ウンポコ・ポルファボール、暮根香都、フレンチトースト
文庫本を膝の上に閉じて置く。『競売ナンバー49の叫び』。ラッパのマークに闇郵便組織にWASTE印。読んでいてもまったくの意味不明。それなのにページを繰る手が止まらずに一気に読み切ってしまった。読了したものの、なに一つとして理解できていない。他のピンチョン作品と同様に未来の課題となってしまった。
振り返って窓の外にちらりと目をやり、日の傾きを見て午後四時くらいかなとあたりを付ける。車内は吊り革が埋まるほどには混雑しているが、朝に比べれば人と人の間にゆとりを感じる。アナウンスによると降車駅まであと一つ。電車は嫌いではないが、読むべき本が無くなってしまうと、やはりさすがに時間を持て余す。膝に置いた文庫本を眺める。書店の紙カバーをかけているので、なんの本なのかは外目からはわからない。紙カバーには粘土で造形したかのようなアルファベットが散らばるように描かれており、真ん中にはデフォルメされた日本列島の意匠が施されている。なるほど、どうやら各地にある店舗が記載されているようだ。紙カバーを検分していると、目の前に立つ立つ足が小刻みに震えているのが視界に入る。ちらりと見上げると、ミニスカートに制服に怯えた表情の女子高生の顔がある。
「おねえさん」とあたしは前に立つ女子高生に声をかけて、その手首を握って引く。バランスを崩して座席に崩れ落ちてくる女子高生と入れ替わりにあたしは立ち上がって、そこにいた男と向き合う。見たことのある顔だ。いや、実のところ顔自体は覚えていないが、その大きな顔は見間違えようがない。男は足をいくらか曲げてかがんだ状態で女子高生を触っていたと思われる左腕は下に伸ばされていて、実に間抜けな体勢を目の前に晒している。
あたしは右腕の肘から先を軽く振って素早くスタンガンを出し、それを手のひらに握りこむと同時に相手の腹に押し当ててスイッチを入れる。スタンガンが放つ不穏な音が辺りに響き、相手の男が反射的に奥に身を引いてスタンガンから逃れようとする。
「痴漢です! 誰か取り押さえて!」とあたしが大きな声で叫ぶと、オレンジ色のタンクトップを着たマッチョな男が痴漢を羽交い絞めにしてくれる。動けなくなった痴漢の大きな顔にスタンガンを寄せる。
「お前は……」あたしが言いかけたところで「ご協力、ありがとうございます。警察です。そいつの身柄は私が引き受けます」と左手の方向から髭面の男が警察手帳らしきものを周囲に示しつつ近づいてくる。しかし、あたしはこの髭面も知っている。手が届く範囲まで近づいてきたところで、左の腕からもスタンガンを出して髭面の首元に当てて撃つ。
近くの乗客が「警官相手になにをするんだ」と言う。
「この二人は仲間よ。こっちの痴漢も警官なんだもの」とあたしは言って、文句をつけてきた乗客に髭面を取り押さえるように促す。
「公務執行妨害とか言われないだろうな……」と心配を漏らしつつもねずみ顔を背中から抱きかかえる。それを見届けて、緊急連絡ボタンを目で探し、その前に立つ中年女性に「痴漢を捕まえたって車掌に伝えてください」とお願いする。
「ふざけるな、放せ。俺は警官だぞ!」と窓が叫ぶ。取り押さえてもらったことで油断していてスタンガンを当てていなかった。改めてスタンガンを握りなおして痴漢の鼻にあててスイッチを入れる。窓の表情が苦悶に歪む。うん、いいね、スタンガン。相手に致命傷を負わせることなく苦痛だけを与えるという圧倒的安心感。
「たしか手のひらには繊維片が付いていて、それが痴漢の証拠になるんだったっけ?」とあたしは窓に言う。続けて「こいつの手をしっかり固定しておいてね。手を洗わせたり払わせたりしないで」とあたしは男を羽交い絞めにしてくれているマッチョに言う。マッチョはしっかりと頷いて、放す気がないことを示すために一層力を込める。
後ろに座らせた女子高生に軽く向き直って「こいつら、絶対に許しちゃだめよ」と伝えたところで、電車が駅に着く。あたしは素早くドアからホームに出ると、駅員が二人ほど走って近づいてくるのが見える。痴漢が適切な量刑で……いや、過剰に重い量刑で裁かれることを祈りつつ、あたしはホームに出て階段を下りる。
ウンポコ・ポルファボールの前に立って店構えを眺める。以前は永島さんの店だったそれは、居酒屋の和風な佇まいから、少し南欧風な装いになって、今では暮根雅人の店である。上にある看板には『un poco por favor』と書かれている。暮根雅人はウンポコ・ポルファボールと発音していたけど、本来はウン・ポーコ・ポル・ファボールと読むらしい。ちなみに、ウンポコというのは、少しとか、ちょっととかいう意味でポルファボールと合わせて、少しくださいとなるそうだ。この言葉を使う局面を具体的に申し上げるならば、こうなる。
とあるスペインの食堂でパスタを食べているときに、店員さんが大きなボウルに粉チーズを入れて各席を回ってきて「チーズはいかがですか」と尋ねてきたときに「ウンポコ・ポルファボール」と言えば、給仕がにっこり微笑んでどっさりとチーズを皿に盛ってくれる、という寸法だ。どっさりと盛られてしまうのは感性の違いであって、向こうの人からしてみれば、それはほんのちょっぴりなのだ。
店内に入ると「お嬢、おかえり」と金髪の雑巾小僧に出迎えられる。こいつはなぜかこの店で働いている。本人は暮根雅人に誘われたと言っているのだけど、暮根雅人は雇った覚えはないと言っている。話がかみ合っていないが、ちゃんと追い出していない時点で非があるのは暮根雅人の方なのかもしれない。ちなみに、彼の名誉のために言っておくと、いまでは雑巾臭を放ってはいない。彼の持っている服のすべてを煮沸消毒したのと、その後の洗濯の仕方を十二分にレクチャーしたおかげである。毎日洗濯すること。洗い終わったら、すぐに干すこと。洗濯ものは風通しを良くして、扇風機を当てること。そして、それでもくさくなったらすぐい煮沸すること。だから雑巾小僧ではなく、金髪小僧と呼ぶのが妥当かもしれない。さらに言えば、似合っていない金髪もやめればいいのに、と進言したところ、地毛なのだと反論された。彼はその名をピーター・キルナン・ディクソンと言い、出身はニュージャージー州だそうだ。よもや、この不細工のちんちくりんがアメリカ人だとは思いもよらなかった。
「PKDって呼んでもらっていいっすよ」と金髪は言う。JFKか、と思う。とはいえ、ピーターもディクソンもへんな隠語が見え隠れしているので、PKDと呼ぶのは無難かもしれない。
あ、いや、忘れていた。アロアの毛布を捨てた犯人はこのPKDだったのだ。あの日、児童相談所の人間が病院からアロアを連れていってしまった際に、毛布が忘れられていることに気付いて、それを持って追いかけて行った、らしい。アロアを乗せた車を走って追いかけるという無謀は賞賛に値する。街中は信号もあるので、離されずに追えていたらしいのだが、椎名町の住宅地のあたりで車を見失ってしまったとのことで、そのまま毛布を持って引き返せばいいものを、なにを思ったのかこの男、その場に毛布を捨ててくるという暴挙に出たのだ。後であたしが回収できたからいいようなものの、万死に値する行為だ。猛省しろ、PKD。
そのPKDを躱して店内の奥に進む。壁には欧州風の漆喰が塗られ、天井には大きなシーリングファンがゆったりと回り、座敷席はなくなり、すべてがテーブル席になっている。掘りごたつ的な座敷をあたしは少し気に入っていたので、それがなくなってしまったのは残念ではあるものの、日本酒くさい木の柱やカウンターが取り替えられたことには好感が持てる。
テーブル席の一つにハーモニカの老人が座っていたので、席に近づいてハイタッチをする。右手、左手、右肘、左肘、両手、両肘、ぱんぱんぱんっと。以前は簡単なハイタッチでも意思の疎通に苦労したけど、いまではこんな高度なハイタッチのやりとりができている。それでも、いまだに、あたしはこのおじいちゃんと言葉を交わしたことがない。職業は弁護士だそうで、しゃべることが仕事みたいなものではないのかと思うのだけど、まあ、仕事とプライベートをきちんと分けているのだろう。暮根雅人を警察から解放してくれたのが、このおじいちゃんだとのことで、それがわかったのはPKDの証言によるものだ。
さらに奥に行ったところ、一番奥の席にアロアの専用席がある。アロアはいつもここにいて、横にはボーちゃんがいる。暮根雅人のことを誤って「ママ」と呼んでしまったアロアだが、いまではボーちゃんがアロアのママだ。ボーちゃんの言いつけを守って暮らすアロアは『野生のエルザ』である。いや、エルザは人に育てられたライオンだから、逆かしら。『狼少女アマラとカマラ』である。アマラとカマラとアロア。名前も似ている。言葉をしゃべるよりも、遠吠えを覚える方が先になるかもしれない。
そこへ、暮根雅人がやってきてテーブルにフレンチトーストを二つ置いたかと思ったら、さっさと厨房に戻る。忙しいようでなによりだ。
ウンポコ・ポルファボールにはメニューが存在しない。さらに言えば価格もない。客は出された料理に対して、自身が適正と思える金額を払う。それが相応と思えばアルミ硬貨一枚でもいいし、逆に価値を見いだしてくれたなら高額紙幣でも払えばいい。いくら払うかは客の自由である。もちろん、客がケチり続ければ経営は悪化して店は潰れる。客の在り様がこの店の存続を決めるわけだ。もっとも、峯平氏が金銭面での援助をしてくれるとのことで、そう簡単には潰れないと暮根雅人は言っていた。
ちなみに、ここは基本的には子供食堂である。子供にお腹いっぱいに食べてもらう、というのがコンセプトであるものの、大人を排除するわけではない。大人には子供の食べる分を金銭的に担っていただきたい、というのが自由な価格に現れているわけだ。ウンポコ・ポルファボールという店名は、それを思えばふさわしいように思う。
そんなことを考えながら無造作にフレンチトーストに添えられていたスプーンを突っ込む。ん、スプーン? こういうのってフォークで食べるもんじゃないの。疑問を抱きつつもスプーンを当てると抵抗なく一口分のフレンチトーストが抉られる。スプーンを目の高さにあげて吟味する。ベースになっているパンはバケットで、食パンよりも穴の多いその構造がより多くの卵液を含んでいる。おかげでスプーンが通るほどに柔らかいのだろう。それを無造作に口に入れる。
「あちっ!」
熱すぎる。こんなものをアロアに出したのか。アロアはなんでも臆せずばくばく食べるのだから、こんなのは危険すぎる。暮根雅人はなにを考えているのか、と思ってアロアの方を見ると、豪快にフレンチトーストを食べている。
あれ?
アロアのフレンチトーストの皿に軽く触れる。ぬるい。そうか、ちゃんと配慮されていたのか。疑ってすまなかったな、暮根雅人。
改めてフレンチトーストを口に運ぶ。その焼き上がりはふわっとしてとろっとして、もはやプリンである。おいしい。なにを作らせても、ほんとにおいしい。ああ、もう、なんか逆にムカつく。一人で作って一人で食べていたことにもムカつくんだけど、今ではこれを誰でも食べられることにムカつく。ついこの間まで、あたしのお抱えシェフだったのに……
「いや、誰が君のお抱えシェフだって?」仕事が一段落したのか、暮根雅人がアイスコーヒーを両手に持って席にきた。
「今日の学校はどうだった?」という問いに「普通」と答える。アロアを見舞うという大任がなくなってしまった今、学校に行かない言い訳が見いだせなくて、しかたなく通学している。学校では相変わらずのぼっちだけど、へんな金髪に絡まれたり、毛むくじゃらの変質者と揉みあったりすることに比べたら、無視される程度のことはどうということもない。むしろ平和と言えるくらいだ。
ちなみに、アイスコーヒーを飲む権限は暮根雅人との交渉によって勝ち得たものである。学校後に店の手伝いをするのが条件であって、見方によってはあたしの方が損をしているように見えるかもだけど、そんなささやかな手間よりは暮根雅人のアイスコーヒーを飲める権利の方が、あたしにとっては価値甚大である。そもそも、学校が終わればアロアに会うためにここにくるわけだし、一人で暮根雅人の部屋に居たってしかたない。「ああ、そうだ」と思い出したように暮根雅人が口にして、続けて「おかえり」と言う。
「ただいま」とあたしは答える。




