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ウンポコ・ポルファボールの再興 【 完結済 】   作者: 内田 食(うちだ はむ)
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13/16

キッチン、暮根賀人、マカロニグラタン

 今日は朝からまっすぐに暮根雅人の部屋に向かう。電話もしない。不法侵入された被害者が留置所に入れられる理屈もない。警官は暮根雅人を拘束したいようだったけど。なぜ嫌われているのだろうか。態度かな。態度は悪いな、たしかに。それとも、暴力事件を起こしているにも関わらず、巧みに弁護士を配して不起訴に持ち込んだように見えるのが気に入らないのかもしれない。だとしても、だ。あの警官の態度や物言いはない。思い出しただけでも、胃液が胸元までこみ上げる。難癖をつけて暮根雅人を拘束している可能性はあるかもしれない。

 マンションに着いてオートロックの番号を入力してエントランスの入り口を抜けてエレベーターで三階に上がる。暮根雅人の部屋の前まで行き、鍵を差し込もうとしたが、差さらない。む、差さらない? 鍵穴を見てみると、鍵と形状がまったく違う。昨日のことがあったから鍵を換えたのか。インターフォンを押そうと指を伸ばしかけたところで、先に声がする。

「そこからドアに向かって、開けてと言ってみて」と暮根雅人の声がどんぴしゃのタイミングでインターフォンから語りかけてくる。見えているのか、と思いインターフォンのスピーカーの部分を眺める。カメラのレンズらしきものが上部に付いている。レンズを睨んでいると「怖いよ」と声が聞こえる。いや、怖いのはそっちだろう、と言いたいところをぐっと飲みこんで言われるがままに「開けて」と言うと、ドアの鍵が開く音とボーちゃんの声が聞こえる。ドアに手をかけると、普通に開いた。中に入ると、すでにボーちゃんがスリッパを用意してくれている。ボーちゃんの頭に手を乗せて、撫でる。昨日、狂った警官が殺処分とか口走るので、いささか心配だったのだけど、無事のようでなによりだ。ありがとね、と声をかける。鍵、開けてくれてありがとう。昨日、助けてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。

 ドアを閉めて鍵を見ると、サムターン回し防止の仕掛けが施してあり、そこに重ねてなにかのギミックが付けられている。見たところ、十二時の方向と九時の方向から金属の棒が伸びる仕組みに見える。電気の線はつながっているみたいだけど、これはどうやって動くのかしら。

 試しに「ボーちゃん、鍵かけて」と言ってみる。ボーちゃんが壁際にある二つ並んだ赤いボタンの右側を叩くと軽い唸り音が聞こえて、九時の方向から金属棒が伸びる。それがサムターンを回す。かちゃりと音がして、鍵がかかったことを物語る。また、お得意の工作か。工作で音声認識自動ドアを作るとは。音声認識部分の核はボーちゃんなので、そこはアナログである。ボーちゃん、賢いな、ほんと。しかし、暮根雅人よ。昨日、警察から帰ってからこれを作ったのか。暇にしても度が過ぎるな。

 しゃがんで、脱いだ靴を並べて、ボーちゃんの用意してくれたスリッパを履いてぺたぺたと音を鳴らしながら居間に入ってソファーに座る。

「おはよう」と暮根雅人があたしに言う。

「鍵、換えたのね」と答える。あいさつの催促を無視する。

「人のうちに朝早くから押しかけて、おまけにあいさつもなしだなんて、ありえない。親の顔が見たい」と暮根雅人が言う。うるさいな。親の顔、知っているでしょう、と思いつつ渋々挨拶すると「はい、おはようございます」と暮根雅人が重ねて挨拶を返してくる。

「昨日、あんなことがあったんで、鍵は交換したよ。合鍵屋がまだ隠し持っていたら怖いからね」と暮根雅人がなんら不安を感じてなさそうに言って、新しい鍵をあたしに差し出す。

「あれ、でも、自動ドアになったから、鍵はいいんじゃないの?」とボーちゃんの方を仰ぎ見つつ言う。

「ボーちゃんと散歩に出ているときもあるし、あるいは、ボーちゃんが寝ていて起きないってこともあるかもしれないからね」と言って鍵を押し付けてくる。

「でもさ、ドアの外から、開けてと言うだけで鍵を解除しちゃうと困らない?」と訊いてみる。

「知らない人の声には反応しないよ、ボーちゃんは」そうは言われても、ここに第三者はいないので、それを確認することはできない。ボーちゃんは目の前に座って、自分の顎をあたしの膝の上に載せる。撫でてのポーズだ。ボーちゃんの頭を撫でながら眺める。八歳と言っていたっけ。八歳にしては、ほんとに若い。動きは機敏だし、毛並み……は今では丸刈りにされてしまったけれども、記憶にあるかぎりでは色艶良く健康そうで、なによりも瞳が澄んでいる。犬の八歳って、人間でいうところの何歳だろう。

「四十八歳」と暮根雅人が答える。「一歳になったときに十五歳、二歳になったところで二十四歳。その後は一年で四歳ずつ積んでいく計算だね」

 四十八歳。人間、四十歳を超えたら自分の顔に責任を持て、だっけ。ボーちゃんの顔は精悍で凛々しくて、それでいて従順だ。従順さも、言われて渋々やっているという従順さではなく、言い付けに対して誇りを持って遂行するという感じに見える。閃いた。ボーちゃんを連れて行って、警察犬みたいににおいを辿ってもらおう。幸い、アロアの毛布があるから、においの原資はある。あれ、アロアの毛布。毛布はどうしたんだっけ?

「ああ、ごめん。車に乗せっぱなしかも」と暮根雅人が言う。炎天下の車の中に放置だと。溶けたらどうしてくれるのだ。

「いや、大丈夫でしょ、たぶん。溶けないよ」と暮根雅人が言う。

「あのさ」業を煮やしてあたしが言う。「人の独り言に返答しないでよ」

「独り言を言っているという自覚はあったんだね」

「ないわよ。あたしが独り言を言っているんじゃないとしたら、あなたが心を読んでいるってことになるでしょ」心の中なんか読まれてたまるか。

「なるほど」

「だから、独り言に返答しないで」

「善処しよう」と暮根雅人が言い「ちなみに、いくらボーちゃんでも警察犬の代わりはできないよ」と続ける。

「トイレは片付けるし、鍵はかけるし、エサも水も自分で出す。こんな自立した犬は他にはいないわ」

「自立と臭気選別は関係ないよ」

「ボーちゃんは頭がいいって話をしているのよ」

「ボタン押したり、空気読んだりするのとは違う。訓練もなしににおいを辿るなんて不可能だよ」強情なやつだ。そこまで言うならちょっと試してみようか、と言えないのか。

「ああ、試してみるのはいいね」と暮根雅人が言って、ティッシュの箱を差し出して「一枚取って、自分のにおいを付けて丸めてよ」と言う。見ると暮根雅人も丸めたティッシュを作りはじめる。暮根雅人が並べた三つの合間に自分の握ったティッシュを割り込ませる。都合、四つのティッシュの玉がローテーブルの上に並ぶ。

「ハンカチ出して」と暮根雅人が言う。出して渡そうとするも、暮根雅人は受け取らない。

「受け取ったら、俺のにおいが付いちゃうよ。自分でやって」自分でやる? なにを?

「ハンカチのにおいをボーちゃんに嗅がせて、においが同じものを選ばせる」ああ、なるほど。それね。

 ローテーブルから少し離れたところまでボーちゃんを連れて行って、あたしのハンカチを嗅がせる。

「においが同じものを取ってきて」とローテーブルを指さしてボーちゃんに言う。ボーちゃんはローテーブルに着くと、一番左のティッシュ玉を鼻でつつく。そして振り返ってあたしの顔を見る。次の玉をつつく。振り返る。顔を見る。ボーちゃんは確信に満ちた様子でそのティッシュ玉をしっかりと啣えてあたしのところに戻ってくる。

「すごい! 当たった!」とあたしが快哉を叫ぶも「ボーちゃんは空気を読むって言ったよね。これは、失格」と暮根雅人がだめ出しをする。

「なんでよ。出来たじゃない」とあたしが抗議する。

「ボーちゃんは君の顔色を見て選んだだけで、同じにおいを選んだわけじゃない」と暮根雅人が言う。そう言われると確かに表情に出ていたかもしれない。でも、これなら少し訓練したら、きっとボーちゃんはできるようになるんじゃないか、という確信は得た。いける。いけるよ、ボーちゃん。

「まあ、たしかに訓練したらできるようになるかもだけど、いつになるのかわからないよ。それでいいの?」と暮根雅人が言う。よくない。いつになるかわからないでは、全然よくない。じゃあ、やはり表札を調べ倒すしかない。急いで現場に戻らないと。二人でやれば、いくらかは早いだろう。いや、その前に

「なんであたしの名前を知っているのよ!」

「名前を知っている、というか、えーと、なんで君が妹だということに気が付いたのか、を答えればいいのかな」と前置きして暮根雅人が話し出す。「怪しいなと思ったのは、スマートフォンの音楽のライブラリを見せてもらったときかな。俺のCDコレクションそのものだったから。そして、持ってきてくれたトレバー・ラビンのCD。実のところ俺はトレバー・ラビンというアーティストがあまり好きじゃなくてね」好きでないものを持ってこさせるな。

「うん、まあ、それである時うっかり踏んでしまってケースを割ってしまった。それで背表紙のところに実に印象的なひびが残った。こんな感じで」と言って、暮根雅人はそのCDのケースを差し出す。これか。この傷。

「さて、そもそもトレバー・ラビンというマイナーなアーティストのCDを君が持っていることに違和感があるし、ケースに同じ傷まで入っているとなると、このCDは実は俺の持ち物なんじゃないかな、と思うのは必然だよね。そしたら、いみじくも君はこう言ったんだ。どこかに捨ててあったのを、お母さんが拾ってきたんじゃないかなって。うちの母は人の持ち物をむやみに捨てるようなタイプの人ではないけれど、十何年も家を空けている俺の荷物を捨ててしまった、という可能性はある。だから、確認した」

「確認した?」

「おふくろに電話をかけた。それで、CDは捨てられていないというのがわかった。そして、妹が熱心にそれを聴いているらしいことも聞いた。俺は一人っ子で兄妹とかいないはずなんだけど、そこに妹というキーワードが出てきた。そしたら、俺が家を出たあとに妹が生まれていたということで、その子の名前が香都だと聞いた。それで、なるほどと思った。なんだか図々しい子にまとわりつかれたもんだと思ったけど、おそらく俺が兄だと確信しているんだな、と。それで、自分が妹であることを隠している、という構図だと思いいたった」

「お母さんに聞いたなんて、そんなの推理じゃないわ。がっかりよ」反則だ、そんなの。

「推理だなんて、言ってないよ。だって、君が言っていたんじゃないか。お母さんに電話しろ、ってさ」

 たしかに言った。夜道を痴漢に付けられているのかと思ったときに、この男がのうのうとお母さんに電話するふりをしていたのにいらついて。

「だけど、君、自分が妹だってこと、そんなに隠してなかったよね。まあ、こっちとしては存在を知らない妹に気付けるわけもないんだけどね。俺としては、君がどうやって俺を見つけたのかが気になるよ」

「デパ地下で見つけただけじゃない」名刺を見て名前を確認しただけだ。お母さんから兄の存在は知らされていたので、名前は当然わかっている。

「ああ、場所はそうだけどさ。なんというか、君があのデパ地下に居たのって偶然じゃないよね。なにかの確信があって居たように思えるんだよな」

「確信はないけど、SNSを見ていたら、なんかあのデパ地下の出現率が高いな、と思って」

「うん、そこだな。なんで、俺のSNSのアカウントを知っているのかな」

「知っているわけじゃなくて、まあ、探したっていうか……」言葉を濁したけど、探すのはすごく苦労した。

「本名とか生年月日とかアカウントに使ってないよ」

「自分の名前をネタにした書き込みしていたでしょう。それで見つけた」捻りが入っていたので難儀したわ、ほんとうに。

「名前をネタに……ああ、あれか、読み方を捻るとヴォネガットって読めるって書いたやつ」

「そうそう、自分だけじゃなくて、親もヴォネガットだって書いていたじゃない。だから自分はいわばヴォネガットジュニアだ、ってさ。お父さん、暮根賀人だし」そう、そのSNSにはなにを食べただの、どこに行っただの、なにを買っただの、そんな情報しかなかった。ただ、どの書き込みにも写真があった。その写真がどこで撮られたものなのかを検分した結果、あのデパートの食品売り場の出現率が高い、と踏んだのだ。

「親父は君には、あれはしてないのかな」

「あれ?」

「えーと、英才教育?」

「ああ、小さいときに、いろんなものを食べさせてくれたわよ」

「食べるだけ?」

「うん」

「もっと、厳しい修業的なものは?」

「お父さんさ、いまボケちゃってんだよね。うん、お兄はしごかれていたってお母さんに聞いた」しまった。うっかりとお兄とか口走ってしまった。

「ボケた?」お兄のところ、スルーされた。照れるとか、恥じらうとか、なにか面白い反応をするなら、お兄と呼んでやろうかと思ったけど、やめだ。

「今じゃ、なにを食べても美味しいとしか言わないし、口ぐせはいつもすまないねえ、だよ」

「あの、食に異常な執念を燃やす親父がボケてなにを食っても喜ぶようになったとは」なんだか暮根雅人の手が震えている。

「お母さん、喜んでいるよ。食事の支度が楽になったって」

「素材の選び方から、下ごしらえ、切り方、煮方、焼き方、味付け、出汁取り、盛り付け、すべてに関してすさまじくやかましかった。気に入らないと何度でもやり直しさせられた。出来なければ正座、むち打ち、食事抜きだよ。それがボケた? なんでも美味しいって? これは傑作だ」と言って、暮根雅人が笑いだす。

「いいお父さんだよ」と言ってみる。

「まあ、それは君にとってはね。あるいは、今は、と言った方がいいのかもね。俺にとっては虐待親だったよ」急に冷めたように言い捨てる。

「でも、おかげで料理覚えたんでしょ」良いところを上げてみる。

「俺に自由はなかった」お父さんの話題はまずかったかな。でも、いいや。もう一押ししてやろう。

「会ってみなよ」会えば、きっと印象は変わるはず。

「虐待親は許さないんじゃなかったの?」いささかふてくされ気味に暮根雅人が言う。

「虐待は許さないわよ」今のお父さんしか見ていないあたしには過去のお父さんが想像できない。暮根雅人は虐待と言うけれど、教育と言い直せる可能性もある。子供のころの感覚をどこまで鵜呑みにできるかという問題もある。親がしつけのために軽く叩いたことに対して、大声で虐待だと泣き叫ぶやつもいる。子供は少し信用できないところがある。怒られないとみればつけあがり、叱れそうになると嘘をつく。自分かわいさになにを言い出すかわからない。子供はみんな天使、とか世迷言を抜かすやつはどうかしている。

 でも、待てよ。アロアは虐待を受けていると言っているわけではない。あたしが勝手に汲み取って虐待の可能性を拾い上げて一人で憤っている、という言い方もできる。それに対して、虐待を受けたと訴える暮根雅人の話に対して、ろくろく耳を傾けないあたしの姿勢はどうなのか。差別だな、と思う。この差別はどこから生じているのか。

 思うに、アロアの虐待は現在のもので、暮根雅人の言う虐待は過去のものである。アロアはまだ救えるが、暮根雅人は今さら救えない。そして、暮根雅人は今現在をたくましく生きていて、重篤な心の傷があるようにも見受けられない。つまり暮根雅人はどうにか虐待を乗り越えている。しかし、アロアの方は放っておいたら明日命を落としているかもしれない。そこだ。現在進行形か否か。

「なるほど。アロアちゃんの虐待はいま止めれば最悪のケースは免れるけれど、俺の場合はいまさら親父の虐待を咎めたところで歪んだ性格は治らない、と」ちょっと違う。ちょっと違うけど、でも、えーと、そうね。だいたいそういうことだ。

「まあ、それはともかく」と暮根雅人が話しを変える。「俺になにをさせたいのかな?」

「十五年間音信不通の親不孝者に償いをさせたい」とあたしが胸を張って答える。

「その話はもういいよ。もっと、具体的になにをするのかな」

「もちろん、アロアを救う手助けをしてほしい。アロアを助けてくれるとあたしは嬉しい。あたしの喜びはすなわち、お母さんの幸福につながる」正直に語りつつ、ひいてはお母さんのためであるという論法。完璧だわ。

「誘拐の手伝いはできない、って前にも言ったよね」と暮根雅人が確認する。あたしと暮根雅人だけでアロアをどうにかするという観点だと誘拐の一手しかなかった。でも、こうやって兄妹であることを明らかにするとお母さんの説得役としての暮根雅人に存在意義を見出せる。アロアをお母さんの養子にしてもらおう。あたしがお母さんにその話をしても、子供の戯言として聞き流されてしまうだろう。だけど、暮根雅人が間に入ってあたしの話に加担してくれれば、ちゃんと聞いてくれる可能性が高まる。誘拐よりも現実的解決法だ。

「アロアの親に親権を放棄させる。それで、うちでアロアを育てる」あたしもちょっとは調べたのよ。親権を放棄させないと養子にはできない。でも、虐待しているような親だもの。アロアを厄介者としか思ってないに違いない。

「一つ、聞いていいかな?」と暮根雅人が言う。「俺に会ったときに、この人は間違いなく自分の家族で兄貴で兄妹だとか感じたのかな」

 名刺の名前を見たときに、やっと見つけたぞ、この野郎、とは思った。でも、そうね。兄妹としての実感ね。そういうのはまったくなかったかな。でも、この質問の真意はなんだろう。

「うん、頭の中で鐘が鳴り響いたわ。ああ、これがあたしのお兄様なんだなって」噓をついた。

「俺は君が妹かもしれないなんて、微塵も感じなかった」と暮根雅人が言う。そりゃそうでしょう。存在すら知らない妹を気取ったとしたら恐ろしく気持ち悪い。

「でも、血は大事よ。血は水よりも濃し」血縁は切っても切れない。

「それなら、アロアちゃんも血のつながりのある人が育てた方がいいんじゃないのかな。他人の君が育てるよりも」

「あたしは虐待したりしません」と言い切る。

「わかった」と暮根雅人が叫ぶ。「自分の中に潜む違和感の正体がわかったよ」と重ねて言う。

「君は育児を舐めている」と暮根雅人があたしに指を突き付けて断言する。

「別に舐めていたりしないけど」と反論を試みる。

「ならば言い方を変えよう。君は育児がわかってない」わかってないといわれると、それはそうかも。でも、それは暮根雅人だって一緒じゃないの。

「そう、俺もわかってない。育児の苦労がわからない。虐待親って、最初から虐待していたのかな?」それはどうだろう。そういうもともとの性根の腐ったやつもいるんじゃないだろうか。

「でも、最初は大切に育てていた人も多いんじゃないのかな。夜泣きがひどいとか、ぐずつきがどうしても収まらないとか、好き嫌いが極端だとか、育児のストレスが溜まって虐待に至っているんだとしたら、君だってやがてそうなる可能性はある。実の親ですらも虐待に至る精神状態に追い込まれるんだとしたら、なんで他人の子供のためにこんな苦労をしなくてはいけないのかというストレスを君が溜め込んでも不思議はない」その可能性は考えたこともない。あたしは絶対に虐待なんかしない、という気持ちはあるけど。

「残虐なことをやらかすのは善人だよ」と暮根雅人は言って、少し考えてから言い直す。「自称、善人かな」

 少しわかるような気がする。強固な正義感は歪んだ結果を招く。強固な正義感。あたしか。あたしなのか? 

「だからさ。まずはアロアちゃんの親と話してみよう。そこから解決策を探ろう。平和的解決」と暮根雅人が言う。平和的解決ね。前にも聞いたな。そのときは結局、雑巾小僧を血まみれにしたんじゃなかったっけ。

「平和的解決のアプローチは試みたけど、暴力でしか解決できなかった悲しい例だよ。だからといって、最初の平和的解決が無駄だったとは俺は思わない」と暮根雅人が都合のいいことを言う。

「ま、でも、とにかくアロアを探しださないとなにも始まらないってことね」とあたしが言う。

「昨日、炎天下の中で君は何を探していたのかな」

「アロアの家だけど」なにを言っているのだ、暮根雅人は。

「アロアの家、っていう表札が出ている家はまずないと思うんだけど」ああ、なるほど。

「峯平」

「みねだいら。どういう字?」と暮根雅人が訊く。

「霧ケ峰の峰に平行の平。峰平。あれ、違う。みねは山が偏じゃなくて冠に付いて、峯。峯平」とあたしが言うと、暮根雅人が顎に手を付いて考え込む。まさか、友人に同名がいるとか。

「いや。友人はいないから」突然のぼっち発言。その言葉、どう拾えばいいのよ、と俊雲していると続けて「なんか、その字面を見た気がするんだよな」と暮根雅人が言う。

 聞いたことがある、とか言い出すわけではなく、字面を見たことがある、ねえ。

「映画とかドラマとかのスタッフロールで見た、とか」可能性を示してみる。

「そういうのは見ないね」と暮根雅人がぼそぼそと言う。

「作家名とか、雑誌の裏にある編集者の名前とか、政治家のポスターとか、スーパーの野菜に貼ってある、わたしが作りましたの人とか?」いろいろと案を出してみるも、ことごとく首を振る。

「なんか、ひっかかりはある。なんだっけ。とりあえず、朝ごはんを食べよう。食べることで頭が活性化するかもしれないし」と暮根雅人が言う。あたしも賛同する。


 暮根雅人がキッチンに行ったので、あたしは携帯電話を取り出してSNSをチェックする。といっても、本人が目の前にいるので、今さらこれをチェックする意味は皆無に近い。

書き込みは増えていない。いろいろとあってSNSを書くどころではなかっただろう。暮根雅人の書き込みはないんだけど、コメントが付いている。居酒屋ともが開いてない、という文句だ。永島さん、亡くなったもの。そりゃ、開いてないわよ、と思う。しかし、このコメントを書いているのは、たしかドレッシングの件で噛みついていた人なのではなかろうか。盗品とか言って非難するなら、店も利用するな。

 ことり、とローテーブルに物が置かれる音がする。顔を上げると、すでにサラダ、グラタン、アイスコーヒーが目の前に並んでいる。朝からグラタン。また手の込んだものを。

「いや、グラタンは簡単だよ。最近のマカロニは三分で茹で上がるし」マカロニを茹でる時間だけが、グラタンにかかる手間の肝ではないでしょうに、と思いつつ「いただきます」と言って、手を付ける。が、熱い。グラタンは後回し。サラダに手を出す。

「野菜から食べると血糖値の上昇を抑えるらしいよ」と暮根雅人が言う。ふーん、と聞き流しつつラディチのドレッシングがかかったサラダを口に運んだとたん、しゃべるための口を失った。たまらん。いくらでも食べられる。サラダの器が空になると、すかさず暮根雅人が傍らのボウルに入ったサラダをトングでつまんでよそった。わんこそばか! と言いかけたが、ドレッシングをかけてもらって、意識が完全にサラダに向かう。あたしとサラダだけの世界。いつまででも食べていられる。と思っていたら

「ごめん、もうサラダがない」と早々に暮根雅人がギブアップする。たったの四回のおかわりで終わってしまった。今後はもっと用意しておくように、暮根雅人君。

 ほどよい温度になったと思しきグラタンに再びチャレンジする。出来合いのソースで作ったグラタンかと思ったけど、普通にバターと小麦粉を練って牛乳で溶いた味がする。中身はベーコンとタマネギとマカロニでシンプルなグラタンである。

「この人なんだけどさ」と言って、暮根雅人に携帯電話の画面を示す。「なんか、粘着されている? いつも文句を言っている気がするんだけど」と言う。

「料理評論家、と自称している……ああ!」と唐突に暮根雅人が叫ぶ。「こいつだ!」

 話が見えないぞ、暮根雅人。

「こいつだよ、さっきの峯平。峯平兵庫っていうんだ」あ、そういえばアカウントがヒューゴーネビュラってなっていたっけ。なるほど、語感が似ている。

「苗字が同じなだけで、アロアちゃんの親じゃないかもしれないけど」と暮根雅人が断りを入れる。

「この人、永島さんの店に二三回きているよ。ということは、家も近いんじゃないのかな」とあたしが言う。

「たしか、文句言われたときに名刺をもらったんだよ。名刺、まだあるかな」と言って、暮根雅人が名刺を探しに行く。名刺か。電話番号か住所かメールアドレスでもなんでもいい。連絡がつけば、どうにかなる。名刺を探す暮根雅人が気にしつつ、食事を続ける。グラタンを食べ終わるも、皿にこびりついたホワイトソースがどうにも気になる。それをどうにかするべく、キッチンに漁りにいくとイギリスパンを発見する。皿にわずかに残るホワイトソースを小さく千切ったパンで拭って口に入れる。グラタンを一ミリも無駄にせずに済んだという満足感を抱きつつアイスコーヒーを啜る。相変わらず、香りがいい。コーヒーの香りは最高にいいんだけど、さっきから視界の先に暮根雅人の手つかずのサラダとグラタンがあって、実に落ち着かない。どれどれ、と思ってサラダに手を伸ばすと、あら不思議。いつの間にか皿の中身がどこかへ消えた。まさかと思いつつグラタンの無事を確認しようとしたら暮根雅人が戻ってきた。

「人の朝飯まで食うな」と戻ってきた暮根雅人が言う。

「いや、勝手に中身がなくなったのよ。ボーちゃんが食べたんじゃないかな」とボーちゃんに罪をなすり付ける。

「今まさに俺の分のグラタンを食っているじゃないか」

「どうせすぐに作れるんだから、いいじゃない」と居直ってみた。

「少しは悪びれろよ」と暮根雅人が言いながら、名刺をあたしに手渡して、自分はキッチンへ行く。

 峯平兵庫。料理評論家。料理評論家って職業なのかしら。だとしたら、収入源はいったいどうなっているのか。あちこちの料理にケチをつけるだけでお金になるのかしら。宣伝を兼ねてあちこちに良い文章を書くと言うのなら、まだ仕事として理解できるけど。いや、まあ、肩書のことはどうでもいい。電話番号と住所の記載があるのを確認する。住所には階数や部屋番号の記載がないので一軒家だと思われる。そして、住所に含まれる椎名町の文字。暮根雅人はたしかあの辺りを椎名町の辺りだと言っていた。やはりアロアの家はあの辺りにあるのだ。

 思案を巡らせていると、ふと鼻腔を掠めるローリエの香り。ん、ローリエ? 顔を上げると暮根雅人がポトフとサンドイッチを自分の前に置いている。

「なんで、ポトフ? グラタンは?」

「グラタンはさっき作った分で、材料が枯れたよ」と暮根雅人が言う。

「ポトフ」とあたしは言う。

「いまさっき、二人分の食事を食べたよね?」と暮根雅人が言う。

「ポトフ」とあたしは繰り返す。

「本気なの? まあ、いいけど」と言いながら暮根雅人は席を立って、なんだかずいぶん大きな黒いどんぶりにポトフをよそって戻ってくる。

「大きすぎる」とあたしが不服を述べると「いちいちおかわりをよそってくるのが面倒くさいんだよ。そのくらいの量なら余裕で食えるんだろ」と逆切れされる。

「いや、これは逆切れとは言わないよ」とさらに暮根雅人が文句を言う。その文句を聞きながら、ポトフのジャガイモをスプーンでえぐる。茹で時間の概念が揺らぐ。なんでこの短時間でこれほど柔らかく仕上がるのか。

「圧力鍋だから」と暮根雅人が言い訳する。圧力鍋の効果がどれほどかは知らないが、五時間を五分に短縮できるというくらいに効果がないと、こうはならない。ニンジンも柔らかい、キャベツもくたくた、最後に投入したと思われるソーセージの加熱も完璧。サンドイッチもつまむ。カットされた断面に潰れた様子はなく、ささくれた部分もなく、実に美しい切り口だ。口に入れるとレタスとキュウリの歯ごたえと瑞々しさが弾ける。

「あ、俺のサンドイッチを」うるさい。いつもいつもこんなおいしいもの食いやがって。

「いや、自分で作って自分で食べているだけなんだけど」独り占めするな、という話よ。

「君も食べているじゃないか」

「いや、そうじゃなくて、自分一人のためにこれを作って、自分一人でこれを消費するのは、人類にとっての損失よ」

「人類?」

「じゃあ、宇宙にとっての損失よ」

「……」

 

 食事が終わって、暮根雅人が食器を片付ける。あたしは名刺を睨みつつ、アロア奪還計画を練る。とりあえずは玄関から呼び鈴鳴らして普通に入る。入れてくれないようなら、押し入る。呼び鈴に反応しないようなら、裏手に回って窓を割ろう。ハンマーかスパナでも探して持って行こう。暮根雅人の作業部屋に行けば、そういうものはごろごろと転がっていそうだ。

 家族構成はどうなっているのだろう。峯平夫妻とアロアの三人。もしかしたらアロアには兄弟姉妹がいるのかもしれない。あれ、そしたら、その子たちも助け出すのか。いや、他の子は虐待されてないかもしれない。いやいや、今は虐待されていないとしても、そのうち虐待される可能性は高いのでは。アロア一人を助け出す、というイメージしかなかったけど、五人兄弟とかだったらどうしたらいいんだろう。そして、アロアを連れ出すにあたって、峯平夫妻はどう反応するのか。どうぞ連れて行ってください、という態度に出るのか。それとも、うちの子は絶対に渡さない、というスタンスでくるのか。虐待しているくせに子供を手放そうとしないというケースは多いらしい。どういう心理なのだろう。まあ、でも、聞き分けがないようなら、暮根雅人の腕力にものを言わせて……

「俺が暴力を振るうのが前提なのはやめてもらえますか」と食器の洗い物から帰ってきた暮根雅人が言う。

「それじゃ、行きましょうか」とあたしが暮根雅人の発言を黙殺して言うと、暮根雅人がきょとんとして「どこへ?」と返す。

「アロアのところに決まっているでしょ。助けに行くわよ」

「その前に、電話しなよ。本当にこの峯平兵庫がアロアちゃんの親父さんかどうかわからないよ」それはそうね。名刺と携帯電話を暮根雅人に差し出す。

「これは君の問題だろ。自分で電話しなよ」と言って、暮根雅人が携帯電話をそっと押し返す。

「面識のない人間に電話なんかかけられるもんですか。中学生のコミュ力の無さをなめるな」とあたしは言う。

「わがまま放題だな、まったく……」と暮根雅人が愚痴る。かわいい妹のために一肌脱ぎますか、って言って気持ちよく引き受けろ。

「あ~、かわいい妹のために一肌脱ぎますか」と感情のこもらない声で暮根雅人が言う。ボーカロイドだって、もう少し人間っぽくしゃべるぞ。

 暮根雅人が電話をかけようとして「これ、ロック解除を……あ、いいや。自分のスマートフォンでかける」と言って、携帯電話をあたしに返し、自分の携帯電話を取りに部屋を出る。部屋を出る? 携帯電話は自分の手元に置いておけ、と思う。

 手持無沙汰に居間をなんとなく見渡す。相変わらず綺麗に整頓されている。綺麗ではあるけど、生活感はない。ステレオのところに行って、CDケースを覗く。クラシックばかりね。なぜそうなった、暮根雅人。ロックは飽きてしまったのか。クラシックだらけのCDの中にピンク・フロイドを発見する。プログレか。あんまり聴かないのよね。以前にキング・クリムゾンを聴いたら、なんじゃこりゃだったし。YESはいいけどね。最初は変拍子に乗れないんだけど、慣れるとそこがいい。

 ピンク・フロイドのザ・ウォールをステレオにセットする。密閉型のヘッドフォンがあったので、それをアンプに差す。ボリュームを最大に上げて再生ボタンを押す。ソファーに戻ってアイスコーヒーを飲む。最初の一音が轟いて、アイスコーヒーを噴き出してむせる。あー、驚いた。呼吸を整えて、じっくり聴き入る。

 む。

 むむむ。これは聴けば聴くほどに……

 完璧だ。無駄な音がまるでない。完璧な音の配列。完璧なアンサンブル。完璧なシンコペーション。やばい、漏らしそうだ。嬉しいと漏らしてしまうという、犬の嬉ションの気持ちが少しわかる気がしてしまった。ライナーノーツを引き抜いて目を通す。同じタイトルの曲が何度も出てくる。アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォールっていうのが表題曲だろうか。なんだかパート3まであるけど。翻訳歌詞を読む。どうやら、全体で一つにストーリーになっているようではあるのだけれど、終盤に登場するウジ虫閣下ってなんだ。これはなんだ。なんなのだ。読めば読むほどに意味がわからない。わからなけど、引き込まれる。突然、潮が引くように音が薄まっていく。自分の状態を見失う。なんだろう、トランス状態になってしまったんだろうか。ひょっとして、あたし、気を失って倒れるの? 音楽聴いて、興奮して? 

 倒れるかわりに、プチっという小さなノイズが聞こえて、ヘッドフォンが鳴らなくなる。ステレオのスピーカーが穏やかな音量でアナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール・パート2を奏でている。暮根雅人がヘッドフォンを抜いたのだ。ボリュームを下げた後に。

「フロイドを音量マックスで聴いていたのか、怖いな」と暮根雅人がソファーに腰かけつつ言う。

「すごいわね、これ!」と叫ぶ。さっきまで音量感が耳に残っていて、思いのほか大きな声になる。

「ああ、世はまさに二十一世紀だというのに、女子中学生がピンク・フロイドを聴いて目をらんらんと輝かせるとは。これをもって、未来はまだ捨てたもんじゃないと言うべきなのか、あるいは、世も末だと言うべきなのか。俺は判断に迷うよ」あたしは暮根雅人のくだらない迷いを黙殺する。

「あれ、携帯電話を持ってきたんじゃないの?」とあたしは尋ねる。

「いや、向こうでかけてきた」と暮根雅人が言う。あたしの目の前でかけなさいよ、と思う。

「結論から言うと、アロアちゃんは峯平兵庫の娘らしい」よし、そしたら即突撃ね。

「それで、虐待に関しては否定された」なんでよ。アロアはあんなに傷だらけなのに。しらばっくれているのよ。

「それとは別に……」暮根雅人が言い淀む。

「俺はどうでもいいし、面倒くさいから断ったんだけど、味覚勝負? 味覚テスト? をやれと言われた。味覚音痴じゃない、というのを証明したいらしい」はあ、どうでもいいわね。

「そう、ほんとうにどうでもいい」と暮根雅人がうんざりした様子で頷く。

「でも、それって、峯平の家に行く口実になるわね。うん。いいじゃない、行きましょう」

「いや、それが、家には来るなと釘を刺された」やっぱり黒よ。家の中にはあちこちに虐待の痕跡があるんだ、きっと。だから他人を家に上げたくないんだ。

「でもそしたら、どこに。まさか、ここに峯平を呼ぶの」

「うちだってあんなやつ上げたくないよ」と暮根雅人が言う。「なので、永島さんの店にくるように言った」なるほど。調理器具はとりあえず揃っていそうだし、どちらも場所を知っている。いいんじゃないのかしら。ここに呼ぶよりははるかにいい。

「それで、味覚勝負ってなにをやるの」とあたしが尋ねると、暮根雅人は「ううむ」と唸る。

「極力薄い味付けの潮汁を二つ用意して、どちらがよりしょっぱいかとかを当てさせてればいいんじゃないの」とあたしが捨て鉢に言う。

「なるほど」と暮根雅人が言う。「でもそれなら、薄い味付けよりも濃いものにしよう。どちらも味がしないといわれても困るし」

「それなら煮魚がいいんじゃない」とあたしが言う。

「なぜ、煮魚」と暮根雅人が訊く。

「永島さんのお店にどれほどの調味料やスパイスがあるかわからないけど、砂糖、醤油、お酒、みりん、くらいはあるでしょう。そしたら、あとは素材の魚と生姜を買えばことが足りる」とそれっぽいことを言ってみたけど、あたしが煮魚を食べたかっただけのことだったりする。

「煮魚ねえ」と暮根雅人が言う。出かける支度のために寝室に向かう暮根雅人の後ろからついていく。

「着替えるんで出てってくれないかな」と暮根雅人が言う。

「服を選んであげるわ」と言って、あたしはクローゼットを開けて、そのアロハだらけのシャツの一群から一つのハンガーを引き抜く。白地に和風なトンボが舞うデザインのアロハだ。アロハ? アロハなのか、これは? いささか疑問に思いつつも、それを暮根雅人に渡す。次にタンスを開けてTシャツを物色する。地味なアロハを選んだので、下に着るTシャツは少々賑やかなものがいいだろう。Tシャツを上から繰っていると、魚のイラストのTシャツが出てくる。ピラニアっぽいその魚は真正面から見据えられて胸いっぱいに大きく描かれている。口に赤とうがらしを銜えていて、なかなかにお茶目な風情がある。なんか見たことのある魚だな。あれか、ラディチのドレッシングに描かれていた魚の絵。

「あの店に通ってポイントを貯めてもらったんだよ。いいでしょ」と暮根雅人が自慢する。そんなに行ったのか、あの店に。

それはともかく、そのラディチのTシャツを暮根雅人に渡す。特に文句も言わずに受け取る。あたしは居間に戻って、自分の支度をする。いつもの学校の制服に、学校の鞄。支度といってもなんにもない。時間を持て余して腕を振り回す。スタンガンを出したり引っ込めたりして遊ぶ。昨日、これを持っていればな、と思う。

 でも、スタンガンがあれば、どうにかなっていただろうか、と自問する。相手もスタンガンを持っていた。先にスタンガンを当てた方が勝つ。そうなのか? 本当に? 先に当てられたとしても、素早く振り払えばどうにかなるのでは。相手のスタンガンは手首に紐をつけていた。床に落とすことはないが、手のひらからこぼれることはあるだろう。対して、あたしのスタンガンは落としようがない。このヘンテコなレールのおかげで、腕にがっちり装着されている。さらに催涙スプレーもあるので、手の届かない距離からでも攻撃できる。うん、あたしの方が有利に戦いを運ぶことができるな。戦いのシミュレーションが終わった頃に、暮根雅人が着替えを済ませて居間に入ってくる。

「なんで、シャツのボタンを全部閉めているのよ」とあたしが文句を言うと「このシャツはアロハじゃないからね」と暮根雅人が答える。でも、それでは下のTシャツの柄が見えないではないか。

「アロハじゃなくても開けていてもいいんじゃないの」とあたしが提案するも「そんなだらしない着こなしはできない」と融通が利かない。そのこだわりはなんなのだ。アロハとそれ以外で、どれだけ違うというのか。

 あたしは勝手に寝室に行って、勝手にクローセットを開けて、青いアロハシャツを引き抜いて、居間に戻る。

「なら、これにしましょう」と言って手渡す。「これは、アロハシャツよね?」と少々疑心に駆られて尋ねる。

「ああ、そうだね」と言って受け取って、それを着る。着ていたトンボ柄のシャツはソファーの背にかける。アロハシャツの開いた前から、ピラニアの無表情が覗く。うん、ちょっと不気味ね。でも、そこがいい。

 そして、二人で連れだって部屋を出て、永島さんの居酒屋を目指す。


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