免れることはできたのだと思う。でも、今の永島さんには暴力を振るう気力はない。赦してやってほしいとまでは言わないけど、いまの萎れた永島さんを見ているとちょっとかわいそうかなと思う」
「虐待者の肩を持つのね」
「そういうつもりじゃないよ。ただ俺は今現在の永島さんしか知らない、と言っているんだよ。話している限りでは救いようのないろくでなしとは思えない。それに今の永島さんはそりゃおとなしいもんだよ。暴力だけが離別の理由なら、いまなら考え直してもらってもいいんじゃないかなと思う」
「虐待が赦されるわけがないでしょ」
「それを赦すのは君ではないし俺でもない」
今度はあたしが沈黙する。確かにあたしのそれは義憤だ。仮に永島さんがあたしに謝ったとしても、それは全然筋が違う。謝られたとしても赦す権限をあたしは持ちえない。だからこそ、あたしのこの義憤という名の怒りの炎は消えない。でも、そうね。永島さんの罪をあげつらうことがあたしの望みではない。あたしの望みはアロアを救うこと。そのために大人の協力が必要で、その役目を暮根雅人に担ってもらうこと。目的をはき違えるな、あたし。
「あなた、虐待をどう思う」
「胸糞悪いと思うね」
「たとえば、隣の住人が子供を虐待していると感じたらどうする」
「悲鳴が聞こえる、ってことかな? 虐待による悲鳴か、ただの夜泣きかを見分けるのは難しそうだけど、確信が持てれば警察に通報する」
「虐待を確信できれば子供を救う、と」
「うん、まあ、そうだね」
「ところで、これはまだニーベルングの指輪の楽曲なの」とハーモニカの音を指して言う。
「ニーベルングの指輪ではないね」よかった。十五時間ハーモニカを吹き続けるつもりではないということね。
「これはベルリオーズの幻想交響曲。断頭台への行進って曲だね」断頭台への行進。アロアの親を引きずって断頭台の前に突き出して木の枷の中に首と手首を突っ込んで巨大な刃を支えている縄を切り落とすところを想像する。虐待親なんか、みんな首を刎ねてしまえばいいのよ。
「あたし、そろそろ帰るわ」と言うと、暮根雅人が大きく息を吐く。厄介ごとから解放されたと言わんばかりの、その仕草に苛立ちを覚える。でも、残念でした。あたしは明日もあさってもあなたに付きまとう。
「この時間なら、駅の出入り口で絡まれることはないと思うけど、できたらあの入口は使わずに、地下道から駅に向かった方がいいよ」改札まで送ってくれるつもりはなさそうだ。
「あと、これを上げよう」と言って二つ折りになった紙の切れ端を渡される。これ、あたしのノートの紙じゃない。さっき永島さんに手紙を書くために貸してあげたやつだ。折り目を開いて目を走らせる。
「ドレッシングのレシピじゃない! もらっていいの」
「ずいぶん気に入っていたみたいだったからね。材料の分量も明記している。きちんと量ってミキサーにかけるだけだから、簡単に作れるよ。ああ、卵も足してみるといい。ほんの少しで十分だと思う。間違っても全卵一個入れたりしないように」
あたしは感謝の気持ちを込めて、暮根雅人の背中をばんばんと叩く。いいやつじゃないか、暮根雅人。ありがとう、暮根雅人。感謝の限りを尽くしていたら「そういうのはいいから、早く帰りなよ」と冷たくあしらわれた。うん、前言撤回。髪の毛を抜きまくってはげ散らかしてやろうかしら。
あたしはベンチに置いた鞄を引っ張りあげて公園に背を向けて地下通路に至る階段を探す。公園の出口の角にそれを見つけて帰路に就く。途中、ふと振り返ると、暮根雅人は律儀にあたしを目で追っていた。こちらが手を振ると、あちらも振り返してきた。遠くでハーモニカの老人も手を振ってくれていた。




