山手線、トマス・ピンチョン、マグロの赤身
文庫本を膝の上に閉じて置き、イヤフォンを外すとあらゆる音が耳の中に押し寄せた。
車内のアナウンスが次の停車駅は目白だと告げ、電車の揺れに合わせて吊り革が軋み、開いた窓からレールの継ぎ目を乗り越える車輪の音や自動車のクラクションや盲人用信号が奏でる調べが飛び込んでくる。貧血や窒息で人がばたばたと倒れても不思議のないほど電車内は混雑しているけれど、あたしは席を確保できているので文庫本を開く程度の余地がある。労せずして朝の山手線の車内で席を確保したわけではない。新宿駅で電車に乗り込んだあたしはとにかく座席前の吊り革にしがみ付く。うまくいけば池袋駅で、でなければ上野駅で、もしくは東京駅で、まさかの品川駅で、最悪でも渋谷駅で、目の前の席が空く。いつか空く。かならず空く。山手線を何周も乗る客はいない。あたし以外には。
まあ、とにかく、席にさえつけばこっちのものだ。二周目三周目は本を読んで過ごせるわけである。そりゃまあ、ほんとはカフェにでも入って優雅に時間を過ごしたいけど、そんなことをする財力はない。でも、電車に乗り続けて時間を過ごすのって、なんだかトマス・ピンチョンの『V.』に出てくるヨーヨーマンっぽい。いや、ヨーヨーマンは『V.』じゃなくて『重力の虹』の方だったかな。どっちだっけ? まあ、どっちでもいいわ。どちらの話もまったく覚えてないもの。中学生のあたしにトマス・ピンチョンは早すぎた。いつか読み返してみよう。
しかし、この正面に立つサラリーマンの吐く息の酒くさいこと。ちらりと見ると吊り革にすがって、立っているだけで精一杯という様子である。さらに、どこからかにおってくる香水に胸塞ぐ。ミミズのにおい。いや、ミミズと腐葉土と小便を練り込んだようなにおいといった方がより正確ね。どこかの世界ではこれが品の良い香りとされているようだけど、あたしにはその価値観が理解できない。
「うっ」と正面のサラリーマンが苦しそうに声を漏らす。その声にあたしは身がすくむ。嘔吐いたりしないでしょうね。あたしは目の前のサラリーマンが胃の中をぶちまける前に電車から降りてくれますようにと祈る。しかし、こんな状態で会社に行って仕事になるのだろうか。サボればいいのに。あたしみたいに。
初めて学校をサボったときは自分が縁日の金魚すくいの生け簀の中の赤いコメットの群れに混じるただ一匹の黒い出目金みたいに目立っているように感じた。突然、誰かがあたしを指さして叫ぶとどこからか集まった補導員に囲まれてズタ袋に押し込まれてそのまま学校に担ぎ込まれて校長室の前の廊下に転がりだされて首からプラカードを下げて正座させられて晒しものにされるのではないかという心配をしていたものだけど、杞憂だった。
誰もあたしのことなんかを気にしない。どれだけ多くの人がいようとも、みんな自分のことで手いっぱいで他人のことなど目に入ってはいない。
電車が停まり二日酔いのサラリーマンがよろよろとドアに向かう。体調が限界なのか、それともそもそも目白で降りる予定だったのか、どちらかなのかはわからない。とにかく、あたしの前から消えてくれてよかった。危機が去り安心してイヤフォンを耳に押し込む。文庫本を開きなおす。いや、その前に携帯電話を鞄から取り出してSNSをチェックする。画面をタップしてフリップしてフォローに新規の書き込みがないのを確認してスワイプして終わる。この人の更新はほんとに少ない。携帯電話を片付けて本を開くとあたしの意識は物語の中に溶け込んでいった。
池袋では多くの乗客が降車する。人の流れに乗ってあたしもホームに降りる。電車は降りた人の分を埋め合わせるように新たな人を詰め込んで次の駅に向かって行き、あたしは階段を下りて行く。下りきって向かうべき改札への流れを見定めて身を委ねる。改札を出入りする人波の流れは心臓が送り出す血流を思わせる。駅は大きな心臓で、改札に入る人が静脈血、駅から出て行く人が動脈血。人はお金という名の酸素を街のあちこちに運んでいる。うん、ポエムだわ。
そんなくだらないことを考えながら改札を抜けて進むと立ち話をする太ったおばさんにぶつかりそうになる。この往来激しい地下コンコースのど真ん中で立ち話とは、自由にもほどがある。おばさんは黒地に橙や赤を施したワンピースを着ていて自分に近づくと危険だという警告を放っている。ムカデやら蜂やら蛇やらの毒虫のように。おかげで気付けて避けることはできたけれど、それはなんだか乱暴な運転をしているにもかかわらずエンジン音がやかましくて歩行者が勝手に避けてくれる自動車と同じではないか。なんであたしが気を回さないといけないのか。足でも踏みつけてやればよかった。
よく見ると同じようなセンスの服を着たおばさんがそこかしこにいる。年を取ると、誰でも皆こうなるのかしら。それとも有閑マダム特有の進化なのだろうか。
「本日はご来店いただきまして誠にありがとうございます。ただいまより開店いたします。どうぞごゆっくりお買い物をお楽しみください」
デパートの開店のアナウンスが聞こえ、入り口では店員が深々と頭を下げて客を店内に迎え入れている。有閑マダムたちが我先にとデパートに入って行く。これほどの客が朝からデパートを利用しているとは思わなかった。どちらかと言うと開店直後よりは閉店間際の方が値引きというメリットがありそうだけど、朝一番でデパートに行く意味はあるのだろうか。ささやかな疑問を抱きつつ、有閑マダムたちの後からあたしも続いて入る。
服飾か化粧品売り場に向かうのだろうと想像していたけど、みんな地下を目指す。
エスカレーターを降りると生鮮のフロアに着く。彼女たちの足取りに迷いはない。野菜果物には脇目もくれず、精肉もスルーし、乾物や加工食品も眼中にない。着いた先は鮮魚コーナー。そこにはのぼりが乱立し「マグロ解体」「天然マグロ」「特売」とある。それらの中央に調理場があり、中には板前らしき人が立ち、まな板の上には横たわるマグロの姿があった。
からんからんと高らかに鳴るせりがねの音。
「さあ、みなさま、お待たせいたしました。ただいまよりマグロの解体を始めます」とマグロの調理場の横からアナウンスを入れるのは白い襟付きのシャツに無地のエンジ色のネクタイ、その上からエプロンを着けた小太りの小男である。
板前がカーテンレールかと見紛うばかりの長さの包丁を一振りしてマグロの頭を落とし、続けて胸びれ腹びれ背びれを素早く切り落とす。不要部分は横にあるプラスチック製の大きなバケツに投げ入れる。持ち替えた出刃包丁を背骨に沿って滑らせて半身をはがす。むき出しになった背骨にスプーンを当てて中落ちをそぎ取る。
「お待ちかねの中落ちが出ました。大変申し訳ありませんが、こちら先着四名様のみの販売となっております。ご覧のとおり、ごく少量しかとれませんので、なにとぞご了承いただけますよう、お願い申し上げます」と言いながら、小太りは中落ちをパックして値札を付ける。一番前に陣取っていたマダムたちがそれを掴んでカゴに入れる。先着というか、ただ単に早くに奪い取ったもの勝ちである。
板前は大トロや中トロや赤身を切り出す。それらの柵を小太りがパック詰めして売り場に並べる。品質と値段の兼ね合いを検分したいところだけど、混雑に割り込んで物色する気にはならない。しばらく他の売場を眺めて間を置くことにする。
鮮魚売り場を離れてあちこちを見て歩く。野菜売り場にはホウレンソウやブロッコリーやキャベツなどの葉物野菜、ジャガイモやニンジンやダイコンなどの根菜野菜、ショウガやミョウガやエシャロットなどの香味野菜、それにトマトやトウモロコシやゴーヤーなどの季節の野菜が置かれ、乾物売り場には魚や果物の缶詰が積み上げられ、商品棚には一面すべてにレトルトカレーが並び、精肉売り場ではガラスの向こうに牛肉豚肉鶏肉の各部位を陳列し、パン売り場は窯からあふれ出た芳ばしいさに包まれ、一巡回って戻ってきた鮮魚売り場はいくらか人が捌けていた。
柵を手に取り吟味している人たちが見ているものがマグロの品質なのか、それとも値札の価格なのかは分からない。あたしも売り場に近づいて並ぶ柵を見る。もっちりとした質感と深みのある色味。たしかに本マグロの肉肌。試食が出ていたので、ひとついただく。あれ? どこかに天然マグロを謳っていた気がするけれども、これは養殖マグロではないのかしら。
辺りを見回すと、板前はすでにどこかに消えていたが、アナウンスをしていた小太りは解体の後片付けをしていた。その後ろ姿に声をかける。
「おじさん、これ天然マグロじゃないわよ」
小太りがこちらに振り返る。小太りで小男で丸顔、丸眼鏡。こういうのを教科書でみたことがある。社会科の教科書。土偶。土偶にそっくりだ。土偶は誰に声をかけられたのかを逡巡しつつ、あたしの姿に目が止まると「これはちゃんと天然もののマグロだよ。子供には天然と養殖を見分けるのはむつかしいかもしれないけどね」とやさしく諭すように言う。
「でも、においが……」とあたしは言い淀む。
「におい?」と土偶は言ってマグロの赤身に視線を向ける。目を凝らせばにおいが見えるというわけでもないだろうに。
「天然マグロからはしないにおいがする」自分で言っておいてなんだけど、根拠不明かつ曖昧模糊。我ながらなんの説得力もない発言だ。
「お嬢ちゃん、いくつかな?」
「十七歳」噓だ。ほんとの年を言ったらきっと相手にされない。
「学校は?」
「開校記念日」これも嘘。サボりを咎められるのはうんざりだ。
土偶はしばし考え込む。小娘のたわごとを真に受けて、これは天然のマグロではないと言われました、と上司に報告するわけにはいかないのだろう。大人の意見が必要だ。でも、このおばさんたちは駄目だ。この人たちは料理や素材を味わうのではなく値段を味わっているだけに思える。天然マグロと記されて高い値段をちらつかせれば、彼女たちはそこに疑問を持たない。生ごみを皿に盛り付けても耳当たりの良い言葉を添えて与えれば、きっと美味しくいただいてしまうだろう。「こちらは鮭の皮のポワレに、付け合わせとしてキャベツの芯と人参の葉ともやしの髭を添えました。熟成しすぎたワインで作ったソースをかけてお召し上がりください」とかね。
まあ、いいわ。とにかく誰かに食べてもらってこのマグロが養殖であることを同意してもらう。その口添えで土偶を頷かせる。そして、この状況はあたしにとっては好都合だ。ここにいる客に手あたり次第に声をかければ、探している人物が見つかるかもしれない。よし、と意気込んで脂がぎらぎらしている赤身の切り身に楊枝を刺して、とりあえず通りかかった人に差し出す。あたしよりも頭一つ分くらい背が高く、アロハシャツにジーンズの男性だ。相手の目の前に赤身を差し出す。身長差のせいで拳を突き上げたような塩梅になる。
「食べて」
ちょっとぶっきらぼうすぎたかな。試食ですとかお願いしますとか言い直した方がいいのかな。その刹那、アロハは切り身にぱくりと食らいついて「ごちそうさん」と言ってさっさと立ち去ろうとする。
「ちょっと、待ってよ」慌ててアロハを呼び止める。年のころは三十歳前後に見える。年齢的には探し人に合致する。呼びかけに応じてアロハは足を止めて言う。「試食は食べたけど、それを買うつもりはないよ」
「味の方はどうでしたか?」
「ああ、美味しかったよ。ありがとう」警戒しつつアロハが言う。
「そうよね。やっぱ天然マグロは一味違いますよね」ひっかけてみるつもりで天然をアピールしてみた。
「天然? 養殖だと思うんだけど」
男の発言に土偶が反応する。
「なんでそう思われますか」と土偶が訊く。あたしに対するよりも物言いが丁寧で客としての扱いに差を感じる。
「赤身にしては脂が乗り過ぎかなと」唐突に口を挟んできた土偶に対して、いくらかの動揺を見せつつもアロハが答える。
「脂が乗っている分には問題ないと思うのですけど」と土偶が言う。
「赤身にまで脂が回っているということは餌に恵まれて育ったのではないでしょうか。自然環境ではここまで太れないでしょう」アロハが断じる。
「でも、養殖だからまずいとか低級だとかっていう話ではありませんよ。最近の養殖のマグロは本当においしいですよね。脂が乗っている方が好きな方ならば、天然よりもこっちの方を喜ばれるんじゃないかなあ」とアロハが付け足して言う。ちゃらちゃらした恰好をしているが、アロハは意外と気配りさんである。
「問い合わせてきます。少々お待ちいただけますか」と言って土偶は奥に走って行った。
アロハがあたしに向き直って言う。「それで、これはどういう状況なのかな?」
あたしは経緯をかいつまんで説明する。それを聞きながらアロハはマグロ解体のなごりや並ぶ柵を眺めている。
「君がそれを騒ぎ立てなければ誰も知らないで済んだことだね。その方がみんな幸せだったんじゃないのかな」
「不正は糺されるべきよ」
「不正というか、ただの間違いじゃないのかな。そこの値札を見てごらんよ。不正なら天然ものを偽って、もっと金額を乗せて儲けようとするはずじゃないかな」値札を見ると、なるほど行き過ぎた価格のつり上げは見られない。とはいえ
「間違いは間違いでしょ。すでに買って帰ってしまったお客さんとか、後で気付いたら怒るわよ。きっと」
「こんなことに気付ける人がどれだけいるものかねえ」とアロハが懐疑的な意見を述べる。そこに土偶が戻ってきた。
「お二人のご指摘のとおり、養殖マグロでした。仕入れ元に問い合わせたところ、天然ものが獲れなかったので養殖ものを送るとこちらに連絡をしたとのことですが、どこかで行き違いがあったようです」
アロハが目配せしてきた。ほらね、と言わんばかりに。土偶が続けて言う。
「おかげさまで早期に誤りを発覚できました。いまから店内放送で買われてしまったお客様がまだいらっしゃるようでしたら返品対応させていただきます。こちらの商品は廃棄します」
「廃棄。ラベルを変えて天然の文字を消すだけでいいんじゃないの」
「商品の詰め替え疑惑につながるようなことはできません。それで、あの、出来ましたらお二人のお名前と連絡先をいただけますか?」
「なんで名前を教えなきゃいけないの」
「後日、改めてお礼を申し上げたいと思いますので」
「礼なんかいらない」「いやそう言わずに」「面倒くさい」「お手間はとらせません」等々の問答を繰り返して、最後にしぶしぶアロハが財布から名刺を取り出して、土偶に差し出す。その名刺をあたしは横からすばやく奪い取る。名刺には
キュイジーヌ アナリスト
暮根 雅人
電話 ×××-××××-××××
とあった。キュイジーヌアナリストってなんなの。なんともいかがわしい響きだけれど。奪った名刺を仕舞いかけたところで「それ一枚しか持ってないんで、返してくれないかな」とアロハが、いや、暮根雅人が言った。しかたないので、名刺を土偶に渡す。
「お嬢ちゃんのお名前と連絡先も伺っていいかな」と土偶が言うのを尻目に、あたしはそそくさとその場を離れた。
いや、しかし、一発でヒットするとは、あたしもなかなか運がいい。




