病院、アロア、豆大福
階段を上って地上に出る。空を仰ぐと薄い雲が強い日差しを和らげ、乾いた風が北東から南西に抜ける。外はこんなに爽やかなのに、屋内は空調が稼働していたにもかかわらず蒸し暑かった。不思議だ。
そうだ、忘れないうちに電話番号を登録しておかないと。鞄から携帯電話を出す。あたしは歩行者を避けて、建物の陰に移動する。往来のど真ん中で立ち止まって携帯電話を操作し始める人が多いけど、いったいどういう神経をしているのか。そんなやつは後ろから歩く人に突き飛ばされて怪我でもすればいいのだ。危ない目に会えば多少なりとも周りに気を遣うようになるだろう。
いや、いやいやいや。余計なことを考えるな。さっさと登録しないとさっき見た電話番号を忘れてしまう。
ぽちぽちぽちっと。はい、登録完了っと。ふと思いついてキュイジーヌアナリストという言葉を調べてみる。キュイジーヌという言葉が入った店名を持つ飲食店が検索の上の方を占める。関連としてフードアナリストという言葉出てくるものの、キュイジーヌアナリストという文言はない。暮根雅人の造語というわけね。キュイジーヌで調べるとフランス語で料理とあり、アナリストが英語で分析者と出る。料理の調査分析をする専門家というイメージだろうか。調査分析。白衣を着た男が料理をまとめてすり鉢で潰してどろどろにしたものを遠心分離機にかけてぐるぐる回してそれにいろいろな試薬を使って数値を採取してノートに書きつけている姿を想像する。白衣姿の男の代わりに、アロハシャツの暮根雅人を空想の中に置いてみたけど、なんだかまったく様になっていなかった。
携帯電話を鞄に仕舞って歩き出す。駅から西に伸びる大通りの左側の歩道を進む。青い銀行、昔ながらの喫茶店、牛丼屋、ゲームセンター、スーツの専門店、ファーストフード、ラーメン屋、家電量販店、眼鏡屋、バスの停車場、コンビニ、ラーメン屋、蕎麦屋、酒場、ラーメン屋、イタリアンレストラン、交番、それらを通り過ぎると大きな交差点に出る。ここまでくると少し汗ばむ。上着を脱ぐかどうかを少し悩むが、そのうちに信号が青になる。交差点を渡る。カレー屋、ドラッグストア、カフェ、スペイン料理店、ラーメン屋、鞄屋、印鑑屋、ラーメン屋、鯛焼き屋、ラーメン屋、ああ、もう、ラーメン屋が多すぎる。みんなそんなにラーメンが好きなのか。
その六軒目のラーメン屋の角を左に曲がると、とたんに辺りは寂しくなる。店はなくなり緑が増える。通りを進むと先の方の路面になにかオレンジ色のものが落ちている。遠目に見ると、ウインナーに見える。それも、なんというか、実にタコさんウインナーにそっくりだ。落ちている数は一つとか二つではなく十、二十と落ちている。近づいてよく見てみると花だった。オレンジ色の花がいくつも落ちている。間近に見ても、そのまま弁当箱に入っていたとして違和感のないシェイプである。そこに覆いかぶさるように生えている木を見上げてみると、まだ落ちていない花がいくらか残っている。木の幹を見ても、葉を見ても、これがなんの木なのかはわからない。でも、よく考えるとあたしにわかる木の種類なんて、桜と梅と銀杏くらいしかないことに思い至る。花の種類はわからないが、おみやげにいくつかの花を拾ってハンカチに包んだ。そこから進んだ先の角をもう一度折れると、目的地の病院に辿り着く。
入口の自動ドアが開くと消毒薬と病人のにおいがする。受付のカウンターを無視して入院病棟に向かい、エレベーターで三階に上がる。上がったところで忘れ物に気付いて、一階のボタンを押す。降りた先にある売店でお菓子を物色して豆大福を選ぶ。レジ袋を断ってそのままポケットに突っ込む。こういうとき、個包装はありがたい。再び三階に上がってエレベーターを出て左にまっすぐ進んだ先にある二人部屋に向かう。この間まで、あたしが入院していた病室だ。
ドアを開けて中に入る。左側の自分の使っていたベッドは空いたままだ。隣のベッドには寝ている女の子がいる。年のころは一歳か二歳か三歳。小さい子供の年齢推察とかあたしにはちょっと難しい。この子がしゃべれないことも年齢を推察しづらい理由の一つだ。赤ちゃんはだいたい一歳くらいから、いくらかの言葉を発するらしいのだけれども、この子は「あっ」とか「ぎゃっ」とか「うっ」とか、そういう声を上げることはあるけど、言葉を発するのを聞いたことがない。たとえば「ママ」とかいかにも子供がしゃべりそうな簡単な単語も口にしない。音には反応するし、話しかけると聞いている様子がうかがえるので耳は聞こえているように思える。
体格的には一歳児の大きさではない。指で計った身長は約九十センチメートル。調べてみたところ二歳か三歳くらいに相当するらしい。抱き上げるとずっしりと重い。髪は金髪の巻き毛でくりんくりんである。名前をアロアと言う。馴染みの看護婦さんに確認したので間違いない。
アロアと言えば『フランダースの犬』を思い出す。コゼツさんと言う大地主の家の娘さんの名前がアロアだった。主人公のネロの友達で理解者。アロアはいい子なのよね。あれ? あたしはその名前に引きずられて、この子を愛おしいと思っているってことなのかな。いや、そんなことはない、と思う。でも、まったくそれとは無関係とも言い切れない。知らず知らずにこの子と重ねている可能性はある。もしも、ここにいるのが男の子で名前がハンスだったとしたら? ネロに数々の嫌がらせをする底意地の悪い小間使いと同じ名前だとしたらあたしはその子を愛おしいと思えるのだろうか。しばし考えてみるがよくわからない。
悩んでいるあたしの気配を察したのか、アロアが目を覚ます。
「おみやげ持ってきたよ。ほらこれ」と言ってハンカチに包んだオレンジの花を目の前に開ける。アロアはすかさず、それを掴んで口の中に放り込む。そうだった。アロアは異様に食い意地が張っているのだ。
「食べるなら、こっち。こっちを食べよう、ね」と言いながら、ポケットから豆大福を出す。幸い、花の方は味が気に入らなかったらしく、一口噛んで吐きだしていた。かわりに差し出した豆大福に食らいつく。満面の笑顔が広がる。なにをあげても喜ぶ子だけれども、笑顔を見るとやはり嬉しい。
アロアはいつも服を着ていない。もこもことしたパンツを一枚履いていているだけで、上にはなにも着ない。着せてもはぎ取ってしまう。代わりに、いつも毛布を握りしめている。淡い青色がベースでハリネズミらしきキャラクターが描かれているこの毛布はアロアのお気に入りで決して手を放さない。取り上げると怒るので洗濯ができない。そのため、かなり古汚れている。そして、いささかすり減ってくたびれている。寒くなる前に電気毛布を買ってあげよう。まだまだそんな心配をする季節ではないのだけれど。
あたしはアロアの隣に座る。豆大福を食べるアロアの腕を撫でると肌にある傷跡の感触が指先から伝う。ぶつけてできた傷なのか、なにかで切り付けられた傷なのかはわからない。傷自体はふさがっている。指からの感触ではわからないが痣もたくさんある。そう、アロアは虐待児である。だから親は見舞いに来ない。たまに来るのは児童相談所の人くらいだ。あたしが退院してしまった今、この子はいつも独りぼっちだ。看護婦さんが気を配ってくれてはいるものの、なにかと忙しい彼女たちはこの子につきっきりで相手をしてあげるわけにはいかない。だから、あたしは毎日ここに来る。
ちなみにあたしの入院理由はちょっとした事故による足の骨折である。骨折といってもぽっきり折れたわけではなく、踵にひびが入っただけだ。家の階段を踏み外して転んでお母さんが救急車呼んで大げさだなあと思いつつ病院行って医者に踵を触られたら飛び上がるほどの痛みが走って骨折が判明した。舐めてかかるのはよくない。何事も。
しかし今になってよく考えてみると、治ったと言われてもいろいろと難癖をつけてここが痛いとかそこが痒いとか騒いでいれば、もっと入院していられたのかもしれない。アロアがいる限り、一緒に入院していればよかった。自らの浅慮を悔いる。
そして、もっとよく考えないといけないのが、この子が退院するときのことである。そのときアロアは家に戻されるのか施設に入れられるのか。この子を家に戻したりするのをあたしは絶対に認めない。こんなかわいくておとなしい子を虐待するような親だ。虐待していたのが父親なのか母親なのかは知らない。あるいは両方の親が虐待していたのかもしれない。片親だけが虐待していたとしても、それを見逃していたもう片方の親も同罪だ。気付かなかっただなんて、言わせない。こんなに傷と痣があるのだ。虐待している本人よりも罪深いくらいだ。だから家に戻されるなんてことは到底容認できない。
とはいえ、施設に入れられる未来にも問題を感じる。虐待親の元に帰るよりはいいだろう。同年代の子供もいて友達はできるかもしれない。でも、子供に必要なのは友達じゃなくて、安心して甘えられる絶対の存在なんじゃないだろうか。本当なら今すぐこの子を攫って連れて帰りたい。だけどきっとうちの親はこの子を匿うのを許してはくれないだろう。自分の実家を頼らずアロアと二人で逃げたところで、所詮あたしは無力な子供なのですぐさま路頭に迷ってしまう。
ふとアロアと目が合う。
「うん、食べ終わっちゃったか。ごめんね。もうないんだよね」あたしは出来得る限りアロアに話しかけるように心がけている。聞こえてはいるはずだ。なにをどこまで理解しているのかはわからないけど。
アロアの頭を撫でてやり、ついでに鞄からブラシを取り出し、髪の毛を梳いてあげる。アロアは名前がカタカナで髪は金色だけど、鼻はそんなに高くない。むしろ少し低いくらいだけど、潰れているというわけではない。大きな目におちょぼ口にはこの鼻が似合っていて、とてもかわいい。顔もかわいいんだけど、あたしのお気に入りは手だ。ぷくぷくとした小さい手のひら。そして手の甲の側の指の付け根がぽちっとへこんでいるところが最高にかわいい。その手を握ってやさしく上下に振って遊んだり、たまに顔を出す馴染みの看護婦さんと「また来てあげているのね」「おじゃましてます」と挨拶をしたり、トイレに連れ行ったり、毛繕いをしたりしていたら、あっという間に夕方になっていた。学校に行っているふりをしているので帰宅時間はそれなりに守らないといけない。
「今日はもう帰るね。また明日くるからね」と言ってそっと部屋を出る。聞き分けがよくてありがたい。でも、たまにはちょっとくらい愚図ったりして感情を出してくれてもいいんだけどな。部屋のドアを閉めてエレベーターに向かう。ふと思いついて、踵を返して病室のドアに近づいて耳を澄ます。見ていないところで泣いていたりするのかなと思ったのだ。しばし聞き耳をたてていたが、なにも聞こえなかったので引き上げる。けれど、エレベーターの方には向かわない。さっき振り返ったときにいつもは目に入らない角度のところにある非常口のドアを見つけたので、そちらに向かう。ドアを開けると、外階段になっていた。
降りていくと病院の裏庭のような場所に出る。裏庭と言ったものの、あまり手入れはされていない。手入れをしてないというよりは、放置された状態で雑草が無造作に生え伸びていて足の踏み場に困る。でも、おかげで誰もいない。雑草を踏みしめつつ裏庭から簡単な門を開けて病院の裏手の路地に出る。ここからいつもの通りに出るには、ぐるりと遠回りすることになりそうだ。
建物が夕日を遮っているせいか、辺りは時刻のわりに暗く感じる。歩き出すと後方に人の気配を感じた。うん、まあ、歩行者はどこにでもいるわよね。でも、痴漢とか変質者だとしたらどうしよう。病院に戻るべきか、それとも走ってこの路地を早くに抜けるべきか。追いかけてきたらどうする? 逃げ切れる? 不安が渦巻く中、後方の人の足音が止まった。
「ああ、お母さん」という声が聞こえてくる。突然なにごとか。後方に耳を澄ます。ああ、電話か。携帯電話で話しているのね。「今から帰るよ。え、ごはん。食べてきたから要らないよ」でもこの声、どこかで聞いたことがある声だ。あたしは踵を返して、声の方に歩いて行った。男は電話に意識がいっていて、あたしに気付いてない。男が話している携帯電話を横からさっと取りあげて自分の耳にあてる。ツーという機械音が聞こえるだけで、どこにも通じていない。
「なにをするん……ああ、君か。マグロの……」と言って暮根雅人が言葉に詰まる。
「この電話、どこにも通じてないわよ」
「マサチューセッツ工科大学の先生から教わった夜道で女の子を怖がらせない方法だよ」なにを言い出したのか、よくわからない。
「MITに行っていたの?」
「本で読んだんだよ」夜道で女の子を怖がらせないというテーマでMITの教授が本を書くのは適切なのだろうか。MITっていうのはITエンジニアとか科学者とかトム・ショルツなんかを輩出するための学校ではないのか。
「それより、お母さんに電話していたんじゃないの?」
「安心させるのが目的だったから、実際に電話をしていたわけじゃないよ。暗い夜道で後ろから人がくると緊張するだろ。でもその見知らぬ人がお母さんに電話かけて話を始めたら無害そうな感じがする、というのがその先生の持論なんだよ」
さっきまでの不安を忘れて、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。
「お母さんに電話かけなさいよ、ちゃんと!」しまった。怒鳴っちゃった。せっかく見つけたこの弱くて細い線を切るわけにはいかないのに。
「帰るところなら送っていくよ」暮根雅人はあたしの激昂を軽く流して、送るという提案までしてくれる。たしかにこの裏路地を一人で歩くのはいささか不安である。
「ありがとう」と答えて、駅までの道のりを暮根雅人に送ってもらう。
送ってもらっている道中、言葉がまったく出てこなくて会話はなかったけど不思議と気まずさは感じなかった。聞きたいことはいろいろあったのだけど、まあ今はいいか。こっちは電話番号を押さえているし、いつでも電話をすることができる。
人通りの賑やかな通りに出る。駅の入り口が見える。駅前には暇そうな男どもがたむろしている。
「あいつらに話しかけられたことはあるかな?」と暮根雅人が言う。
「うざい奴らよね」とあたしは答える。
「お茶しないかとかモデルにならないかとか食事に行こうとか芸能界に興味がないかと言ってくるだろ?」うん。
「なにを言ってきても相手をしてはだめだ」うん。
「身体が目的だったり、お金を巻き上げようとしたり、いかがわしい仕事に就かせようとしたりする。まあ、つまり頷くと攫われたり売り飛ばされたりする」う……ん? それほどの無法地帯だったのか、ここは。
「君みたいな綺麗な子が通りかかったりしたら、それこそ糞に群がるギンバエのごとく……」
ちょっと待って。綺麗とか言っておきながら、その例えは何事か。
「それだと、あたしは糞ってことになっちゃうんだけど」
「ああ、ごめん。そしたら屍肉に群がるハゲタカのように……」
「いや、話を聞いていますか? 今度はあたしが屍肉にされちゃっているんですけど」
「とにかくあいつらは相当にうるさくて邪魔くさくて面倒なんで、ここを一人で歩いてはだめだってことが言いたかったんだよ」
一人で通りかかる女の人に声をかけている暇人どもの姿が見える。女性は相手にしないようにしていたが、払っても払ってもしつこくたかるその様はまさに蝿。それにしても、頷くとどこかに売り飛ばされてしまうのか。うっかり頷いただけで。ここは人外魔境か。
そうこう言いつつも、暮根雅人が一緒に付いていてくれたおかげで、無事に改札まで辿り着く。改めて礼を言おうと思ったら「最寄りの駅に着いたら、迎えに来てもらうように」と言い捨てて、暮根雅人は雑踏に消えて行ってしまった。




