クアンド・レ・ラディチ、アーシュラ・K・ルグィン、赤い海のパスタと白い海のパスタ
目的を果たしたのでデパートに行く必要はすでにない。ないのだけれど、自然と開店時間にデパートの前に来てしまった。開店待ちの有閑マダムたちもいる。彼女たちの今日のお目当てを確認したい気持ちもあるが、踵を返して階段を上がり地表に出る。
快晴。そして無風。今日は暑くなりそうだ。大通りを避けて裏道を行くと、公園に出る。公園とは言うものの緑を装うのは街路樹くらいで、地面には透水性のあるブロックが敷き詰められていて草も花も生える余地はない。噴水があってステージらしきものもあるので公園というよりは広場なのかもしれない。噴水を囲むようにベンチが置いてあって、一つには若い男が座って寝ている。近くに散乱している空き缶から類推するに、酔っ払いである。もう一つには小綺麗な恰好をした老人が座ってハーモニカを吹いている。寂しい曲だ。家路という曲名だったかな。でも、朝の公園で吹く曲としてはどうなのだろう。
他の空いているベンチの中から木陰を選んで腰を下ろす。鞄から携帯電話を取り出す。出した携帯電話をこねくり回す。暮根雅人。電話番号はわかった。でも、なにをどう話したものか。下手な出方をすれば着信拒否の設定をされるかもしれない。せっかく掴んだこの縁を断たれるわけにはいかない。病院の裏手で会った偶然をもっと生かせればよかったのだけど、とっさのことで頭が回らなかったな。電話番号がわかっていれば電話はかけられる、と短絡的に事を考えていた昨日のあたしを恨むわ。やはりもう一回、会う必要がある。会って話す。昨日までは姿かたちもわからずに探していたけど、今ではどういう容姿なのかがわかっている。身長はあたしより頭一つくらい高く、太っても痩せてもいない。髪の毛はさっぱりカットしていた。顔は、なんというか、初めて見た顔なのだけれども馴染みがあった。シンプルな線で大胆に描かれた赤い花柄のアロハシャツと裾の擦り切れたジーンズに紐の結びの厳重なスニーカー。服装は毎日同じではないかもだけど、傾向はきっと守られる。こんなにわかっている。なんてすごい進歩。さて、そしたらデパートに戻ろうかしら。デパートの中で暮根雅人を探そう。いや、その前にSNSをチェックしておこう。うん、今日も書き込みはなし、と。
携帯電話を鞄に仕舞って、ベンチを立つ。駅に向かって戻ろうと一歩を踏み出したところで思い返す。昨日、病院の裏手で会った偶然を。暮根雅人はなぜあの道を歩いていたのか。寂しい裏道を歩く理由。どこかに行くというのではなく自分の住居に戻るところだったんじゃないのかな。あのときのあたしは今にして思うと進む方向を間違えていて駅と反対に進んでいた。つまり、暮根雅人は駅の方から歩いてきたということになる。となると、あの路地の近辺が彼の住む場所なのではなかろうか。ならば暮根雅人はどこかに出かける際に、あの道を通る可能性が高いと言えるのではないか。アロアの病室の窓の向きはどっちだったっけ? 裏庭に向いていなかったかな。あたしは踵を返して病院に向かって歩き出した。
今日のおみやげはシベリアである。カステラで羊羹をサンドしたこれを、なぜシベリアと呼ぶのだろう。アロアが無心に齧りつくのを眺めて、ひとつ気が付く。カステラで羊羹挟んでいるだけのものだと思っていたけど、これはカステラと羊羹がくっついて一体化している。なにか意味があってのことなのか。一体化していることで食べやすいということはありそうだ。あるいはもしかして挟むだけよりも製造の効率がいいのかもしれない。わからない。シベリアの謎。
食べ終わったアロアのべたべたの口と手を紙おしぼりで拭いてあげる。こうなることを予見して、シベリアを買ったときに、紙おしぼりをもらっておいたのだ。
窓際に置いた椅子に座って、アロアを膝の上に抱き上げる。思惑通り、窓の外に路地がよく見える。携帯電話を出して音楽をかける。ボストンのファーストアルバムを選択して、最初の曲から聴く。昨日、MITとか言われて以降、頭の中で延々とトム・ショルツがギターを弾いていたのだ。英語はわからないけど、適当に歌う。歌っているとアロアもあわせて口をぱくぱくと開閉する。それを見ながら、指でリズムを刻む。アロアは声を出していないが、それでも二人で一緒に歌っている気分になった。トム・ショルツのトム・ショルツによるトム・ショルツのためのギターフレーズがあたしたちを祝福してくれる。一枚目が終わる。この間、路地を歩く人の姿はなし。二枚目をかける。ドント・ルック・バック。レコード会社に急かされて作った二作目。急かされたといっても出来上がるまでに二年間もかかっている。B面は駄作だから鍋敷きにしてくれ、というのがトム・ショルツの弁だと聞いたことがあるけど、本当かな? A面とかB面とかいうのはアナログ盤のときの話で、CDとなった今ではその区別はない。だけど、あたしはその鍋敷きにしてしまってかまわないと言われたサイドに入っている曲たちも好きだけどね。二枚目が終わる。路地に人の姿はなし。三枚目をかける。サード・ステージ。前作から八年後の発表である。ボストンは商業ロックと揶揄されていたらしいのだけれど、アルバム一枚作るのに八年もかかっていたら、商機を逃していると思う。売りたいなら、流行っているうちにもっとばたばたとアルバムを発表するんじゃないのかな。そしてトム・ショルツは世間の流行りを追いかけてなんかない。八年前に発表されたセカンドアルバムと、なんならその前のファーストアルバムともまるで変わらない。ボストンはどこまでもボストンである。鋼のポリシーとしか言いようがない。ボストンの八年を凝縮した三枚目が小一時間で終わる。八年間が一時間。さきほど寝てしまったアロアをベッドに横たえて毛布を掛ける。路地に人影なし。四枚目をかける。ウォーク・オン。これも発表まで八年間を要して……人だ。アロハを着た人が路地に出てきた。昨日のアロハとは色違いだけど、暮根雅人だ。たぶん。
携帯電話を仕舞って鞄を背負う。アロアを起こさないように気を付けて病室を出る。非常階段ではなく、エレベーターに向かう。下方向のボタンを押してエレベーターを待つ時間がもどかしい。一階に着いて正面玄関を出る。大通りに出るには正面口からの方が早い。昨日、送ってもらっているので、あの裏路地を進んだ先に出る大通りの位置はわかっている。
病院を出て大通りを目指して走る。大通りに出て右に折れて、二つ目の角まで急ぐ。その角が裏路地からつながるルートだ。路地をのぞき込むが誰もいない。ということは、暮根雅人はすでに大通りに出ているってことか。駅の方向に目を向けるものの、大通りの歩道は人が多くて見通しが悪い。もう少し視点が高ければ視界が開けるのだろうけど。とにかく先を急ぐ。杖をついて進む老人の横をすり抜け、歩道いっぱいに広がって談笑しながら歩く大学生男女の群れを避けて前に出ると、その先にそれらしい人影が目に入る。暮根雅人だ。見通しが悪かっただけで、わりと近くにいた。そうだよ。見かけてすぐに飛び出してきたんだから、そんなに離されているはずがない。
よし、やっと追いついた。ん、追いついちゃった? あれ、あたしはなんて声をかけるつもりだったんだっけ?
どうやって探すかばかりに思考が向かっていて、なんの話をするかの検討がおざなりになっていた。追い付いたものの声をかけることができず、そのまま後ろに付いて歩く。それにしても歩くのが速い。三歩も歩くと離されてしまうので小走りで付いていく。三歩と小走りを繰り返す。そういえば駅まで送ってもらったときには、こんなに速くはなかった。歩調を合わせてくれていたのか。付いていくだけで息が上がって、視線がだんだんと下がっていく。いや、下を向いていたら見失ってしまう。顔を上げて後ろ姿に視点を合わせる。
今日のアロハはオレンジの地に兎や蛙が描かれている。鳥獣戯画がモチーフということなのかしら。しかし、色の薄い生地ね。いや、色が薄いのではなく、これは服を裏表で着ているのではないのか。ジーンズは昨日と同じに見える。スニーカーの色はモスグリーン。昨日の靴は覚えていないが、こんな感じだったような気もする。昨日と違うと言えば、今日はナップザックを片方の肩に引っ掛けているところか。紺色のナップザックでなにかの絵が描かかれているが、表面が歪んでいるのでなんなのか判別できない。なにか重いものが入っているようで、それが底に沈み込んでいて歪みの原因になっている。なんだろう、と思ってナップザックを眺めていると突然、前を行く暮根雅人が振り返る。
「また、君か」
「あ、えーと、なんで、急に、その」しどろもどろになった。
「ボストンがさ、聞こえたから」
病室で聞いていた携帯電話のアプリを落としていなかった。鞄からボストンを響かせて走っていたのか。慌てて鞄から携帯電話を取り出して音を止める。
「若いのにずいぶんとまた古いものを聴いているね」と暮根雅人は言って、前を向き直して歩き始める。自然とあたしは横に並んで歩く恰好になった。
「モーツアルトを聴いていたとしても、古くさいって言われるのかしら」とあたしは言うと暮根雅人は目だけで笑って「他にはなにを聴いているのか、よかったら教えてよ」と利いてきた。
「ELOとかYESとかXTCとか」たまたまアルファベット三文字のバンドばかりを並べてしまう。
「もしよければ、そのスマートフォンに入っている音楽のライブラリを見せてもらってもいいかな?」
携帯電話を手渡すと、暮根雅人は画面に指を走らせて「うん、やっぱどれも古いな。一番新しいのがレディオヘッドって……」と暮根雅人が言いかけるのを遮って「この中で一番新しいのはボストンの六作目よ」と訂正する。それを肯定するでも否定するでもなく、ライブラリをじっくり眺めてから暮根雅人が携帯電話を返す。
「これって、ネットからダウンロードしたのかな」と暮根雅人が言う。
「うちにあるCDをPCに取り込んで携帯電話に落としている」
「CDのコレクションはお父さんの趣味?」
「音楽を聴くのはあたしだけ」
「そしたら、このCDのすべてを君が自分で買ったってこと?」
「自分で買ったものも何枚かあるけど、ほとんどのものは物心ついたときにはすでにうちにあった」と答えて「きっと、引っ越しかなんかで捨てられていたCDを母が見つけて拾ってきたんじゃないかな」と続けた。
「二、三百枚ものCDはかなり重いよ。落ちていたからって興味のない人が持って帰ったりするものかな」暮根雅人が怪訝な顔をして考え込む。あまりこの話題に踏み込まれたくないあたしは話題を変える。
「あのさ。キュイジーヌアナリストってなんなの? ほら、名刺に書いてあった」唐突だったかなと思うけど、しかたない。
「ああ」と言って暮根雅人の表情が曇った。いや、従来の表情に戻っただけか。音楽の話をしているときの暮根雅人は少し高揚気味だった。
「いちいち説明するようなことでもないんだけど」と前置きして「泥棒」と言った。
「泥棒」思わず復唱した。
「たとえば、あれ」と言ってとんこつラーメンの店を示す。客が外まで並んでいてなかなかの盛況ぶりだ。
「もしくは、それ」今度は横浜家系ラーメンを指す。横浜家系ってなんだ。なんの味なのか想像がつかない。
「どちらもこの間、盗んだ」
「ラーメンのスープの作り方を盗む、っていうこと?」
「自分で食べて味をコピーして依頼主にレシピを渡す」と暮根雅人が説明する。
「それは泥棒ってわけでもないのではないかしら」とささやかに疑問を呈する。
「誰かが苦労して仕上げた味を真似して横からかすめ取る行為だからね。立派な泥棒だよ。だいたい同じラーメンの味を出したいなら弟子入りして習えよって思う。盗んだものを自分の店で出して恥ずかしくないのかね。そう言ってみたところでその手伝いをしているのが自分だったりするんだけどさ」
仕事に誇りを持っている、というわけはなさそうだ。この件に関してあまり訊ねない方がいいのだろうか。よくわからない仕事の話よりも洋楽の話に持ち込んだ方があたしも気楽ではある。いや、駄目だ。洋楽の話は話せば話すほどに、どこかでぼろが出てしまうだろう。
「昼食はもう済んでいるのかな?」歩を止めて暮根雅人が訊いてきた。
「まだ食べてない」いつも食べてないんだけどね、お昼は。ほんとは給食で食べていることになっているから、お弁当もお昼のごはん代も持ってない。
「そしたらランチをごちそうしよう」と目の前の建物の二階を示す。イタリアンのお店だった。
「今日は仕事の仕上げの日でね。第三者の意見を聞くのも悪くない」なんだ、ラーメン以外の仕事もあるんじゃないの、と思いつつ暮根雅人の後ろについて狭くて急な階段を上がる。数人の客が並んで待っている。給仕がそれぞれの人数を聞いて、適当に席を割り振っていく。一人の客はカウンター席に案内され、二人以上だとテーブル席に案内されるようだ。順番が回ってきて給仕に連れられて狭い店内を奥まで入り四人掛けのテーブルに通される。給仕の名札が目に入る。有谷梨乃。
「ご注文がお決まりのころに伺います」と言って去りかける給仕を引き留めて、暮根雅人がメニューも見ずに注文を始める。
「赤い海のパスタと白い海のパスタ。それとサラダ。そうだな、魚介のサラダがいいな。あと取り皿と紙のエプロンをお願いします」あたしには選択の余地はないのですか。ああ、そうですか。別にいいんですけど、あなたの奢りだし。
「飲み物はいかがいたしましょう?」
「僕はアイスコーヒー」普段は俺のくせに、こういうところでは僕ですか。
「そちらは?」そちら? ああ、こちらですか。急に振られると動揺する。
「えーと、アイスティーで」とあたしは言う。ミルクかレモンか食前か食後かとの問いに対し、ミルクで食後と答えると給仕は頷いて引き上げていった。
「ちょっとトイレに行ってくる」と暮根雅人が言って席を立つ。
「そんなこといちいち言わなくていいわ」と答えると、暮根雅人は少し考えた後「お花を摘みに、と言うべきだったのかな」と言い直して店の奥に消えていった。たしかに彼が無言で立ってどこかに行ったら、どこに行くのかと聞き咎めていたわね。そしたら、行き先を言ってくれるのは配慮であり気配りだ。それを不躾だと文句を言う筋合いではない。だけどこういうことをされると、あたしがトイレに行くときも報告しないといけないじゃないの。
あたしは隣の席に置いた鞄から文庫本を取り出す。しおりに沿ってページを開く。どうせ暮根雅人はすぐに戻ってきて、たいしてページを繰ることはできないとわかっていても、わずかでも時間が空くと本を開いてしまう。ある意味、病気ね。
本を開いて間もなくして、大きなボウルに入ったサラダがやってくる。真っ先に目に飛び込むのがスライスされたゆで卵、そしてタコ、さらにエビ、あとなんか貝、ベースにはレタスやキュウリや海草やらの緑色の野菜が敷き詰められている。二枚重ねの取り皿をそれぞれの側に置き、テーブルの真ん中にはコルクで栓をした瓶が置かれる。
茶色というか黄土色というかどろどろとした液体で見方によっては吐瀉物を思わせる。それとは別にパスタのセットとしてトーストとスープとミニサラダを並べ、脇に紙ナプキンを敷いてフォークとスプーンを置く。紙ナプキンには店名と思われるものが赤い文字で印刷されている。クアンド・レ・ラディチ。意味はまったくわからない。イタリア語っぽい語感であることはぼんやりとわかる。
しかしミニサラダがセットで付いてくるならば、わざわざ単品のサラダを注文しなくてもよかったのではという疑問が頭をかすめる。セットのサラダにはすでにドレッシングがかけられた状態である。瓶の中の液体と同じもののように見えるが、サラダにかけられている方がどことなく透明度が高く、上品に見えるのはなぜだろう。それらが並んだところで暮根雅人が戻ってきた。
「テーブルの上がいっぱいになっているね。それではいただきましょう」席に着きながら言う。炒ったタマネギをお湯に溶いたスープは、しっかりと色が付くまで炒めているおかげで甘みが強い。トーストにはガーリックバターが塗られていて、濃厚なニンニクの香りにさっくりした食感。セットのミニサラダに手を伸ばす。
「ここはこのドレッシングが人気でね。ちなみにメインの方のサラダには手をつけないで取っておいて」暮根雅人が言う。
この薄汚いドレッシングが人気とは。セットのサラダはレタスと海草とキュウリ、それらの上に数粒のコーン。
キュウリをフォークで刺して口に入れる。ドレッシングの味の基本は醤油だろうか。酸味はない。まあ不味くはない。次にレタスを口にする。細かく砕かれたニンジンらしき赤い粒が見える。ニンニクをわずかに感じる。あとタマネギの辛みがある。不思議な味である。皿に残った野菜をまとめて刺して口に押し込む。魚介の風味を感じた。魚醤かな。ガルムとかしょっつるとか、なんかそういうものだろう。三口で食べ終わってしまった。無くなってしまうと無性に名残惜しい。皿の底に残るドレッシングをトーストで拭って食べるか、あるいは舐めるか。しばし悩むがこらえる。なにせ、まだ手付かずのサラダとボトル一本のドレッシングがそこにある。単品のサラダを別に注文したのは実にファインプレーである。よくやった暮根雅人。拍手してあげたい気分である。
「さて、この後に出てくるパスタなんだけど、赤い海はトマトをベースにしたスープにタコとベーコンが入っていて少し辛めの味付けのパスタで、白い海はアサリと牛乳で作られていてクラムチャウダーっぽいスープのパスタ。どっちがいい? 取り皿をもらったからどっちも味わえるけど」辛いのは苦手なので、白い方をもらうことにする。食べるとスープが撥ねるとのことでエプロンを勧められて、それを素直に着ける。勧めた本人もエプロンを着けた。エプロンを付けて料理を待つその姿はまさに、食いしん坊という感じだ。きっと、あたしの方もそう見えていることだろう。
ほどなくそれぞれの前に白い海と赤い海が置かれる。暮根雅人が自分の赤い海のパスタを取り皿に分けて、あたしの前にそっと置く。あたしもお返しに白い海を取り分けようとしたら「何度も食べているから、大丈夫」と言って止められた。
まずは自分の白い海のパスタから手を付ける。スープを底からさらう。スプーンに口を寄せると、顔の横から髪の毛がはらり垂れた。鞄からヘアゴムを取り出して髪の毛を後ろで縛って改めてスープを掬う。アサリの出汁の主張を牛乳がやさしく包み込む。微塵に切られたニンニクと細切りのタマネギが香ばしさと甘みを醸す。取り分けてもらった赤い海はトマトの酸味にタコとベーコンの出汁が染み出る。辛いというほど辛くもない、と思っていたら後からきた。でも、適度な辛みだ。これなら食べられる。どちらもおいしい。
パスタの茹で加減も絶妙だ。髪の毛一本分の芯が残るか残らないかという塩梅である。それはあたしの理想とするパスタの茹で加減と合致する。本格を気取るイタリアンはなにかとパスタが硬い。アルデンテだかなんだか知らないが、とにかく硬い。
無心で一気に食べてしまった。汗がすごい。食べる前に上着を脱いでおけばよかった。ふと回りを見回すとすべての席が埋まっている。本当に人気店なのね。食べてみれば納得である。暮根雅人が食後の飲み物を持ってくるように促している。そういや、まだサラダが残っているんだった。そして瓶一本のドレッシング。もう一度あれが食べられるとは、なんたる至福か。
給仕がやってきて不要な皿を片付け、かわりにアイスコーヒーとアイスティー、それにガムシロップとミルクとストローを置く。ごゆっくりどうぞ、と声をかけて給仕が引き上げる。それを見計らって暮根雅人がナップザックを引き寄せる。そのときにナップザックに描かれていた絵が目に入る。耳の垂れた犬の漫画に出てくるキャラクターだ。野球のグローブを付けてボールを追いかける男の子の絵が紺のナップザックに白い線で描かれている。そのナップザックからなにかを取り出す。ペットボトル。この色味、この風合い。
「この店のドレッシングをコピーしたってことね」
「今日でほぼ完成形。ちょっと食べ比べてみてほしい。これがあるから今日はカウンター席に座りたくなかったんだ。君が居てくれてちょうどよかった」
カウンター席で堂々と偽物のドレッシングを出すのは気が引けるものね。なるほど。それでは、まあいただいてみますかね。まずは本物から。
「うん、やっぱりおいしい。魚介のサラダを選んだ意味がよくわかるわ。このタコやエビがめちゃくちゃドレッシングに合う」
次に偽物の方をいただく。さすがにあの複雑な味を再現しているとは思えないけど。
「あら、これもいいわね。ん、んんん……」
二つの皿に本物と偽物をそれぞれ入れる。二つをじっくり眺める。香りを比べる。味をみる。舐め比べているうちに、どっちが本物かわからなくなる。
「見分けはつくよ。本物とコピー品と見比べてごらん」
ドレッシングは時間が経つと分離するようで、下のほうに黒い液体が溜まっていた。液体はおそらく醤油だ。見比べると本物の方に沈殿している醤油の量がコピー品のそれよりも多い。
「つまり材料の割合は間違っている。確実に。ただ味としてはもうこれ以上整える必要を感じない。コピーというよりも再構築と言った方がいいのかもしれない。デコンストラクション」
吉田ルートで登ろうが、富士宮ルートで登ろうが、富士山の山頂に着くならばどちらでもいい、ということかな。まあ、あたし的にはまったく問題ない。大きなサラダのボウルを抱え込み、本物のドレッシングで一口食べ、偽物のドレッシングで一口食す。無限に続けられるわね、これ。
「ちなみに、材料になにが使われているのか教えてもらってもかまわないかしら?」サラダを頬張りつつ訊く。
「サラダ油、オリーブ油、醤油、ダイコン、タマネギ、ニンジン、すりゴマ、アンチョビ、ニンニク、コショウ」
「一口食べてそれが全部わかるの?」
「まさか。一口でわかるわけがないじゃないか。何日も通って味を割り出すんだよ」と暮根雅人は言う。
「神経衰弱に似ていてね」と暮根雅人が続けて説明を始める。
「俺は食べた味をしばらく覚えていられるんだ。二三日の間は口の中に味を思い浮かべられる。コピーしたいものを食べると、その素材がカードとなって頭の中に配られる。でも、裏返しに伏せられている。その伏せてあるカードは、後で食べたもので開かれていく。たとえば、ほうれん草のゴマ和えを食べたとする。そうすると、このドレッシングでもゴマが使われているので、カードが一枚めくられて素材の一つが判明する、という寸法だね。コピーしたいものの味を覚えたら、とにかくいろいろなものを食べることでレシピが完成していくわけだ。素材が出そろったら、その配分に取り掛かる。加減を調整する方が、時間はかかる」という暮根雅人の話を聞きながら、オリジナルとコピーのドレッシングを交互に口に運ぶ。
「でも、その話を聞くと覚えていられる期間中に使用されている食材を口に入れないとわからないわけね」
「その通り。変わった素材を使われていたりすると少し難航する」
「カレーのコピー依頼が来たら、面倒だったりしない?」
「いや、カレーは意外と楽なんだよ。カレーの場合はいろいろな料理を食べて割り出したりしない。スパイスだけでいいんだ。思いつく限りのスパイスを口に突っ込んでいく。だから、却って素材の洗い出しは簡単になる」
「代わりに配分が大変そうね」
「そっちも比較的簡単だよ。加点式で割り出す。例えば十種類のスパイスを割り出したとする。それを元に配分を決めるわけだけど、とりあえずはすべてを等分とする。ああ、つまり洗い出した素材のすべてを等分にした混合スパイスを作る。その味をみながら加減していくんだ。加減って言葉を使ったけど、この場合基本的に加えるだけだ。例えばAというスパイスがもっと入っていると思えば、Aを少し足す。Bが足りないと思ったらBも増やす。これを繰り返していくだけで、目当ての味になるという寸法だね」
「ところで、このドレッシングの素材はなにを使っているって言っていたっけ?」とあたしは訊く。
「サラダ油、オリーブ油、醤油、ダイコン、タマネギ、ニンジン、すりゴマ、アンチョビ、ニンニク、コショウ」
「もしかして、卵が足りてないんじゃないかな」
「え?」
「オリジナルの方にかすかな生ぐさみとコクを感じるのよね」とあたしが言うと、暮根雅人はオリジナルのドレッシングを一舐めして水を飲む。一呼吸置いてからゆで卵をつまむ。目を閉じて静かに咀嚼する。
「驚いたな」と暮根雅人が目を開けて言う。「うん、たしかに卵が入っている。極々少量だと思うけど。君、すごい嗅覚をしているね」野菜がなくなってしまった。空しくフォークでボウルの底を突く。皿の底にうっすら残ったドレッシングをじっと眺める。
「そういえば、養殖マグロの件でもにおいが違うって言ってたね。なんのにおいを嗅ぎ取ったのか教えてもらってもいいかな?」
「大豆のにおいがしたんで、なんでかなと思った」
「大豆……そうか、きっと配合飼料に入っているんだな。で、君はそのにおいを嗅ぎ取ったと……」と暮根雅人は言って少し考え込む。
あたしは空になったサラダのボウルを脇に寄せる。代わりにアイスティーのグラスに手を付けて、ストローを差し、ミルクのポーションを開ける。
「それ、アイスティーに入れるつもりなのかな」と暮根雅人があたしの手元に目をやりながら言う。
「なんで?」ミルクをアイスティーの上に持ってきたところで手が止まる。
「なにに見える、それ?」
「なにって、ミルクでしょう。コーヒーや紅茶に入れるやつ」
「ミルクではなくコーヒーフレッシュね」と言って暮根雅人はなにも入れずにアイスコーヒーを飲む。
「なにが違うの」
「それがミルクだとしたら、なんで常温に放置していても腐らないのかな?」
腐らない理由? 防腐剤? 脱酸素? 窒素充填? なんだろう。
「植物油脂と乳たんぱくと水と香料を撹拌して乳化させたものがコーヒーフレッシュと呼ばれるものだな」
なにその科学実験っぽい代物は。それは牛乳でもクリームでもないのでは。どこの製品もそうなのだろうか。
「メーカーによって細かい違いはあるかもしれないけど、だいたいのところはね」
ミルク、いや、コーヒーフレッシュをそのままテーブルに戻して、ガムシロップを入れてかき回してアイスティーを飲む。ミルクを入れないと結構渋い。そして何事もなかった風を装って言う。
「さて、それじゃ。電話番号を交換しましょう」昨日盗み見た名刺からすでに電話番号はわかっているけど、それを明かすとややこしくなりそうだから、ここで電話番号をいただくという体裁を取りたい。
「なぜ?」と暮根雅人が至極まっとうな反応をする。
「『一度会ったら友達だ……』みたいな歌があるじゃない。知らないの? 二日も続けて会ったからあたしたちは兄妹です」と断定してみた。
「兄妹って……」と暮根雅人が絶句しかけて、それでも言葉を繋いだ。「だいたい人の電話番号を知ってどうしようというつもりなのかな」
「兄妹ですからね。相談を聞いてもらったり、こうやってお昼ご飯奢ってもらったり、いろいろね」暮根雅人がしばし黙考する。あたしがどこまで本気なのか計りかねているのだろう。しかし考える余地があるならば、拒絶はされていないということだ。
「メールじゃ駄目かな」と暮根雅人が代替案を出してきた。
メールか、メールでもいいか。こっちとしても電話をかけるとなると気兼ねするし。あ、いや、駄目だ。あたしのメールアドレスは英字にした本名と生年月日とキャリアのドメインを組み合わせただけだ。名前がばれるのは避けなくてはいけない。
「電話番号がいい」と向こうの要求を退ける。かわりに餌を投げる。自分の携帯電話を出して指さしつつ「この中になにか欲しいCDがあったんじゃないの。必要なのがあれば持ってきてあげてもいいけど」
暮根雅人の表情に変化があった。響いたな。よし食い付け。あのコレクションは刺さるでしょう。だってあなたの欲しいものばかりのはずだから。
「わかった」折れた。わりとあっさりね。そんなにCDが欲しいのか。
「CDの方が、まだ音がいいんだよ。手持ちの曲はほとんどが圧縮されたデータファイルなんで、音が荒いんだ。まあ、本当は昔ながらのアナログ盤で聴きたいけどね。CDだとビットレートが……」話が終わらなくなりそうなので、遮って電話番号を教えろと迫る。
暮根雅人が電話番号を読み上げる。それをあたしが打ち込んで電話をかける。相手の電話が着信で振動する。暮根雅人が着信に残った電話番号を登録する。
「名前を教えてくれないかな」
「ん?」
「君の名前だよ。登録するから」
名前。名前だって。しまった。なんにも考えていなかった。そうか、そうだよね。登録の際に名前、聞くよね。田中? 鈴木? 佐藤? ありきたりな名前から適当に選ぶ? いや、そんなの口にしたとたんに忘れる自信がある。
店内を見回しても、あこう鯛の香草焼きとかポルチーニ茸のクリームパスタとか季節野菜のカルパッチョだとかメニューの名前しか文字がない。さっきの給仕してくれた人。名札を付けていた気がする。なんだっけ。ああ、一文字も思い出せない。なんとか谷。なに谷だっけ。いや、それを思い出したとしても、その名札は暮根雅人も見ていたかもしれない。そんな名前を名乗っては、言い逃れができなくなる。ならば本から借用だ。小説。今、読んでいるのはアーシュラ・K・ルグィン。外国翻訳ものだった。登場人物も全部アウトか。いや、待てよ。アーシュラ・K・ルグィン。これでなんとかしよう。アーシュラ・K・ルグィン、ルグィン、ルグィン……
「る、竜宮院」
「下の名前は」
「あー、明日香」
ふーん、と言いながら暮根雅人はなにかの本を開いている。
「『闇の左手』とは、これまた懐かしいね」懐かしいね、とか言っているその本は、あたしのではないのか。
「ルグィンを竜宮院ね。アーシュラを明日香にするのは苦しかったかな。アーシュラの語源をたどると雌熊と聞いたことがあるから、熊子なんていうのはどうかな。竜宮院熊子。それとも、Kを使って圭とか恵とかにした方がそれっぽいと思う」
否定も肯定もすることなく、汗をかいたアイスティーのグラスを持ち上げてストローを啜る。やっぱり渋い。
「まあ、偽名でも本名でもどちらでもかまわないよ。携帯電話に登録するための名前だから。竜宮院明日香ね」と言って文庫本を手渡してくる。偽名だとわかっていますアピール、うざいな。うざいぞ、暮根雅人。あたしはそれをひったくるように受け取って鞄に仕舞う。
「俺の名前は訊かないのかな」知っています。昨日、名刺見たし。ああ、でも、いちおう訊いてやるか。
「お願い」と言うと「暮根雅人」と答えた。ちっ、本名か。向こうも偽名使ってきたら指摘してやろうと思ったのに。
「ところで、その制服。白いリボンって珍しいね。紺のブレザーにグレーのスカートという色の取り合わせも面白い」
「ああ、これはね。ボウタイブラウスなのよ」この制服はあたしもお気に入りだ。ベストとスカートはグレーでブレザーは紺。合わせるとこれが意外と様になっている。ベストのデザインもユニークで、ボタンが斜めに配されている。まあ、わざわざ見せたりはしないけどね。
「どこの制服なのかな?」
「新宿の学……」いや、なんで学校名を訊いてくるのよ、こいつ。もしかしてあたしを学校に突き出すつもりなの。
「新宿の学校に行っているのか。なんでいつも池袋にいるのかな」
「いろいろとあるのよ」
「行く場所があるならいいんだよ」あるわよ。山手線の車内の座席とか公園のベンチとか。「ただ、もしも当てもなくその辺をぶらぶらと彷徨っているのなら、それはやめて欲しい。どんな事故や事件に巻き込まれるかわからないだろ。君を放置してそんなことになったら俺の寝覚めが悪い」
「なに、その言い様」
「子供が一人で繁華街を歩くのは危ないよっていう話だよ」
「子供じゃないわ」
暮根雅人が大きく息を吸い込む。大声を出すつもりか、長い説教を始めるつもりだろう。横を向いて話を聞き流す準備をする。
予想に反して「そろそろ出ようか」と言って、伝票をつかんで会計に向かう。あたしも荷物をまとめて後に続く。
会計で暮根雅人はお土産用のドレッシングを買い求めてそれを無造作にナップザックに放り込む。階段を下りて外に出る。朝に予想したとおり、表はかなりの暑さになっていた。
「付き合ってもらってすまなかったね。ドレッシングの意見をありがとう」と言って暮根雅人は歩き去る。
「どこに行くの」慌てて呼び止める。
「仕事」そっけない返事が返る。
「ここで食べるのも仕事だったんでしょ」
「そうだね、ここでの仕事は最終確認。君のおかげでレシピに欠陥が見つかったけど、まあ、それはそれ。次に行くのは納品だね」
「あたしも行く」誘拐犯も長く生かしておいた人質は殺しづらくなるっていうしね。あたしももっと付きまとって一緒にいる時間を増やして情を移してもらわないといけない。勝手にさっさと立ち去るな。
「え?」
「あたしも行く」繰り返してみた。
「いや、言葉が聞き取れなかったわけじゃないよ。なんで付いてくるのかな」
「行く当てのないあたしがそのへんをぶらぶら彷徨って車に轢かれたり人身売買に攫われたりするとあなたの夢見が悪いんでしょ」
「夢見じゃなくて寝覚めね」
「どっちも一緒じゃない。ほら、行きましょう」と促すと、抵抗を諦めた暮根雅人が歩き始めた。




