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ウンポコ・ポルファボールの再興 【 完結済 】   作者: 内田 食(うちだ はむ)
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病室、ミイラ男、バナナオムレット

「また駄目だったんですけど」と言うのは、これで二度目だ。

「え、またですか」合鍵が上手く機能しない旨を伝えると、合鍵屋の店主の毛穴が開いて汗が噴き出す。太っていて毛深いというだけも十分に暑苦しいのだけれど、さらに大量の発汗で眼鏡を曇らせている姿は見苦しいのを通り越して息苦しい。

「もう、他でお願いしますので、これで」と言って店を退出しかけると「もう一回だけ、やらせてください」と店主が言う。

 暮根雅人の家から駅に向かって歩いていれば見つかるだろうと思って進んで五分ほどのところに合鍵屋を見つけた。見つけたまではよかった。よく考えてみれば、一回目で不良品を掴まされたところで、他の店を探せばよかった。合鍵が使えなかったと報告したところ、当然新しくもう一本作ってくれた。それで鍵が開いてくれればよかったのだけど、それも不良品だった。もうすでにこの店に足を踏み込むこと三回目。そして、もう一回作らせてくれと言う。正直なところ、もうすでに二回も失敗しているが原因もわかってない様子なので、もう一度作らせてみたところで上手くいくとは思えない。

「それじゃあ、もう一回だけ。それが駄目なら、他の店を探します」縋りつくような目に負けて、もう一回を許容してしまう。

 店主は合鍵作りに取りかかる。マスターキーを台にセットして、その鍵の切り込みに合わせてリーダーのようなものを当てる。すると平行移動した先にある合鍵がグラインダーにあたって金属を削る。機械に明るくないあたしが見ても、その機能はだいたいわかる。これで上手くいかないとなる理由は二つよね。マスターキーか合鍵のセットの仕方が雑になってずれているか、それとも機械自体に歪みが出ているか。そして、店主はその可能性を考慮しておらず、三回が三回とも同じ作り方をしているようにみえる。おそらく、この三回目もまた失敗作で終わるのだろう。ああ、また暮根雅人の家とここを往復するのかと思うと面倒くさい。それよりなにより、すごく暑い。

「できました」と店主が嬉しそうに言う。あたしはそれを受け取って戻ろうとしたところで、店主が重ねて言う。「ぼくも一緒に行っていいですかね。鍵の様子を見たいので」

 四十歳くらいのおじさんが自分のことを、ぼく、と呼ばわるとは。まあ、勝手にすればいいわ。無言で頷くと、嬉しそうにカウンターから出てきて、先に店の外に出る。あたしが店外に出ると、シャッターを下ろして鍵をかけた。一人しかいないために閉めるしかないのか。しかし、こんなことで店を閉めちゃっていいのかな。

 あたしが先頭に立って進む。合鍵屋の店主が後ろを進む。最初のうちはちゃんとついてきているか気になって、いちいち後ろを振り返っていたけど、よく考えたらこのおじさんが道に迷おうが悪漢に攫われようが神隠しに会おうが、あたしには全然関係ないことに気付いて、それ以降は気にするのをやめた。暮根雅人のマンションに着いて後ろを見ると合鍵屋はちゃんとついてきていた。ただ、息は絶え絶え、発汗は爆発。これしきの距離を歩いた程度でそのありさまとは。長生きできないわよ、と言いかけて口をつぐんだ。

 三階に上がってドアを示す。合鍵屋がずっと握りしめていた合鍵をドアノブに差す。しかし、回すことができない。あたしのときと同じだ。店主は差し込みの長さを微妙に調整しながら、ドアノブに差して試すが、どの深さでも上手くいかない。もし、その方法でドアの鍵の開け閉めができたとして、あたしは毎回そんな繊細な調整をしながら鍵を回さないといけないってことなの。額の汗を左腕の袖で拭って店主が言う。

「駄目ですね」うん、そう言っているわよね、あたし。

「ブランクキーを間違っているのかなあ」と店主が言う。

「ブランクキーって?」

「削る前の鍵ですね。メーカーによって、元にする鍵が違うんですよ」店主にマスターキーを渡すと二つを重ねたり並べたりしながら見比べる。

「ですが、もう結構ですので。お引き取りください」

「え、せっかくこれで正しい合鍵が作れそうなんです。もう一回だけ作らせてください」さっき、これで最後だって言ったわよね、あたし。

「もういいです。帰ってください」と強めに言うも、いやもう一度だけと食い下がる。しばらく押し問答を繰り返すものの、やんわりと断っていては埒が明かない。

「うるさい。失せろ」と声音を固くして宣告する。店主は獲物から追い払われたハイエナのような表情をする。あたしは手を掃くようにして追い払う。恨めしそうな目つきをしながら合鍵屋が渋々引き上げていく。帰れ、帰れ。しかし、合鍵作るのに三回も失敗するとか、大丈夫なの、あの店。


 役に立たない合鍵屋を帰らせてから、改めて駅の方向に歩いていく。途中でさっきの合鍵屋に出くわすのはいやだったので、道を変えて早めに地下街に潜った。地下街。そうだ、地下街で靴の修理と合鍵を作ってくれる店を見た記憶がある。駅の向こうだった気がする。位置がわかっているつもりになって歩いていたが、よく考えると馴染みの場所に出るのもままならない地下街で、おぼろげな記憶を頼りに歩いても目的地に辿り着きそうな予感は薄い。しかたない。携帯電話に頼りましょう。携帯電話の地図は自分の居場所を表示してくれるので助かる。地図が表示されて案内を見たところ、近くに合鍵屋があることがわかる。自分のポイントとお店のポイントを見るに、ほとんど重なっている。ん、重なっている? と思って近くを見回してみたら目の前にあった。自力で探すのを諦めて携帯電話を頼ろうと思って視線を下げたから、この店が目に入らなかったのだ。間抜けすぎる。

 店に入って合鍵を頼むと、あっという間に削ってくれる。もし、この合鍵が駄目だった場合、ここまで戻ってこなくてはならないのか。ちゃんと場所を覚えておけるといいんだけど。帰る道すがらは、出来るだけ目印になりそうな店を覚える努力をしながら戻る。

 暮根雅人の部屋まで帰ってきて、恐る恐る鍵穴に鍵を差して回すと、ごく普通に鍵が開く。そうよ。そうよね。ほんとは開いて当然なのよ。最初の合鍵屋があんまり何回も失敗するものだから、そっちが普通なのかと思いかけてしまっていた。

 部屋に入るとボーちゃんが出迎えてくれて、一声吠える。奥から暮根雅人が出てくる。

「ずいぶん時間がかかっていたね」

「大変だったのよ」と仕事の出来ない合鍵屋の話をすると、暮根雅人はなにか思い当ることがある様子だった。

「その合鍵屋というのはここから五分の距離にある鞄屋の隣の店だよね」という暮根雅人の言葉にあたしは頷く。

「その合鍵屋に問題があることを俺は知っていた」と暮根雅人が言い、教えておけばよかったとか失念していたとかすまなかったとか謝罪し始めた。うん、まあ、しかたない。赦す。赦して遣わそう、暮根雅人。

「でも、まあ、とにかく合鍵は作れたわ。あたしはこのままアロアの見舞いに行くわね」と暮根雅人に言い、ボーちゃんを呼んで鞄を取ってくるように言いつける。

「スタンガンの装着レールは調節しておいたよ。装着時に具合が悪ければ教えて欲しい」と暮根雅人が言う。ボーちゃんから鞄を銜えて戻ってくる。それを受け取り、身体中をわしゃわしゃと揉みしだいて大げさに褒める。ボーちゃんは仰向けになってあたしに身を任せる。かわいいわね、ほんとに。

「ところで、明日は永島さんの火葬に関してなんだけど、君はどうする。来る?」

「永島さんの火葬」葬儀とは言わないのね。そういえば、式はしないと言っていたような気がする。もう顔もほとんど覚えていないくらいなんだけど、あたしもそこに行くべきなのかしら。

「お線香くらいあげてはどうかと思ってね」

「考えておくわ」と答えて居間を出かかると、暮根雅人がちょっと待ってと言って部屋の奥に行き、紙きれを持って戻ってくる。火葬場の住所と地図と時間が印刷されていた。それを受け取って、ちょっと眺める。都下の市営の火葬場のようだった。あたしはその紙を四つに畳んで鞄に収めて、病院に向かった。


 病室の前まで来ると中から話し声が聞こえた。アロアの声ではない。そもそもアロアはしゃべらない。男の声のように聞こえる。児童相談所の人間が来ているのだろうか。それとも空いているベッドに新しい入院患者が来たのかもしれない。扉を開けて病室に入る。アロアのベッドの上に、見知らぬ男とアロアが向かい合って座っている。アロアに語りかけながらあやしているように見える。聞こえる声は高くて軽い。包帯がぐるぐる巻きになっていて、顔はうかがい知れない。まるでミイラね。アロアに歩み寄ろうとした瞬間に、異臭が鼻を突く。このにおい。香水と雑巾。まったくほんとにどいつもこいつも。洗濯しろ、と脳内で叫ぶ。いや、ちょっと待って。あの包帯の上に飛び出している髪の毛は、もしかして金髪じゃないだろうか。これはまさか暮根雅人に殴られた雑巾小僧なのでは。あたしはポケットの中に手を入れて、スタンガンを握る。スイッチの位置を指で探る。

「アロアから離れなさい」とミイラ男に、いや雑巾小僧に言う。雑巾臭が伝染るから、という部分は伏せる。呼びかけられた雑巾小僧がこちらに顔を向ける。包帯に巻かれていない目がこちらに向けられる。

「ああ、お嬢! もしかして見舞いに来てくれたのか!」そんなわけないでしょ。あんたがここに入院しているなんて微塵も考えていなかった。居ると知っていたら来なかった。しかし、なぜ選りにも選ってアロアと同室なのよ。

「とにかく、自分のベッドに戻りなさい」とあたしは言う。もたもたと自分のベッドに戻る雑巾小僧を眺める。昨日着ていた黒い服ではなく、今は人間ドックのときに着させられるような服になっている。上は空色でメッシュのような生地に七分袖で聴診のために胸の前がはだけやすくなっていて、下も同じ色合いでウエストにゴムを利かせた七分丈。しかし、着替えているにもかかわらず、雑巾臭さに衰えを感じないのはどういうことなのだろう。それどころか、意気衝天の勢いともいえる。あ、いや、意気が天を突くのではなく、くさいのが鼻を突くのだから、臭気衝鼻かな。ともかく、頭の上から熱湯をかけて全身を煮沸消毒してやりたい。

 でも、なんだろう。怖くないな。怒りの感情は湧いてくるけど、恐怖の感情は見当たらない。昨日、公園で手首を掴まれたときにはもっと身がすくむような思いをしたけれど、今はそれがない。病院内で悪さをすることはないだろうと高をくくっているからか、あるいはスタンガンを握っているという安心感からかもしれない。

 お近づきになりたくはないのだけれども、訊きたいことはある。暮根雅人になにを言って殴られたのか。それと、なぜ刑事控訴を取り下げたのか。どう切り出そうかと思いつつ、嫌悪の目で不躾に眺めていたら、雑巾小僧は顔を伏せて頭を掻く。

「あんまり見つめられると恥ずかしいんだけど」と雑巾小僧が言う。見つめているわけじゃないわよ、と思う。顔は無様だし女心には無頓着だし、これになびく女性がいるのだろうか。

「昨日、遠目から見ていたんだけど」と言いながら、アロアのベッドに腰を掛ける。雑巾小僧から出来得る限り距離を取る。もちろん、手はスカートのポケットに突っ込んだままでスタンガンのスイッチに指を添える。

「見ていたなら、なんで止めてくれなかったのよ、お嬢。あの狂暴なおっさんを」いや、あたしが止める必然性はどこにもないけど。

「なにか挑発したから、そういうことになったんじゃないの」アロアをいつも通り、膝の上に乗せて撫でる。

「ん、いや、別に挑発なんかしてねえし。なんか言ったかな」雑巾小僧はベッドの上で胡坐を組みなおして黙り込む。しばらく見守るものの、腕を組んで唸るばかりだ。頭の打ちすぎで記憶が飛んでいるのではなかろうか。もしかしたら前後のことを訊けば、なにか思い出すかもしれない。

「それなら、なんであの場所にいたの?」

「そりゃあ、お嬢を探してからじゃん」探していた? あたしを? それでは暮根雅人が憂慮していたとおりではないか。

「話が途中だったのに、いなくなっちまったからさ」うん、得体のしれない炭酸で、あんたが吐いているうちに逃げた。

「で、あちこち探していたら、あのおっさんが現れて、近づいていてきたかと思ったら突然殴るわ、髪の毛掴んで壁に顔を叩きつけるわ、鼻は折れるわ、額は割れるわ、ほんと殺されるかと思ったぜ」そのへんは見てた。後ろ姿だったけど。

「最後に、お嬢になんかあったら、俺を殺すって言われた」殺すって……小学生の脅し文句か。しかし、この件に関してはこいつに訊いても無駄そうね。それは今度、暮根雅人本人に訊こう。なんとなく、話してくれなさそうな気配ではあったけど。こいつにはもうひとつ聞きたいことがある。

「刑事告訴を取り下げたって聞いたけど」アロアが撫でる手の人差し指を握ってきた。アロアはなにか訴えたいことがあるんだろうか。

「刑事告訴?」言葉の意味をわかっていないのか、その事実を認識していないのか。

「そういえば昨日、弁護士だっていうのが来たな。背は低くて痩せこけてんだけどなんだか威圧感のある爺さんだった」老人の弁護士。暮根雅人も弁護士が来たと言っていた。でも、会ってはいないみたいだったわね。聞いた話はすべて伝聞という風だったわ。

「どんな話をしたの」とあたしは訊く。

「なんだっけ? 証人がいる、とか?」暮根雅人はこいつの脳みそを揺さぶりすぎたんじゃないのかな。あやふやな答えしか返ってこないのは脳障害なんじゃないかしら。揺さぶられっ子症候群。

「証人って、なんの?」

「公園での暴行の目撃者がいる、とか言っていたな。なんでも俺がお嬢の手首を掴んだのが暴行行為にあたるんだとかなんとか。それしきのことで暴行とかいわれても、全然ピンと来ねえんだけどさ。ま、それで訴えられたくなかったら、署名しろって言われて出された紙に名前書いた」それだけ聞くと、脅して騙して署名をさせたみたいに聞こえるけど、弁護士ってそういうもんなの。その署名させられた紙が刑事告訴を放棄するような文面だったってことなのかな。それにしても、あたしも暮根雅人も弁護士を呼んでいない。呼んでもいないのに、勝手に事件を嗅ぎ当てて首を突っ込む弁護士なんかいるのだろうか。それにどちらかと言うと、この雑巾小僧にすり寄って、暮根雅人から慰謝料をたっぷり巻き上げてやりましょう、みたいな話に持ち込むのが普通の弁護士なんじゃないのかしら。

「でも、いいの? あんたの鼻を潰した張本人は無罪放免になっているわよ」

「いいさ、別に」意外とさっぱりとした答えが返ってきた。

「治療費は出してくれるって、その弁護士が言っていたし」いいのか、それで。

「鼻、曲がっちゃうとホストできなくなるんじゃないの?」あえて蒸し返してみる。

「まっすぐになるらしいよ。怪我する前より綺麗になるって医者が言ってた」鼻筋が通ったくらいで街中の婦女子がこぞって振り返るような顔になるとは思えないけど。

「でも、ホストはもうやめた」ふーん、そうかい、あっそう、勝手にやめれば、としか思わない。思わないのだけれど、理由を聞いて欲しそうに視線を向けられて非常にうざい。

「なんで?」視線に負けて尋ねる。

「いままで一人も客が付いたこともないんだよな。それで、店で待っているだけじゃ仕事にならないと思って、外で女の子を捕まえようとしたら、この様だろ。ま、縁がないんだな、ホスト稼業は。店でも厨房の手伝いとかばっかりやらされてるしさ。それに先輩とか客の女の子に酷い扱いしていて、そういうのを見ていてもおれには無理かなって、ずっと思っていた」

「酷い扱いって」いまだにアロアはあたしの指を握りしめている。雑巾小僧が怖いのかもしれない。物事に動じないように見えるアロアだけど人見知りの一つや二つあっても不思議ではない。

「喰いついてきた女には、冷たいんだよ。ひどいときには店に来た指名客をほったらかして出かけて他の女を引っ掛けてきたりする。そのくせ、金に困るとシャンパンタワーを女にねだったりしてさ」

「シャンパンタワー?」

「シャンパンタワーっていうのは、グラスを並べてさ。ピラミッドみたいな感じで。その一番上からシャンパンを注ぐのよ」いや、それはわかっている。なんとなくだけど。

「ねだるっていうのは、どういう状態なわけ?」

「客にそれを注文させるのよ。ホストっていうのはさ、客に金を使わせて店の売り上げに貢献することで順位がつけられる」

「ふーん」興味がなさ過ぎて、返事がそっけなくなってしまった。ホストをやる男にもそれにはまる女にもまるで共感が湧かない。

「やっぱわかってねえな、お嬢。このシャンパンタワーは恐ろしく高い。あ、シャンパンタワーの自体の高さじゃねえぞ。値段だ、値段」

「いくらくらいなの」

「値段の上下はあるけど、まあ自動車一台分くらいだな。新車でね」

「新車一台分」さすがに息を飲んだ。ふと、デパートに並ぶ有閑マダムたちの姿が目に浮かぶ。ああいう人たちがホストに通うのだろうか。

「そういう風なのもいるけど、ほとんどは普通のOLとかだよ」

「OLってそんなにお金を持っているものなの」アロアが指を握る力を強めてきた。じっと目を覗き込まれる。ああ、そうか。子供の欲求なんてよく考えたら、眠い、寒い、ひもじいの三つよね。アロアは眠ければ寝るし、寒ければ毛布をかぶる。つまりこの視線の意味するものは、お菓子よこせね。うん、ごめん。そういえばおやつを買うのを忘れていたわ。

「OLに車一台分の金をぽんっと払う稼ぎなんかない。消費者金融で金を借りたり、性風俗で働いたりする」

「それはお客が騙されるか脅されるかして、そういうことになっているの」

「いや、みんなシャンパンタワーの金額もちゃんとわかっているし、自分の推しのホストのためにやってることだな」

「そしたら、最初の質問に戻るんだけど、酷い扱いっていうのは?」

「これ聞いて、酷いとか、ろくでなしとか、そういうことを思わないの」

「騙されているわけでもなく、強制されているわけでもなく、自らそれをやりたいと望んでお金を払っているなら、誰にそれを咎めることができるのかしら。あんたは……そうね、世界一周旅行とかに行こうする人にそんなのお金の無駄だからおやめなさいって言うの? シャンパンタワーをやろうが旅行に行こうが、そんなのその人の自由でしょ。まあ、強いて言うとなにがその人たちを、シャンペンタワーに駆り立てるのかは知りたいけど」

「ああ、それは簡単。自分の推しのホストをナンバーワンにしたいから。月々の売り上げを競っているわけよ。ナンバーワンになると、そのホストを推している客は誇らしい気分になれる」くだらない、と思うがそれは口にしない。

「それなら、お客もホストも両方とも幸せになれるってことね」

「えーと、うん、まあ、そういうことになるのかな」

「みんな幸せ」無責任に答える。

「罪悪感もあってホストをやめようと思ったんだけど、まだ続けてもいいのかな?」いや、知らないわよ、そんなこと。だいたいあんたは客が一人もいないのでしょう。

「勝手にしなさいよ。あたしを巻き込まないでくれればいいわ」

「お嬢にちょっかいを出すと、また顔の形が変わるからな。いや、殺されるのか」

「ところで、顔以外は怪我してないのなら、下の売店に行ってお菓子を買ってきてくれないかしら。アロアにいつも差し入れでお菓子を買ってくるんだけど、今日はちょっと忘れちゃって」財布から紙幣を取り出すために、ポケットから手を出す。とたんにきゅーっと胃の縮むような音が聞こえて急激に不安に襲われる。急いで紙幣を出す。それを折って折って折って、雑巾小僧に投げつける。

「おいおい、金を粗末に扱うなよ。で、なにを買えばいいのよ」雑巾小僧が紙幣の皺を伸ばしながら言う。

「なんでもいいわ、適当に……いや、甘いものから選んで」気の利かなさそうな男なので、買うべきものを指示した方がいいような気がするが、あたしも下の売店に並ぶお菓子をすべて覚えているわけでない。甘いものと指定しておけば、さすがに激辛スナックとか堅いお煎餅とかを買ってくることはないだろう。

「んじゃ、まあ、行ってくるわ」と言って雑巾小僧が病室を出る。この息の詰まるような苦しさはフラッシュバックとかいうやつだろうか。さっきまで平気だったのに。もしかして、これから手を離したからなのかしら、と思ってポケットに手を入れてスタンガンを握る。すると、不安がすーっと退いていく。そうか、スタンガンが心の平静を保ってくれていたのか。さっきもらったばかりのスタンガンにすでに依存していたとは、自分の現金さに半ば呆れる。

 ああ、そうだ。ここに来た今日一番の要件を忘れていた。あたしは鞄からGPSのメダルを探す。これをアロアに持たせるのだ。そうすれば、急に施設に入れられるか、実家に戻されるかしても追跡できる。どうやってアロアにこれを常に持っていてもらうか、というのが問題よね。あたしは鞄からさらに裁縫セットを取り出す。そして、アロアの毛布の片隅を手元に引っ張る。裁縫セットから針と糸を出す。糸通しを使って、針に糸を通して、毛布の角を少し折り返す。折り返して作ったスペースにGPSメダルを入れて縫い合わせる。アロアはパンツしかはいてないし、持ち物らしいものもほとんどない。ただし、アロアは毛布を手放さない。どこにアロアが連れていかれようとも、毛布にGPSを忍ばせておけば、必ず居場所がわかるはず。GPSが作動しているのかどうかを確認したいところだけど、それは暮根雅人の携帯電話に入っているアプリケーションでないと見ることができない。

 縫い目を押したり揉んだりして強度を量る。移動時になにかに引っかけて、縫い目が裂けるということもあるかもしれない。念のため、二重三重に縫い込んでおく。その結果、冬ごもりのミノムシのような武骨な仕上がりになってしまった。まあ、丈夫さが第一で見た目は二の次よね。縫った部分をアロアに触らせてみたが、その部分を気にする素振りは見せなかった。これならばアロアにGPSの機械をほじくり出される心配もないだろう。

 しかし、遅いわね。一階の売店までの買い物にどれだけ時間をかけているのよ。雑巾小僧の顔は見たくもないのだけれど、お菓子はさっさと持ってこいと思う。ポケットの中のスタンガンの縁に指を滑らせる。スタンガンを握っていると安心なんだけど、ポケットに手を突っ込んだままでいるのは不審だなと思う。腕に仕込むスタンガンのレールの有用性を理解した。あれを装着すれば両手は自由になる。しかも、腕を振れば瞬時に出てきて掌中に収まる。自分のいくつかのブラウスを思い浮かべる。袖口はどのくらい開いていただろうか。冬服ならそんな心配しなくともいいんだけどな。ブレザーの袖口はゆったりしているのがわかっている。突然、病室の扉が開く。

「遅い」とあたしは言う。

「あら、遅かった? ごめんなさい」と留美さんが言う。

「あ、いえ、違うんです。ここにいた雑巾」と言いかけて、言い直す。「金髪のミイラ男におつかいを頼んだんですけど、いつまでも戻ってこなくて」と言い訳をする。

「新しい患者さんに会ったのね」会いたくもなかったですけどね、と前置きして、ざっくりと顛末を説明する。暴行に及んだのが暮根雅人であることも話す。留美さんは腕を胸元で組み、頷きながら話を聞く。話し終わると留美さんはひとつ息をついて「そんなことがあったのね」と言う。

「あの坊やの怪我の程度はたいしたことはなかったわよ。血はたくさん出ていたけどね」

「坊や、と呼べるようなかわいいものじゃないです」と留美さんに抗議する。しかし、血は出ているけど、たいしたことはないというのは暮根雅人も同じようなことを言っていた。たいしたことのある場合というのは、どういうことを差すのだろう。

「そうね。頭蓋骨を骨折するとか、顎の骨が折れるとか。頭蓋骨の場合、線状骨折と陥没骨折っていうのがあって、線状骨折はまあどうでもいいわね。頭蓋骨にひびが入るだけ。陥没骨折は脳を圧迫したり損傷したりするかもしれないからやっかいね。顎の骨折も面倒よ。嚙み合わせが狂うこともあるし、口が開けられないし、つまり治るまで流動食くらいしか食べられないわね。そういう意味だと、鼻が潰れただけだのも。鼻骨のずれを直して固定すればおしまいよ」鼻が潰れただけって。

「ま、頭を打っているって話だったから、いちおうCTスキャンにかけて、様子見のために入院させたの。服は血まみれなのとにおうのとで、たまらないから剝ぎ取って洗濯したわ。それにしてもやさしいお兄さんね」いや、めっちゃ暴力振るっていますけど。どこにやさしさがあるのかわかりませんけど。

「あら、だって、香都ちゃんのためにやったことなんでしょ。やさしいじゃない。それにさっきも言ったけど、あの坊やの怪我だって見た目ほどたいしたことないのよ。暴行にも親切を感じるわ」なんだろう。人の倫理観がわからなくなってきた。そこにようやく雑巾小僧が戻ってくる。

「なんすか、楽しそうっすね」と言いながら、買い物の袋をベッドに置く。中からバナナのオムレットを三つと飲み物を三本出す。

「三つも買ってきたの。アロアの分だけでよかったのに」とあたしが言う。

「看護婦さんの分はないっすよ。すいませんね」と雑巾が言う。

「あら、私はいいわよ。勤務中ですからね。みんなで楽しんでね」と言いながら留美さんは部屋を出る。その去り際に「なにかあったら、すぐにナースコールを押してね」とあたしだけにそっと耳打ちする。そうよね。ここは路上じゃなくて、病院の中なんだもの。そこまでスタンガンに頼らなくても大丈夫。

「お釣り」と雑巾小僧が言って、手のひらを開くと銅貨とアルミ貨が数枚乗っている。うん、そんなお釣りはいらないわ。

 アロアが透明なフィルムの上からかぶりつきそうなのを寸前で止めて、袋を開けてあげる。その間、アロアは涎を垂らしながら眺めていて、隙あらばあたしの指ごと齧りつきそうな様子で待つ。できるだけ急いで袋を開けて、手を放し「はい」と宣言する。F1のピットクルーのタイヤ交換みたいな感じで。すかさずアロアがバナナオムレットにがぶりと食らいつく。その食べ姿はピラニアを思わせる。

「あんまり焦って食うなよ」と雑巾小僧が言いながら、紙パックのオレンジジュースにストローを差してアロアに渡す。ちょっとは親切なところがあるようね。

「ほら、お嬢も食べなよ」と言って、オムレットを放る。

「飲み物はなにがあるの」とあたしは尋ねる。

「コーヒーとお茶」

「お茶」言ったとたんに、それも放る。なんだか乱雑なのよね。でも、そばに寄ってこられると困るので、それを考えると投げつけてくる方がましだ。フィルムをきれいに裂いて中身を出す。どう食べたものかと少し逡巡する。アロアのように豪快にかぶりつく真似はあたしにはできない。先端を少し齧る。うん、いいわね。スポンジと生クリームでくどくなりそうなところにバナナが緩衝材として利いている。お茶のペットボトルを開けるため、オムレットを膝元に置くとアロアに素早く奪われる。素手で掴んで口に押し込む。以前になにかで見たことのあるホットドッグの大食い大会の選手の食べ方を思い出す。ほとんど噛まずに口の奥にぐいぐいと押し込んでいく。息ができるのかと心配になるが、目はらんらんと輝いている。すごく気に入ったようね。今度からオムレットをおみやげのローテーションに入れよう。鞄からハンカチを出して、アロアの顔中についた生クリームを拭う。

「取られてやんの。とろいな」と雑巾小僧が言う。

「いいのよ。あたしは別にいらなかったんで」

「で、その子とどういう関係なわけ?」

「娘よ」

「嘘だな」即答で否定された。

「なんでそう思うのよ」

「軽いんだよ。存在が軽い」体重の話なの。体重の軽い重いで出産経験の有無を語ろうとしているの。

「そうじゃねえ。たとえば、いつまでも結婚しない年増とかいるじゃん。そういうのは年を食っているけど、どこかふわふわしてる。逆に子供産んだ女はどっしりしてる。それは若くても年増でも変わらない。年齢の問題でも体重の問題でもねえのよ。その重みが責任なのか、根性なのかわかんねえけどさ。だから、あんたはその子を産んでねえ」わかるような、わからないような。なんとなく、こいつが言おうとしているのは覚悟ってことなんじゃないかな。産んだ子供の人生のすべてを背負う覚悟。あたしにはこの子を育てようと思う気持ちはあるけど、そういう覚悟はなかったかもしれない。それをこんな男に見透かされたってことか。お茶のペットボトルを一口飲んで蓋を閉める。アロアのベッドから立ち上がって、荷物をまとめる。またね、という気持ちを込めてアロアの頭をぽんぽんと優しく叩く。

「ゴミをその袋に入れてよ」と買い物袋を指さして、雑巾小僧に言う。

「捨ててきてくれんのか。悪いな」と言って雑巾小僧はオレンジジュースの紙パックとか缶コーヒーの空き缶とか食べ終わったオムレットの包装とかを袋に詰める。あたしはそれをさっとひったくる。アロアに変なことをしないでよ、と言いかけてやめる。さきほどの雑巾男がアロアにオレンジジュースを渡す様子を見るに、そういう心配は不要だろう。あたしは軽く手を振って病室を後にした。


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