・7-2 第70話:「雨」
・7-2 第70話:「雨」
シアリーズ大陸では、「悪いことは重なってやって来る」という言い回しがある。
文字通り、状況が芳しくない時にさらに追加で困難が降りかかる、という意味だ。
ぜひ、外れて欲しい。
そう願わずにはいられなかったが、その思いは実らなかった。
しつこく追跡してきているかもしれない火の民を振り切るため、ひたすら進み続けるソラーナ王国軍の敗残兵たちの頭上に、厚く暗い雲がかかる。
日差しを遮ってくれると喜んだのも束の間。
ほどなくして強めの雨が降り始め、戦闘の後、徹夜で敗走を続けて来た将兵たちの頭上を容赦なく叩き始めた。
たちまち、将兵の身体は濡れていった。
そして水分を含んだ衣服は体温を奪い、さらに彼らを消耗させていく。
ただでさえ疲弊し、体力が弱まっているのだ。
このままでは、風邪を引いてしまうどころか、命にも関わって来る。
ソラーナ王国軍の敗残兵たちは、ほぼ一日、まともな食事を摂れていなかった。
火の民と戦い、彼らから逃れるのに精いっぱいで、ゆっくりと休んでいる時間もなかったからだ。
最後に口にしたのは、戦闘を開始する前に弁当として準備しておいたパンと干し肉、チーズなどといった携行糧食だけ。
それも立ち止まってではなく、歩きながら貪るような格好だ。
とても満足できるだけの量ではないし、空腹のために身体に力が入らなくなりつつある。
そこに来て、この雨だ。
体温を奪われ、低体温症になってしまう可能性もある。
背後から敵が追ってきていることは分かっている。
だが、それでもどこかで立ち止まり、雨宿りをして、休まなければ。
このままでは全員、峠を越えることができずに遭難してしまう……。
「前方に村があります!
人も住んでおります!
火の民ではなく、シアリーズ大陸の者たちです! 」
そんな時に先行させていた斥候がもたらしたその知らせは、朗報だった。
村がある、ということは、限られてはいるだろうが屋根がある、ということだ。
となれば、そこで体力が回復するまで、少なくとも雨が止むまでは、休むことができるかもしれない。
一万にも及ぶ敗残兵の全員が、というのは無理だろうが、体力の弱まっている者は助かるし、溢れたとしても村の近くには薪を得るための森があるのが一般的だったから、その木陰で耐え忍べる。
うまくすれば、焚火で暖まることもできるだろう。
少なくとも現状よりも遥かにマシだ。
そしてなにより。
食べ物だ。
村、といえば、その人口はせいぜい数百。
とても万単位の人間の飢えを満たせるだけの食料はない、と思えるかもしれないが、一年間を生きて行くために彼らはそのための食材を蓄えている。
満足する量はさすがに難しいに違いないが、わずかでも元気を取り戻せる程度の量を、それも一食だけならば、なんとか得られる可能性はあった。
「まずは、村長と交渉しよう。
彼らは火の民ではなく、我らの同胞、すなわち我が臣民であるのだから。
申し訳ないが、兵たちに休息と食事を便宜してもらえぬかどうか、私に代わってエリアス殿に交渉していただきたい」
殿として数ベスミッレ後方を行軍しているリオン王子に対応をたずねると、しばらくしてそんな返答があった。
(大役だ……)
エリアスは緊張感で頭がくらくらとする心地がしていた。
交渉役を自分が、というのは仕方がない。
後方にいるリオン王子が行うのでは、村との往復に時間がかかって遅々として話が進まないだろう。
こちらでやってみるしかない。
しかし、受け入れてもらえるかどうか。
食糧は、村人たちにとっても貴重なものだった。
彼らはそれを得るために毎日必死になって労働し、ようやく蓄えたのだ。
それを、差し出せ、などと言って、簡単にうなずいてくれるとは限らない。
せめてその対価として十分なものをこちらが提示できなければ、交渉の端緒にもつくことはできないだろう。
人間には慈悲の心がある。
困難に直面しているエリアスたちの姿を見て手を差し伸べてくれる可能性はもちろんあったが、なにしろ、こちらは一万もいる。
どう考えても村人たちの手には負えない数であり、たった一食だけであろうとも食事を提供するだけで彼らの備蓄は尽き果て、死活問題となるに違いない。
しかも、この道は先に火の民の迂回軍が通過しているのだ。
その証拠に、やたらと重いものを運んだのか人力の荷車の深い轍がコレドールの地まで延々と続いている。
もしも彼らが先に物資を徴発したり、略奪したりしていたならば、村に残っている食べ物は少ないだろう。
そこに来てソラーナ王国軍の敗残兵に差し出すとなれば、本当に何も残らない。
どうやって彼らに納得してもらうのか。
我が臣民だから、まずは、交渉を。
リオン王子からのその指示には、言外に、「応じないならば、略奪することも考えている」という意図が含まれている。
[まず]は、話し合う。
それで不成立ならば、強硬手段もあり得る———。
そんなことは絶対に嫌だ。
だから必ず、話し合いで解決したい。
そのエリアスの優しさが、余計に大きなプレッシャーを与えている。
なにしろ、自分たちも追い詰められている。
誰もが疲れ切っていて、空腹で、生き延びることに必死になっている。
そんな状況では。
リンセ伯爵やリオン王子が「略奪を禁止する」と厳命したところで、守られないだろう。
将兵は蛮族のように村人たちに襲いかかり、奪い、殺戮することとなる。
同じ、ソラーナ王国の人間同士で!
(さて……。
どうしたものだろう?
僕は、どうすれば……)
村全体が見渡せ、村と外界とを隔てる境界の目印として設けられた簡素な木の門から少し離れた場所で進軍を停止させたエリアスは、自身の兜に降りかかる雨粒の音を聞きながら、懸命に思考を巡らせていた。




