ベルギー、峯平アロア、ワッフル
圧迫感。誰かがあたしの胸を押さえつける。均一で均等な一定の圧が胸に無感動にのしかかり続ける。揉んだり撫でたり摩ったりといったいやらしい要素を含んでいないので気持ち悪いとは言わないが息苦しい。なにかわからないが、とにかく離れてほしい。突き飛ばしてやろうと思うものの、なぜか腕がうまく動かせない。動かない腕の先になんだか風を感じる。いや、風というにはあまりにも局所的で、手首のごく狭い範囲にぶつかる空気の塊で、それはわずかに湿気った熱を持っている。まるで、誰かの鼻か口があたしの手の間近にあるような……
そこで、はっとして腕を引く。なにかが手に触れた。濡れた冷たいなにかの先端。間違いなく生き物のなにかが。
それで目が覚めた。さっきまでの感覚はすべて夢か、と考えていると目が覚めたにも関わらず胸にかかる重みは続いている。視線を胸元に向けると、仰向けに寝ているあたしの上にアロアが乗って寝息を立てていた。アロア、無事だったんだと思った瞬間に不快だった圧は心地よい重みに変わる。アロアを抱きしめたくなるのをぐっと堪える。気持ちよく寝ているところを起こしたくない。アロアはいつものお気に入りの毛布をちゃんと握りしめていた。アロアと毛布の邂逅が果たされていることを喜ばしく思う。
アロアに気を使いつつ室内を見回すと、機械の設置された小机とか本棚とかサイドテーブルとか見覚えのあるものが目に入る。油のにおいもする。食用の方ではなく、自転車のチェーンに使ったりドアの蝶番に差したりする方の油だ。あたしが寝ているのは暮根雅人のベッドのようだ。
そこに再び、生暖かい風を手に受ける。あれ、さっき手を引っ込めたつもりだったけど、夢の中の出来事だったのだろうか。風を浴びる手に目をやると、ボーちゃんが鼻で手を突いていた。ボーちゃんだったのか。気持ち悪いとか言って、ごめん。手を上げてボーちゃんの頭をぽんぽんと軽く叩いて、もう起きたよという気持ちを伝える。
あたしは身体を返してアロアを起こさないようにベッドに移動させつつ自らはベッドから抜け出る。起き上がると頭が痛む。脈動に合わせて痛むこめかみを両手でさする。そのときに上げた腕の袖口が目に入る。返り血を浴びて真っ赤に染まった衣服を想像したのだけれど、そういう痕跡はうかがえない。着替えさせられたのだろうか。いや、でも、これは自分の制服であって、ここに着替えがあるはずもない。不審に思いつつ、忍び足でドアに近づいてそっと開ける。あたしが部屋を出るよりも先にボーちゃんが室外に出る。ボーちゃんにはアロアを見守っていて欲しかったけど、まあ出てきてしまったものはしかたない。ボーちゃんと一緒に廊下の先の居間のドアを開けて入る。
「おはよう」と暮根雅人がコンロの前でステンレスのボウルの中身を菜箸でかき混ぜつつ言う。
「うん、えーと……」えーと、の後になんと続ければいいのだろう。峯平が死んだかどうかをストレートに訊くべきなのか。
暮根雅人はボウルの中身を鋳型のようなものの中に流し込んで挟む。とたんに溶けるバターと焦げる砂糖の香りが辺りを舞う。
「買っちゃったんだよね。ワッフルメーカー」と暮根雅人が柄のついた鉄の塊を振り回しながら嬉しげに言う。ワッフルか。ワッフルね。いや、なんでワッフル?
「ワッフル、嫌いだったかな」と暮根雅人が言う。
嫌いとは言わないけれども、好きと言うわけでもない。生焼け気味の生地にクリームとかジャムとかを挟み込んだばさばさとした食感のがっかりおやつよね。出されれば食べるけれども、自分から買うことはない。
暮根雅人がワッフルメーカーを開くと、綺麗な焼き色を纏った格子のでこぼこが出てきて、それを手早く皿に移してグラス一杯の冷たい牛乳と一緒に手渡してくる。アイスコーヒーではなく、牛乳を渡されたということは、ワッフルにはこれが合うということなのだろう。
ローテーブルに皿とグラスを置いてソファーに腰を下ろすと、すぐに暮根雅人もやってくる。しかし、あたしの飲み物は牛乳なのに、暮根雅人はアイスコーヒーではないか。
「よく考えると、君にコーヒーはまだ早い」と暮根雅人が自分のアイスコーヒーを啜りながら言う。なぜ急に暮根雅人があたしを子ども扱いすることにしたのかを訝しみつつワッフルに齧りつく。
バターの香りが芳ばしく、ほどよい甘みが口に広がる。だが、瞠目すべきはその歯ごたえである。格子の模様の薄いところは固く、厚いところは緩く、緩急のついた歯ごたえが楽しい。なるほど、ワッフルの生地をホットケーキのように丸く広げて焼いてしまっては、この楽しさは味わえない。鋳型に意味があり、咀嚼に喜びがある。そして悔しいことに牛乳がまたよく合う。
「おいしい」
「焼き立てだからね」と暮根雅人が自慢げに言う。たしかに時間が経つと、このカリフワ食感は消えてしまうだろう。消えないまでも、エッジの効いた噛み味が削がれることは間違いない。
「それで、なんでアロアがここにいるの?」
「いやいや、君の訊くべきことはそこじゃないだろう」と暮根雅人が言う。たしかに一番気になるのは峯平の生死だ。
「服に血の跡がないんだけど…」と少し遠まわしに訊く。
「ああ、自分がなにをやったのかはわかっているんだね」と暮根雅人が言う。
「包丁で峯平の首を切って転んで気を失った」とあたしが言う。
「気を失ったのは転んだからじゃないよ。コアントローの飲みすぎだね」と暮根雅人が訂正する。「まったく、ごまかすのに苦労したよ」
「ごまかす? なにを?」
「君がやったことを冗談としてごまかすのが大変だったって話だよ」冗談? 冗談で人は殺さないし、冗談だったからといって殺人が許されるものでもないのでは?
「ああ、大丈夫。君は誰も殺してない。峯平氏もケガ一つない」
「そんな……え? 包丁を当てて引いたときの確かな手ごたえがまだ手に残っているけど」
「あの包丁は刃が潰してあるんだよ」ん?
「あれではなにも切れません」んんん?
「だから、君が殺意をもってあんなことをしたんじゃなくて、ただの冗談だったと説明するのが面倒だったって話をしているんだよ」
「あんな男は殺さないとアロアが……」
「アロアちゃんはうちで預かることになった」と暮根雅人は言った。「いちおう擁護すると、峯平さんはそんなにおかしい人じゃないよ」
「でも虐待している」
「虐待しているわけでは……いやまあ、ある種の虐待か。ただ君の思うような暴力的虐待ではない。ネグレクトだったよ」ネグレクト。
「育児放棄だね」と暮根雅人が言う。「育児放棄と言っても、食事だけはちゃんと与えていたいみたいで、おかげで血色や肉付きはいいよね、アロアちゃん」
育児放棄か。たしかにアロアは誰かに面倒を見てもらわなくても、自分のことは自分で出来る。一人でトイレだって行ける。だから、履いているのはおむつではなくパンツだ。一度、トイレの様子を見たことがあるけど器用に便座に上がって用を足したら紙で拭いて水を流していた。言葉は話さないのだけど、やらせればなんだってできる子だ。
「そうそう、だからごはんさえ用意してあげていればアロアちゃんは自分で生きていける」という暮根雅人の言葉に頷く。
「逆に峯平さんは大人だけど一人では生きていけない人間みたいだった」
「ん?」
「峯平さんの家の中はゴミだらけなんだよ」ゴミ屋敷。
「大きなポリ袋にゴミをまとめてはいるんだけど、捨てられた形跡がない。室内も廊下もいたるところがポリ袋だらけで大人でも歩き回るのに難儀するんだけど、アロアちゃんはそれらをよじ登ったりよじ降りたりしないと移動ができない。その過程であちこち身体をぶつけた結果、傷だらけなんだと思う」ゴミの山の中でアスレチックをやらされているということか。やっぱりそれって虐待じゃないの。
「悪意はない。たぶん」
「お酒飲んで車を運転して人を撥ねて殺しても、悪意はなかった、で許されるものなの?」
「殺意を持って包丁を振り回した君が言えることではないね」あたしは結果的に人を殺してないみたいなので酒気帯びの過失運転致死と比較されても困るんだけど、この話をループさせるのも面倒くさい。
「お母さんはいないの?」と違う角度の質問をする。
「逃げられたらしいよ」と暮根雅人が言う。峯平が奥さんに逃げられたという点に不思議はない。むしろ、あのファッションセンスの峯平氏が一瞬でも結婚できていた方が不思議と言える。なにが原因で逃げられたのかは知らないが、さっさと奥さんのところに行って土下座して謝って帰ってきてもらうしかないのではないだろうか。
「ちょっと遠いんだよ」と暮根雅人が答える。遠いとか、近いとか、そういう問題ではないのでは。
「いや、ほんとに遠い。ベルギーだから」あら、国内の範囲ではない、と。「ちなみに、峯平さんはアロアちゃんがいれば、いつか奥さんが戻ってきてくれるんじゃないかと期待している、ように見える」
「ところで、ベルギーってどこ?」
「オランダとフランスの間じゃないかな。というか、なんで知らないの?」知らないわよ、外国の地理なんか。
「いや、そうじゃなくて、フランダースの犬がどうこうと言っていたよね」アロアの名前に関しての話としてならしたけど、いや、それ、なんの関係があるの。
「ベルギーの話でしょ、それ」
「え、フランダースの話じゃないの?」
「だからそれがベルギーだって」
「アントワープも?」
「ベルギーだね」暮根雅人が言う。「それとアロアちゃんは奥さんの連れ子だそうだよ」峯平氏の血は入っていないのね。だからこその金髪碧眼。なるほど。
「アロアちゃんの言葉が遅いのは、その辺に理由がありそうだね」
「峯平のせいってこと?」
「いや、そうは言わないけど……ベルギーで聞き馴染んだ言葉が、えーと、あれ、ベルギーって何語を話すのかな? まあ、いいや、ベルギー語だかオランダ語だかフランス語だかドイツ語だかで生活していて、そろそろ喋り出すような頃合いで突如環境が変わって日本語まみれになったとしたら、相当戸惑うんじゃないかな」それは、ちょっとわかる気がする。
そのとき、居間のドアが開く。アロアが目をこすりながら入ってくる。右手にはしっかりと毛布を握っていて、その毛布は床に引きずられている。
暮根雅人がアロアを抱き上げてソファーのところまで行って座らせる。キッチンに取って返して皿とグラスを持ってくる。皿のワッフルに軽く触れて温度を確認する。
「ほどよく冷めたみたいだ。これなら大丈夫だろう。はい、どうぞ」と暮根雅人が言いながらアロアにワッフルと牛乳を差し出す。ワッフルを前にしたアロアの瞳がいつもよりも輝いたように見えた。手にバターがつくのも意に介さず、両手でがっしりとワッフルを掴んで齧りつく。とたん
「まま!」
と口の中のワッフルを吹き散らしながらアロアが言う。
「ママ!」とあたしもびっくりして復唱する。アロアがしゃべった。アロアはワッフルでベタベタになった手でもって、暮根雅人のジーンズにしがみついている。暮根雅人は少し迷惑そうに顔が引きつりつつも、それでも無理に笑顔を作る。いや、しかし……なぜ、暮根雅人がママなのか。
「懐かしの母の味だったんじゃないのかな」と暮根雅人が言う。ワッフルが?
「君、ほんとにベルギーに疎いね。というか、俺はベルギーっていったら、ワッフルしか思いつかないよ」
世界にはそんなの常識があったのか。それならば、もしあたしがベルギー=ワッフルの関係に先に気付いて先にアロアにワッフルをあげていれば、ママの称号を得られていたのだろうか? いや、それとも、あたしは母性で暮根雅人に劣るということなのか? あー、アロアにママって呼ばれたかった! いや、あたしの方こそがママでしょ。暮根雅人は男だし。納得がいかない!
「大丈夫。実際問題としては君がママだ」と暮根雅人が言う。実際問題ってなんだ。憤りが止まらない。
むくれた様子を察した暮根雅人がアロアを抱き上げて、あたしの隣に座らせる。寄り添ったアロアがあたしの指を手のひら全体で握りこむ。それで心が安らぐ。まあ、あれだ。下手をしたらあたしは誘拐犯だったわけで、そしたら今頃アロアを抱えて路頭に迷っていたという可能性だってある。それを思えば、この状況は僥倖とも言える。アロアにママと呼んでもらえなかったからといってそれで暮根雅人を恨むのは筋違いというものだ。むしろ、感謝すべきところである。感謝するのか? あたしが? 感謝か。感謝ね……
「ありがとう?」悩みながら述べた謝辞はいくらか語尾が上がっておかしな発音になってしまった。
「うん? なにが?」という暮根雅人の返答でまったく謝意が伝わっていないのがわかる。
「アロアを引き取ってくれたことに対して」
「ああ」と上げる暮根雅人の声音には気まずさを隠すような響きを感じる。
「ほんとは、この子をおふくろに預けるつもりだったんだけどさ。断られた。秒で」ん?
「だからさ、アロアちゃんの面倒は君にみてもらうしかない」んん?
「よろしくお願いします」んんん?
礼を述べる必要なんてなかった。あたしのありがとうを返せ。
「俺、ちょっと忙しくなるんだよね」忙しい? キュイジーヌアナリスト業が? あんなものに注文が殺到するとは思えないけど。
「いや、店をやることになってさ」と暮根雅人が言う。
どういうこと? 急すぎない? いつから? ってか、どこに? いや、なんの? イタリアン? フレンチ? まさかの和食? といろいろな質問が嵐のように脳内を駆け回りつつ、真っ先に口から出たのは「お店の名前は?」という問いだった。
「ウンポコ・ポルファボール」と暮根雅人がよどみなく答えたところをみると、以前から温めていた名前なのだろう。前の店名がポルファボールだと聞いた記憶があるので、その関連なんだろうとは思う。しかし
「ウンポコって……」とあたしは絶句する。




