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ウンポコ・ポルファボールの再興 【 完結済 】   作者: 内田 食(うちだ はむ)
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居酒屋、永島さん、ケチャップライス

 暮根雅人がふと足を止める。振り返って、やっぱり帰れと言い出すのではないかと身構えていると、とある居酒屋の前でしゃがみ込み、閉まったシャッターの一番下に手をかけて引き上げる。さっきのイタリアンレストランから道路を挟んで三軒先。たったの三軒先である。歩数にして三十歩。こんな近場からレシピを盗む神経もわからないが、ドレッシングのレシピを居酒屋が所望する意味もわからない。

 暮根雅人はシャッターを半開きにして中に入る。シャッターの先に格子の引き戸があって、それを躊躇なく開ける。

「永島さん。いますか」と暮根雅人が中に声をかける。奥の方から人の声が聞こえたような気がする。暮根雅人が中に入って行ったので、あたしもシャッターを潜って後を着いていく。薄暗い店内に入ると入口の脇に仕舞い込まれた看板がある。身をよじってそれを避けて進む。カウンターや柱に染みついた日本酒の臭気が鼻に付く。左側にカウンターがあって伏せたグラスが並び、皿が積まれ、調味料の類いが散見される。反対側には四人掛けのテーブル席が四卓。椅子は木製。床はコンクリートの打ちっぱなし。壁は棚になっていて酒瓶が並べられている。ほとんどが一升瓶に見える。日本酒のラベルを目で追っていると、隅の方に洋酒が一本だけ置かれている。飾った書体で書かれたラベルは、あたしには読み取れない。

 ふと上に目を向けると、棚の上部に鈍く光るものがある。包丁、だよね? 包丁にしては、やたらと長いそれは、あたかも日本刀のように飾られているが、鞘がないためか刃は上向きである。刃渡りはあたしの腕くらいありそうだ。居酒屋で使うような包丁には見えないし、そもそもあんな高いところにあっては、使用するのにあたって面倒ではないのか。

 カウンターに並ぶ椅子とテーブル席の間をさらに奥に進む。奥は座敷になっていた。十二人、いや詰めれば十八人くらいは座れそうな座敷である。そこに白髪短髪の男性が座っている。座っているというか、崩れ落ちかけるのを傍らに置いた一升瓶に寄りかかるようにしてかろうじて体勢を保っている。一升瓶には〆張鶴と書いてある。卓上に大きな萩焼の湯呑み。つまみの類いは見当たらない。

 暮根雅人が老人の対面になるように座る。あたしはその横にちょこんと座る。ちょっと近いな、と思って座りなおして距離を取るために間に鞄を置く。この鞄は、見た目は片手持ちの革鞄だけどリュックのように背負うこともできる。あたしのお気に入りだ。

 座敷は掘りごたつのようになっていて、足を卓の下に伸ばして座れる。正座しなくて済むのは助かる。

「できましたよ。完成です。ドレッシング、持ってきましたよ」暮根雅人が言葉を切りながら言う。聞き取りやすいようにという配慮だろう。

「あ~、暮根さん。こりゃどうも」見た目とは裏腹にしっかりした口調で話すのね。でも、姿勢は正さない。白衣も乱れてだらしがない。白衣と言うべきなのか割烹着と言うべきなのか知らないが、板前の恰好である。

「味を確認していただきたいんですけど。でも、そのまま舐めてもらうっていうのもなんだな。ちょっと厨房お借りしていいですかね」

「はいはい、いいですよ。どうぞどうぞ」と気さくな口調で話しているが身体は壁と一升瓶にぐったりともたれているので、なんだか人の手を離れた腹話術の人形のようで少し不気味だ。暮根雅人が厨房に行き、あたしは老人と二人きりにされてしまった。

「みーちゃん」と老人が言う。

「帰ってきてくれたんだね」誰に向かって言っているのだろう。あたしは辺りに視線を巡らす。もしかして、見えてはいけないものが見えているのだとしたら、ちょっと怖い。

「そうか、暮根さんが探して連れてきてくださったのか。ありがたいねえ。ありがたい、ありがたい。ありがたいなら芋虫ゃクジラっと」ん、それは、あたしか。あたしのことをみーちゃんだと言っているのか。やはりかなり酔っているのね。声がしっかりしているからって、この姿勢でへべれけじゃないわけがない。

「みーちゃん、元気だったかい。すまなかったねえ。お父ちゃん、ちゃんと働いているよ。また一緒に暮らそうな」困ったわね。あたしはみーちゃんじゃないとはっきり言うべきなのかな。改めて老人を見る。白髪で老人と断定してしまっていたが、肌の張りとか艶とかを見ていると想像しているより若いのかもしれない。それによく見ると垂れた目と通った鼻筋が昔の外国の映画に出てくる俳優を思わせる。それにしても、いつまでもみーちゃんに対する謝罪がやまない。早く戻ってこい、暮根雅人。

「すみませんね、永島さん。この子は娘さんじゃないんですよ」祈りが通じて暮根雅人が戻ってきた。手には盆を抱えていて、中には小鉢やら平たい皿やらが乗せられている。持ってきた皿や瓶を卓上に並べつつ言う。「こっちがクアンド・レ・ラディチのドレッシング。横のものは僕がコピーしたドレッシング」また、僕か。でも、ルールは見えた。面識のない人や目上の人に対して謙遜して自分を僕と呼んでいるのだろう。逆に言うと、あたしは見くびられているので暮根雅人は自分を俺呼ばわりするわけだ。なるほど。

「冷蔵庫の野菜を適当にもらってサラダにしましたので、そちらにかけてみてください」皿の数を見るに、あたしも食べていいらしい。

「それと、マグロの赤身の柵があったので刺身にしました。永島さん、なにか食べないといけませんよ」なんだか親切ね。仕事だけの付き合いじゃないのかな。箸や醤油やドレッシングやらを暮根雅人が並べ終わると、永島と呼ばれる老人の指先に力がこもるのが見えた。わずかに手先が持ち上がって言う。

「あれ、取ってもらえませんかね」暮根雅人は察しがついたらしく壁の棚に目をやる。あたしは気の抜けた腹話術人形が動いたことに衝撃を受けた。

「銘柄の指定はありますか」と訊くと、老人は首を振った。どれでもいい、という意味だろう。ちょっと上げた手も少し振った首もいかにも重そうである。暮根雅人が浦霞と書かれた一升瓶を取って卓に置く。

「この間、耳から血が出て医者に酒を止められているんじゃありませんでしたっけ」と暮根雅人が言う。

「冷たいこと言うなよ~」と老人が甘えたような声を出す。

「反対側の耳からも血が出たらおしまいだって言われたんでしょう」と言いながら一升瓶の酒を湯呑みに注いでいる。それを見るなり老人が手を伸ばす。お酒か。お酒ね。お酒が原動力でありエネルギーであり活力の源ってことか。

「やっぱり暮根さんは親切だねえ」と言って永島さんは湯呑みに口を近づけて慎重に傾ける。

「お酒を飲まさない方が本当の意味での親切です」と暮根雅人が言う。たしかにそうかもしれない。並べた皿をあれこれと指さして老人に説明して箸を渡して食べるように促しているが、老人は酒以外には興味がなさそうで、うんうんと頷くばかりである。今回のサラダはレタスにトマトにキュウリにタマネギにヤングコーンにハムである。居酒屋にヤングコーンという素材が用意されていることに感心する。ヤングコーンを使う居酒屋のメニューってなんだろう。しかし、ドレッシングの味見用にしてはこだわりすぎの盛り付けね。花を模したハムの造形にトマトの赤にキュウリの緑にタマネギの白にヤングコーンの薄い黄色。箸で二三回もつつけばたちどころに崩れてしまうものに手間をかけ過ぎではないだろうか。お試し味見の域を踏み越えた盛り付けのサラダを手元に寄せる。さて、どちらのドレッシングをかけるか。本物のドレッシングの容器はずんぐりしたプラスチック製でピラニアのような魚がデザインされたラベルが貼ってある。きちんとした商品って感じだ。対して偽物はさっきも店で見たけどただのペットボトルである。サラダの盛り付けに比べてドレッシングの容器選びはぞんざいなのね。

「ペットボトルは持ち運びに便利だからね」暮根雅人があたしの考えを察したかのようなことを言う。

「ペットボトルが悪いだなんて言ってない」というか、そもそもなんの文句も言ってない。

「うん、どっちかと言うと、飾りすぎたサラダの文句を言いたいんだよね」

「言ってないし、そんなこと思ってない」

「ちょっと貸して」と暮根雅人があたしのサラダの器を取って、その中身を崩しにかかる。ハムの花は散り、薄切りのトマトは砕け、行儀よく並んでいたキュウリはばらばらだ。そこに無造作にドレッシングをかける。

「なにするのよ」

「料理の見た目とかどうでもいいとか思っているでしょう。これ見てどう思う」

「残飯の上に吐いたゲロみたいって思うわ」

「どうぞ召し上がれ」悪びれずに暮根雅人が言う。見た目は悪くとも味が変わるはずがないじゃない。味は一緒だ、と思う。でも、なんだろう、これは。

「残念な味がする」

「舌だけで味わっているわけじゃないんだよ。五感で食す」

 暮根雅人への返事を避けて顔を背けると老人が眠りこけているのが目に入った。寝息でわずかに身体が上下する。なんか静かだと思ったわ。

「とりあえず、そっとしておいてあげよう。サラダは食べてしまってドレッシングは冷蔵庫に仕舞う。永島さんにはメモを残しておこう」と言って暮根雅人があたしに手を伸ばす。

「この手は、なんなのかしら」

「紙を一枚もらえないかな。ノートの切れ端でいいんだけど。あとペンも貸して」ずうずうしいわね。いや、ずうずうしいのはあたしの方なのかな。お昼を奢ってもらって、仕事先に無理やりついてきて。うむ、まあ、お互い様ということにしておこう。鞄を開けて筆箱を出す。蓋を開けて中身を差し出す。次に適当にノートを選んで掴む。それを引き出すときにハンカチが引っかかって一緒に出てくる。包まれていたオレンジの花が卓上に転がり出る。

「ザクロの花だね」それを見て暮根雅人が言う。ザクロだったのか。昨日、見つけて拾った経緯を適当に話す。「うん、たしかに面白い形をしているよね」と言いながら暮根雅人が席を外す。トイレに行くのにも報告する男がなにも言わずにどこかに行くとは。あたしは取り出したノートの一番後ろのページを一枚破って、筆箱の下に敷く。厨房からフライパンで炒める音と匂いが漂って来る。ああ、なるほど。戻ってきた暮根雅人が綺麗に盛り付けられた手つかずのサラダの皿に炒めたてのタコさんウインナーを飾り付ける。サラダの水気に油が爆ぜる。香りが食欲をそそる。焼き立ての熱いウインナーと冷たいハムのコントラストもいい。たしかにね。五感で食す、か。

 ウインナー乗せサラダをあたしが胃袋に片付けている間に、暮根雅人が老人宛てになにかしらを書きつける。食べ終わったあたしは卓の上の空き皿を手早くまとめて厨房に持っていく。洗い物をシンクに沈めてドレッシングを冷蔵庫に仕舞う。皿を洗う。布巾を見つけて洗い物を拭く。ついでに席に戻って、卓上を拭く。暮根雅人がありがとうと言って、書いている紙をどかして、拭くための場所を空ける。いえいえ、こちらこそどうもごちそうさまです、と答えながら卓を拭き上げて厨房に戻って布巾をすすいで、乾きやすく配慮してシンクの縁に広げてかける。暮根雅人が手紙を永島さんの前に置く。重しとして紙の角に一升瓶を乗せる。

「あ、今日は開いているじゃん」

 入口の方から声が聞こえた。子供の声だ。

「おっちゃん、いるー?」と言いながら、二人の子供が入ってくる。小学生だろうか。小学生の高学年と思われる男の子が二人。赤いタンクトップにカーキのハーフパンツと白いシャツにデニムのボトムス。

「永島さんは寝ているよ」と暮根雅人が答える。

「おじさん、誰?」ボトムスの子供が尋ねる。

「永島さんの友達、かな」暮根雅人が答える。

「ああ、ほんとだ、おっちゃん寝てるよー」ハーフパンツの子供が座敷まできて、永島さんを発見して言う。

「今日こそごはんにあるつけると思ったのになあ」とハーフパンツが言う。

「君たち、いつもここでごはんもらっているの」

「うん、シャッターが開いているときは入っていいって、おっちゃんに言われた。起きているときはチャーハンとか作ってくれるんだ」

「へえ、永島さん、そんなことしていたのか。それじゃ、永島さんのかわりに俺がなんか作ってやろうか」

「おじさんも料理できるの?」

「ちょっとだけね」

「そういや、なんかいい匂いがするもんね」さっきのウインナーを炒めた匂いを嗅ぎ当ててボトムスが言う。

 暮根雅人は厨房に消えて、あたしと小学生二人と酔って寝た老人一人が残される。小学生の二人は永島さんの側に座ってふざけあう。あんまり暴れると永島さんが起きてしまうんじゃないかとはらはらするが、酔っ払いは簡単に目覚めたりはしなかった。

「はい、おまちどうさま」と言って暮根雅人が持ってきたのは、チキンライス、というかケチャップライスだった。さっき炒めていたウインナーの残り香に乗ってケチャップを焦がす香りも漂っていたし、うん、なんとなく想像はついていた。子供の喜びそうなものでお腹にたまりそうなもの。

 子供二人の前に皿を並べる。その横に小さなカップを置き、その中にコンソメスープが注がれていた。さらには、サラダも付いていて、ドレッシングは本物の方を置いた。スプーンとフォークを添えて、暮根雅人が「さあ、どうぞ」と言うと、子供たちは勢いよくケチャップライスをかきこんだ。子供はケチャップが好きよね、と思いながら眺めていると「ああ、君も欲しかったのかな」と暮根雅人が言って、厨房からもう一杯のケチャップライスを持ってきた。

「永島さんが起きたとき用にと思って取っておくつもりだったけど、ほら、召し上がれ」と暮根雅人が言う。しかたない。出されたからには食べないわけにはいかないわね。一匙を口に運ぶ。ケチャップとタマネギがしっかり炒められているらしく、酸味が飛んで甘みが出ている。それに対してピーマンは歯ごたえを残した火加減で色味と苦みがいい。ウインナーは存在感のある切り口でケチャップライスを華やかにしている。

「しかし、君よく食べるねえ」と暮根雅人が言う。小学生のことかと思ったら、視線はこちらに向いていた。

「さっきのパスタも結構、量があったと思うんだけど。それにひたすらサラダ食べていたよね」人がなにをどれだけ食べようと関係ないでしょう。

「ほら、野菜も食べて」と暮根雅人が子供たちに向き直って言う。

「えー、野菜はいいよー」「パス」と小学生が答える。

「それ、食べないならあたしがもらう」と言って、サラダに手を伸ばす。「ほらほら、意地汚いお姉ちゃんに取られちゃうぞ」と暮根雅人が茶化して囃し立てた。取られる、という言葉に反応したのか小学生は慌ててサラダを掴み上げた。子供たちは掴んだ手前、しかたなくサラダをフォークで口に運んだ。

「なにこれ! 野菜ってこんなにおいしいの?」「すげー、うめー! このドレッシング欲しいー」と大騒ぎしてサラダを平らげてしまった。

「持って帰るといいよ」と言って、暮根雅人は本物のドレッシングをハーフパンツに、偽物のドレッシングをボトムスに渡した。ああ、そんな子供にあげるなら、あたしにくれてもよかったんじゃないの。だいたい、これ納品に来たって言ってなかったっけ。

「まあ、永島さんも酔って寝ちゃっているしさ。あとでまた買えばいいから」と暮根雅人が鷹揚なことを言う。

食べ終わった子供たちはドレッシングを握ってにこにこと帰っていく。あたしは子供たちの後ろ姿を恨めしく見送る。ドレッシング。うらやましい。

 新たに生じた皿をシンクに入れて手早く洗い、椅子と看板を避けて店外に出る。避けたときに看板に書いてある文字が目に入る。「居酒屋 とも」とある。薄暗い店内から出て強い日差しを浴びると視界が真っ白になる。暮根雅人が引き戸を閉めて、シャッターを下ろす。

「それじゃ、俺はこれで」と言って帰りかけるアロハの裾を掴む。


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