居酒屋Ⅱ、峯平兵庫、グレープフルーツセクション
暮根雅人がシャッターを開けて、暗い中に分け入って明かりを灯す。店内から漏れ出た空気が冷ややかに肌を撫でる。心地よいと思えたのも一瞬のことで吸い込んだその空気の淀みに辟易とする。口を手で塞ぎつつ店内に換気扇を探す。厨房にそれを見つけてスイッチを入れる。淀みの解消には時間がかかるだろうが、まあしばらくは我慢するしかない。
「ねえ」とあたしは暮根雅人に尋ねる。「永島さんが倒れたのって、どの辺なの」
買ってきた食材を冷蔵庫に突っ込んでいた暮根雅人がカウンターの前の床を指さして「ここだよ」と言う。
示された床に目を落とすが、血がこびりついているような様子はない。
「掃除しといたからね」と暮根雅人が言う。それは助かる。血糊を踏みつけたりすると、亡き人に対しての冒涜のようで気分が悪い。あたしはその場にしゃがんで、手を合わせる。手を合わせたものの、いったいなにを思えばいいのだろう。生前の思い出というようなものはなく、交わした会話も一つ二つ。それも、勘違いした永島さんの一方的発言に終始した。あの会話の中から、手を合わせるのに適切な言葉を見繕うのは難しい。
当たり障りのないところで文言を探るなら、安らかにお眠りください、だろうか。それとも、南無阿弥陀仏。キリスト教ならアーメンなのかな。うん、アーメンはないな。
なんとなく「なむあみだぶつ」と唱えてみる。口に出すと、なんだかしっくりくる。あたしに信心はないけれど、言葉の型みたいなものになにかしらの力があるのかもしれない。
あたしが立ち上がると暮根雅人はいつの間にかシンクを磨き上げていて、今では包丁を研いでいる。「いや、錆が気になってさ」と誰にともなく言い訳する。あたしはそのままカウンターに座り「なにか音楽をかけてよ」と暮根雅人に言う。
「音楽かけろって、ほんと自由奔放だよなあ、君は。えーと、たしか有線があったな」と言って暮根雅人が厨房の奥の方にある機械を操作すると、軽薄な電子音に安っぽいフレーズが響く。
辺りの空間をあやふやに指さして「なにこれ?」とあたしが訊くと「えーと、八十年代洋楽チャンネル」と暮根雅人が答える。そうじゃなくて、曲名っていうかバンド名っていうか、そっちを訊いているんだけど。
こちらの意図を察したらしい暮根雅人が「ヒューマン・リーグの『愛の残り火』」と答える。
「これ、いつ頃の曲なの?」と訊くと「一九八一年」と即答する。
「そしたら、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』は?」と質問を変えると「一九七九年」とこちらも即答。
軽薄なヒューマン・リーグを聴きながら、重厚なピンク・フロイドを思い返す。たった二年で世界は軽薄化したのね。「いや、軽薄な音楽はいつの時代にもあるけどね」と暮根雅人が小さくつぶやくのを無視する。だいたい、この薄くてヘボいこのコーラスはなんなのだ。アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォールの子供のコーラスを見習え。
「ウォールのコーラスは子供を四十人集めて、それぞれを全部別トラックで録音しているらしいよ」と暮根雅人がわけのわからないうんちくを披露する。いや、コーラスだったら、あれがよかった。なんだっけ? わりと最近聴いたはずだったけど……と思いを巡らせていると、「ミートローフ」と声がかかる。そうか。そうだった。でもミートローフというよりも「ジム・スタインマン」そう、そっち。ミートローフもボニー・タイラーもファイアー・インクもコーラスが印象的だった。コーラスが入るところに差し掛かると心躍るのよね。しかし、あたしの人生でよもやコーラスというパートが重要だと思う日がやってこようとは。人生、どんな転換があるかわからない。コーラスに思いを馳せているうちにヒューマン・リーグが終わり、次の曲がかかる。トーキング・ヘッズの『サイコキラー』だ。暮根雅人が知ったかぶりして教えてきたら、機先を制して曲名を言ってやろうと思って身構えるも、それを察したかのように口を開く気配がない。つまらない。
デヴィッド・バーンがサイコパスの内面を歌い上げるのを聴きながら壁際を眺める。上部に飾られた長い包丁がいやでも目に入る。昨日の合鍵屋の手首をスタンガンごと叩き斬ったり、側頭部を包丁で串刺しにしたりするところを想像する。手首から止めどなく溢れる血のにおいとか、頭に突き刺した包丁が骨を砕く手応えとか、そんなことを。
果たしてそんなことができるのだろうか。必死だったから、そのくらいやったかもしれない。あるいは怖気ついてそんなことはできなかったかもしれない。わからない。
視線を落とすと棚に酒瓶が並ぶ。端から順にラベルの銘柄を眺める。剣菱、菊正宗、白鹿、松竹梅、黄桜、男山、駒泉、亀吉、浜千鳥、山吹、銀嶺、出羽桜、米鶴、文楽、澤乃井、多摩自慢、朝日山、久保田、若鶴、天狗舞、富久娘、雲山、八剣、千代菊、奥飛騨、杉錦、白楽天、高砂、一吟、沢の鶴、日本盛、大関、春鹿、山鶴、宇宙一、いなば鶴、大泉、有春、桜吹雪、雁木、豊醇、などなど。いや、多いな。とはいえ、これが現存する日本酒のすべてというわけではないのだろう。
お相撲さんの名前っぽいものが多い。あと、鶴や桜の漢字が多い。歴史が滲み出る名前もあれば、箔を感じない名前もある。ところで、菊正宗と鳩正宗と笹正宗と旭政宗と櫻正宗と泉政宗はシリーズものなのだろうか。日本酒と正宗は切っても切れないなにかがあるのか。全体を見渡したけれど、やはり洋酒は隅にある、あの一本だけだ。読み方がわからないどころか、文字自体もわからないので、質問もできない。
「グランマニエだね。オレンジリキュール……いや、ホワイトキュラソーっていうのがいいのかな。よくわかんないけど」と暮根雅人が言う。
「なんで、この一本だけ洋酒なの」とあたしが訊くと「そのボトルは俺のリクエストで置かれているものだね。もっとも、ほんとはコアントローを永島さんにはお願いしたんだけどね」と暮根雅人が答える。
「コアントローとは?」と訊くと「グランマニエと同じでキュラソーだね」と答える。リキュールもキュラソーもよくわからない。
「ああ、ごめん。といっても、俺も酒の在り様はそんなに上手に説明できないな。まあ、オレンジリキュールはオレンジの皮を使って作った柑橘系の香りがするお酒だよ。キュラソーっていうのは、オレンジリキュールの総称」
それは言葉の響きから類推できるので、そんな説明なら不要だぞ、暮根雅人。
「それと砂糖で作ったシロップにグレープフルーツを漬け込むんだよ」
そんなのをコンビニで見たことがある。日持ちの悪い缶詰みたいな、フルーツのシロップ漬けだ。なんだかえらく苦くて渋かった印象があるけど。
「なにを想像しているのかはだいたいの見当はつく。でも、コアントローのグループフルーツ・セクションをそんなのと一緒にしないで欲しい。革命的変化を君にもたらす」
ほんとかしら、という質問の代わりに左の眉毛を少し上げる。
「ま、騙されたと思って食べてみなよ。これ、材料。買ってきて」暮根雅人は言って財布とメモをよこす。メモにはグレープフルーツ、コアントロー、それに聞いたことのない銘柄の醤油の名前が書かれている。なんだ、この醤油を買ってこさせたいだけか。ぱしりね。まあ、いいけど。
財布の中身をちらりと確認すると高額紙幣が何枚も入っている。醤油がいくらなのか知らないけど、お金が足りないということはなさそうね、と思いつつ店を出る。
制服を着ていることがこういう局面でひっかかるとは思わなかった。サボり始めた当初は、補導員に捕まるかもしれないと思ってびくびくしていたこともあったが、どうもそんなことは起こりえないと肌で感じて安心しきっていた。
「未成年にお酒は販売できません」とデパ地下のレジのおばさんにぴしりと指摘される。
グレープフルーツ十個とコアントロー一瓶と醤油を入れたカゴをレジに置いて、しばし呆ける。なるほど。たしかにコアントローの瓶にはアルコール度数四十度と記され、店内のあちこちには未成年の飲酒は法律で禁止されています、と書かれている。でも、あたしがこれを飲むわけではないのだ。あ、いや。コアントローを直接飲むわけではないという意味で、漬け込まれたグレープフルーツを食べる気は満々ではある。でも、それはきっと飲酒にはあたらないのではないだろうかと思いたい。
「母に頼まれたんです」と嘘をついて嘆願する。あたしが簡単に引き下がりそうにないと悟ると、レジのおばさんは「上の者に聞いてきます」と言ってレジを離れる。堅苦しいことを言わない人が上司であることを祈りつつしばし待つと、おばさんは見覚えのある男性を連れて戻ってきた。
「先日はどうも」とあいさつをすると「いやいや、こちらこそその節はほんとにお世話になりました」と汗かきの土偶が言う。鮮魚担当なのかと思っていたが、あちこち掛け持ちしているのだろうか。もしかして、意外と偉いのかもしれない。
「このお酒、あなたが飲むわけではないんですよね」と土偶が確認する。あたしは力強く、ぶんぶんと首を振る。飲むわけではない。決してない。
「わかりました。いいですよ。それと、お代も結構です。先日のお礼ができていませんでしたから」と言いつつも、レジに商品登録をしてレシートを吐き出させる。「在庫管理の問題があるので」と誰に対しての発言なのかわからない釈明を土偶が述べる。もしかしたら防犯カメラに対して陳情しているのかもしれない。そして、グレープフルーツ十個とコアントローと醤油をレジ袋に詰めて渡してくれる。
お金は暮根雅人のものであたしのふところが痛むわけではないから、支払いをするのはまったくかまわない。かまわないのだけれども、どうしても支払いますと言ってお金を押し付けるのもなんか違うように思える。
「ありがとうございます」と言って素直に受け取る。簡単な買い物と思って出てきたが、意外と手間取った。
永島さんの店に帰り着く。入口を開けて「もう、まいったわよ。未成年にへんな買い物させないでよね」と言いながら入ると、目の前に見慣れない人物がいる。着ているスーツの襟はダブルだけど、ボタンのあしらいはシングル、色は銀かと見紛うほどのきらきらとしたグレー。タキシードなのかモーニングなのか見分けがつかない。そもそもタキシードとモーニングの違いがわからない。
首元には蝶ネクタイではなく、スカーフのようなものを巻いている。たしかアスコットタイとかいうやつで色は赤と茶と紺と黄の織りなすペイズリー柄。シャツはウイングカラーシャツで胸元にはブリーツが入っていて、なんというか、その、プリンス・アンド・ザ・レボリューションという感じだ。「若いくせに言い出すことがほんとに古いよな」と言って笑う暮根雅人を無視する。
この男がアロアの父親。しかし、黒髪に黒い瞳のこの男はどう見てもこの国の人間よね。アロアは金髪碧眼で肌真っ白なんだけど、どういうことなのかしら。アロアの父親から目を離せぬままに、厨房の中にいる暮根雅人に買い物を渡す。
「グレープフルーツ、こんなに買ったの。え、フルボトルのコアントローかよ。ミニチュアボトルとかあったでしょ。いったいどれだけ食べる気なんだよ」きちんとメモに分量を書いておかないからよ。でも、そんなことより
「アロアを虐待しているでしょう」とあたしは単刀直入に言う。
「私は虐待なんぞしておりません」と自分のことをワタクシというやつを初めて見た。「そんな根拠のない誹謗中傷はやめていただきたい」これ、SNSのヒューゴーネビュラなのよね? 口調が違いすぎないだろうか。
「SNSの中の私は虚像です。皆さま、少し乱暴な語り口がお好みのようでしたので」あのキャラクターはマーケティングの結果だというのか。しかし、これは話していても調子が狂うな。あたしが言葉を失っていると、峯平は暮根雅人に向いて言った。
「私はあの日に受けた辱めを忘れたことはございません」
「辱めって、いや、僕が下ごしらえを間違えましたっていうだけの話じゃないですか」峯平の口調に引きずられたのか暮根雅人も話し方がどことなく丁寧だ。
「私があのときに連れてきたお客様はとても大事な方たちだった。その方たちからの信用も一切失ってしまった」
「それは、なんというか、本当に申し訳ないです。ですが、塩分の感じ方なんて、体調次第なんです。汗をかけば塩分が不足して少々の塩味では物足りなくなる。反対に身体に十分に塩分が行きわたっていると僅かな塩味も強く感じる。それだけのことなんです。だから、あのとき塩味をあまり感じなかったからといって、それすなわち味覚が鈍感だと言っているわけじゃないんですよ」と暮根雅人が言い訳する。
「それならば、なぜあのときにそう仰ってくださらなかったのか」と峯平兵庫が言う。
「あのときは忙しかったんで……」と暮根雅人が苦し紛れのようなことを言うと、すかさず峯平兵庫が言う。
「嘘です。店内の客は私たちだけでした」峯平兵庫が毅然と言う。
「そうでしたっけ?」と暮根雅人は少しだけ考えるふりをするが、たいした間も置かずに「そうかな。そうかもしれません。でも、いいじゃないですか。あなたがSNSでうちの不評を書きまくって、おかげで店は潰れて、つまりあのときの喧嘩はあなたの勝ちです」と続けた。
「潰れた……んですか?」と言う峯平兵庫に対して「ええ、あの後、わりとすぐに」なにをいまさらという風に暮根雅人が答える。
「ま、とにかく、さっさとやりましょう。味勝負だか味覚テストだかを」と言って、暮根雅人が話しを強引に進めて、峯平兵庫をカウンターの席に座らせる。あたしも座るように促される。カウンターの中にいる暮根雅人が二つの皿を峯平兵庫の前に出す。どちらもカレイの煮つけである。
すでに用意していたとしか思えないようなスピード提供なのだけれども、だとしたら、いまさっきあたしが買ってきた醤油はいったいなんのためだったのだろう。煮つけに使うのでなければ、まさかグレープフルーツの方で使うものなのかしら。
「ずいぶんとドメスティックなものが出てきましたね」と峯平兵庫が言い「これの違いを指摘して、それが正しければあなたは私に謝罪をする」と峯平兵庫が確認する。いろいろうるさかったわりには、ただの謝罪でいいんだ。なんかもっと無理難題を押し付けてくるようなやつかと思った。でも、待てよ。暮根雅人はさっきからずっと生意気言ってすみませんでした的な謝罪をしているような気がするけれども。
「違います」と峯平兵庫が文脈を考慮しない発言を挟む。いや、違う。あたしに言っているのか。
「私は心の底からの謝罪を求めます。彼の謝罪には誠意を感じません」そうかな。そうかもしれないけど、誠意とか言い出して、やっぱり結局金をよこせみたいな話なんじゃないの。
「私は経済的に困窮しておりません。これは私の名誉の問題です」名誉とか言い出した。くだらない。
「くだらなくはありません。私にとって大変に重要なことです」あんたの名誉なんかより、アロアの命の方が重要な問題よ。
「ま、ま、ま、この子のことは措いておいて。味見をどうぞ」と暮根雅人が言う。とたんに神妙な顔になった峯平兵庫が、右の皿のカレイに手を付ける。箸で身をえぐり、煮汁に浸して口に運ぶ。プリンス・アンド・ザ・レボリューションのような男が煮魚を箸でつつく姿を見ていると、どこかの異世界にでも迷い込んだかのような感覚を覚える。
峯平は慎重に咀嚼して、飲み下す。コップの水を口に含む。次に左のカレイに取り掛かる。左右のカレイの味見を終えて回答するのかと思ったら、再び右のカレイを食べる。なにかの再確認だろうか。続いて左も食べる。箸を置いて、目を閉じる。最終判断を下すかと思いきや、またまた右のカレイに手を伸ばす。おいおいおいおい、何度味を見るつもりなのか。
「慎重を期したいのです。お静かに願います」と峯平兵庫が言う。その後も味見という名目の食事を続ける。カレイは骨を残すのみとなり、皿は舐め回した後かと思うほどにぴっかぴかだ。そして、ようやく箸を置いて答える。
「左の皿の方が塩味を強く感じます。甘味はどちらも変わりなく、ショウガや酒の塩梅も加減も同じかと思います。左のカレイの煮つけは醤油の割合が高いものと推察します」と峯平兵庫が回答する。すると、暮根雅人がカレイの煮つけを二皿出して、あたしの前に置く。
「君もやってごらんよ」と言う。カレイの煮つけは食べるつもりではあった。だけどテストをする気は皆無だったので、少し気後れする。ちらりと暮根雅人に視線をくれると、目が本気だったので抵抗せず大人しく味をみる。
右の皿の煮物の身をえぐって口に入れ、左側の皿も同様に一口食べる。カレイの身はほろほろとして柔らかい。魚卵に箸を入れると中までしっかり火が通っている。本来、魚卵の方が火の通りが悪いように思うのだけど、どういうことなのかしら。まあ、とにかく火加減も味付けも完璧である。白飯をよこせ、と思ったとたんに暮根雅人が茶碗によそったごはんを目の前に置く。うん、わかっているな、暮根雅人。
「まさかとは思うけど、忘れてないよね?」と暮根雅人が言う。「味の違いを指摘して欲しいんだけど」
ああ、そうか、それね。うん、ばっちり忘れていた。
「両方、同じ味ね」と断言する。
「さっき買いに行かされた醤油が謎だったんだけど、煮込み用ではなくて、最後の風味付けに少し垂らしているのね」
「うん、君は親父にほんとそっくりだな。ちょっといらっとした」と暮根雅人が言う。
「絶対音感ならぬ、絶対味覚とでもいうのかな。君と親父にはそれがある」と暮根雅人が頷きつつ続ける。「俺にはそれがなかったんで、親父の言うことがまったくわからなくて苦労したよ」と過去を愚痴る。でも、逃げ出して勝手気ままにやってたんだからいいじゃないの、とあたしは思うが言わないでおく。
峯平からの視線に気付いて暮根雅人がそれに答える。
「僕は出来得るかぎり、フェアにテストしたいと考えました」と暮根雅人は峯平に向き直って言う。
「さて、フェアにやるとなるといろいろと悩む点があります。たとえば、計量スプーンで正しく計ったとしても、まったくの同量とは言い難い。調味料の加減だけではありません。煮込みの時間や火加減が違えば、煮汁の濃さは当然変わる。それも意図しない形での味の変化です。だから、僅かに味付けを変えたとしても、火加減一つでひっくり返るかもしれない。だとしたら、フェアにやるとしたらどうするべきか。そこで、僕は同じ鍋の中で同時に二つのカレイを調理することで、調味料の差異と火加減の差異がない状況を作りました。つまり、僕に出来る最善は、この二つのカレイの煮つけは同一である、という調理だけだと思ったわけです」と暮根雅人が種明かしをする。嫌がらせの引っかけ問題的な趣向で同じ味付けにしたわけじゃなかったのか、と思いつつカレイの身を煮汁に浸して口に運ぶ。至福の味である。ごはんが進む。
「いや、そんなはずはありません。たしかに、左の皿の方の塩味が強い」と峯平兵庫が言う。
「合っていますよ、それ」と暮根雅人が言う。あれ、どっちも同じだっていったのは暮根雅人、あなただろう。暮根雅人が新しい茶碗をあたしの前に置く。おかわりか。気が利くな。
「味は同じ、というか調味料の配分と火加減は同じなんです。でも、左の方がしょっぱいんです。左の方というよりは、結局一番最後に食べた味が一番塩味を感じるんです。なぜなら、体内に蓄積された塩分量で塩味の感じ方が変わるからです。そして、あなたは常に右を先に食べて左を後に食べた。つまり最後は左の皿のカレイを食べて終わるということです」ああ、さっきの話か。塩分が足りてくると、塩味を強く感じやすくなるという話。
「大事なのは違いがわかることではない。美味しいと感じるかどうかです。そしてそれは味だけの問題じゃない。盛り付けの見た目や店の雰囲気や誰と食べるかや、そういうことが影響します。美味しさというのは、舌先だけの問題じゃないんです」
「誰と食べるか……」峯平兵庫が一部分を切り取って復唱する。
「気の置けない人との食事なら仮に料理が不味くとも、それをネタにして語って食べれば楽しめます。いかなることも楽しめれば無敵ですよ」おいおい、料理人としてその結論に至るのはどうなのだ、暮根雅人。
「もしよければ、私にも白飯をいただけませんか。そのお嬢さんが食べている姿を見ていたら、無性にごはんが食べたくなりました」と峯平兵庫が言う。暮根雅人は軽く頷くと茶碗に大盛りのごはんをよそって、峯平兵庫の前に置く。峯平兵庫のすでになくなってしまった煮物の皿を片付けると、新しい皿に再び煮魚を乗せて出す。いったいいくつ作っていたのだろうか。「良い柵があったんで」と言いながらマグロとタイとカンパチの刺身三点盛りを出し「自分の晩飯用なんですけど」と言いながらローストビーフを焼き上げ「さっきちょっと作っておいた」という野菜のゼリー寄せに「最近、こればかり作っているんですけど」と言いながら出したサラダにドレッシングを振る。
あたしは出された皿それぞれに素早く箸を伸ばす。それにつられてか峯平兵庫も手当たり次第に箸をつける。
箸が皿を突く音、咀嚼音、皿の触れ合う音、食器を洗う水の音、そして静かに流れる八十年代洋楽チャンネル。楽しいおしゃべりはどうなったのだ、暮根雅人。今、口を動かせるのはたぶんお前しかいないぞ。
「いや、この食欲の前に語るべき言葉はないよ」と言いながら出してきたガラスの器には綺麗に剥かれたグレープフルーツが品よく重ねられていて、それらがコアントローのシロップにひたひたに浸っている。
「すごい手間がかかるんだよね、グレープフルーツセクションは」料理に関しては面倒を厭わない暮根雅人をもってして手間がかかると言わしめるとは、いったいどんなものなのか。
添えられた小さなフォークで一つの房を突く。口に運ぶとグレープフルーツとコアントローの香りが広がる。どちらも柑橘系なので相性がいい。微かな苦味と渋みが味に奥行きを出す。噛みしめると口内の隅々に果汁が染み渡る。二個、三個と口に入れていると、ささやかな疑問が湧いてくる。グレープフルーツの舌触りがなめらかすぎるのだ。皿に盛りつけられたグレープルーツをまじまじと観察するとどの房も皮むきが完璧で、ただの一粒の砂じょうも潰れていないことがわかる。繊細な技術と強靭な忍耐力が必要になりそうな作業である。手間がかかるとかいう次元の話ではなく、これはもう人間技ではない。たしかに味も仕事も素晴らしい。いままでグレープフルーツという果物を食べるのが面倒な安物の果物として見下していたことを土下座して詫びたい。
「君は俺にいろいろと迷惑をかけているんだから、そのくらいのことしてくれてもいいかもよ」と暮根雅人が言う。勘違いするな。土下座をしたいのはグレープフルーツに対してであって、貴様にするのではない。あたしはガラスの器を両手にとって残ったシロップを一気に煽って飲み干すと、腹の底に火が灯る。それが血脈を駆け巡り、身体の隅々に行きわたる。身体が熱い。その熱で頭の中が溶けていくように思える。
横から笑い声が聞こえる。暮根雅人と峯平兵庫が談笑していた。それを見て唐突に怒りがこみ上げる。なにを笑ってんだ。アロアをどこにやった。この虐待親め。いや、アロアの居場所はもうわかっている。名刺に住所は書いてあった。うん、そうか。もうこの親は不要なんじゃないかな。そう思って、あたしは酒瓶の棚の前に椅子を持っていく。置いた椅子に足を掛けて伸びあがる。一番上に置いてある包丁の柄を掴んで降りる。そのときに足がかかって椅子が倒れて、床のコンクリートが乾いた音をあげる。二人がこちらを向く。あたしは包丁の背に左手を添えて素早く踏み込み、峯平の首に刃を押し付けて、そのまま真横に引く。いきおい余って態勢を崩して倒れる。頬が床にべったりとついている感触があり、汚いなと思う反面ひんやりとして気持ちよく、無理に身体を引き起こす気にはならない。そのままその冷たい床に身をゆだねていると、遠くで暮根雅人の声がしたような気がしたけど、もうすべてがどうでもよくなった。




