・6-12 第63話:「撤退戦」
・6-12 第63話:「撤退戦」
これ以上、この戦場でできることはなにもない———。
敗北という現実を受け入れ、生存するために全力を尽くすことを決心したエリアスに率いられたリンセ伯爵家の手勢二千は、撤退戦を開始した。
その針路はソラーナ王国にとっての最大最強の城塞であるハルディン・デル・トレイに真っ直ぐに向かう北ではなく、西。
火の民の迂回軍が通過してきた、山中の抜け道だ。
そこを一万の敵軍が通過して来たのだが、それらの集団は現在、フェルナンド三世の親衛軍に襲いかかっていて、もう西側にはいない。
彼らと入れ代わりになって脱出しようという考えだ。
リンセ伯爵家の軍勢は、元々、二段にかまえていた。
前に五つの中隊を、後ろに同じく五つの中隊を、という配置で、王国軍右翼の戦場で防御を固めていた。
筆頭騎士長のニコラスはこの形を活用して撤退戦を戦うことを決めた。
まず、前で戦っている軍を先に後退させ、エリアスたち後ろ側の軍が代わりに敵を抑える。
その間に後方に退いた部隊には新たな防衛線を構築させる。
こうして態勢が整ったらエリアスたちも撤退し、さらに後方にもう一度防衛線を形成する。
前と後ろの軍が交互に役割を入れ替え、援護し合いながら下がっていくのだ。
この方法では、すぐに戦場を離脱することは難しかった。
しかし、背中を見せて逃げてしまっては敵の猛烈な追撃を受け、大損害を受けるだけだ。
戦いながらじりじりと引き下がっていかなければ、損害は巨大なものとなってしまうだろう。
リンセ伯爵家の二千の軍勢は、早くこの危険な戦場から離脱したいという焦燥感をこらえつつ、段々と西側へ退いて行った。
「伝令! ベルトラン伯爵からのお返事でございます! 」
その時、西に退路があるといことを知らせるために放った配下の騎士が駆け戻って来てエリアスの前で馬を止めた。
本来ならば下馬するのが礼儀というものだが、緊急事態であるために省略し、馬上のまま兜のバイザーをはね上げ、いわゆる[敬礼]の恰好を取る。
「ベルトラン殿は、どうなされた!?
退却して下さるのか? 」
「それが……、すでに、お亡くなりにっ! 」
早く報告を聞きたい。
急いでたずねると、沈痛な口調での答えが返って来る。
「伯爵家の臣下の方々に連絡を申し上げたのですが、火の民の[魔法]によって受けた傷が致命傷となり、そのまま……。
ご遺体も、確認して参りました! 」
「そうか……。
それで、残された家中の方々は、どうなされるのか? 」
「すでに総崩れとなっておりますが、数百の家臣の方々が踏みとどまり、伯爵のご遺体を守って戦っております!
方々が申しますに、ここは我らにお任せになって、リンセ伯爵は一刻も早くお引きあれ、と!
撤退を進言いたしましたが、主君を失った以上はここで散るまで、と、謝絶されました」
ボルカン伯爵家の軍勢はリンセ伯爵家のものよりも多い、三千もいた。
しかし、その戦力はもはや、風前の灯だ。
敵陣に攻め入った際に大損害を受け、主までも失い、生き残っていた将兵の多くも敗走に転じた。
残っているのはベルトラン伯爵の近くに仕え、長く奉公して来た、関係の深い者たちだけなのだろう。
そして彼らは、戦死した主君に殉じようとしている。
これ以上なにを言っても、翻意することはないだろう。
彼らに待ち受けている最期を思い短く黙祷したエリアスは。伝令の任務を果たした騎士に「ご苦労だった。元の持ち場に戻り、貴殿も我らと共に脱出するように」と命じて下がらせる。
リンセ伯爵家は今のところ、よく持ちこたえていた。
ソラーナ王国軍が総崩れとなったこの機に戦果を最大限に拡張しようと勇んで追撃をかけて来ている火の民の軍勢をうまく防ぎとめ、損害を最小限にしつつ後退を続けている。
しかし、いつ、この均衡が崩されないとも限らない。
難しい状況だった。
筆頭騎士長のニコラスがよく働いていた。
エリアスを補佐し、実質的にリンセ伯爵家の軍勢を指揮している彼は各部隊と連絡を密に取り、どの中隊も孤立することが無いように細心の注意を払ってくれている。
西へ逃げる、という選択も良かったのだろう。
現在の戦況は、火の民が南側から迫り、北側にも迂回して来て猛威を振るっている、という形だ。
もし北に逃げることを選択していたら前後から挟み込まれ、部隊を二手に分けながら交互に後退するという戦法は使えなかったかもしれない。
西に向かって斜めに後退していることで、リンセ伯爵家は敵を迎え撃つ方向を正面のみに限定することができていた。
戦線の中央に進出した敵と南からの敵を防ぎながら退くという形を作ることができている。
火の民の迂回軍に左の側面をさらしている形ではあったが、フェルナンド三世の軍勢が持ちこたえているためにこちらを攻撃している余力がないのか、今のところ圧力は少なかった。
他の部隊。
たとえば、真っ先に逃走した傭兵たちなどはどうかというと、———悲惨だった。
彼らはいち早く離脱を開始したものの北に真っ直ぐに向かって行ったため、進行方向を火御民の迂回軍に遮られ、追撃して来た敵の主力部隊に背後から捕捉されてしまったのだ。
要領の良い熟練した傭兵隊長などに率いられていた部隊は、それでも無事に戦場から離脱することに成功していた。
彼らは巧みに敵の手薄なところを探し出し、部隊の将兵が一丸となって突破して北へ抜けて行く。
そういったことができなかった部隊、散り散りになって個人がバラバラに逃げている場合は、なす術がない。
火の民の軍勢に包囲されて四方八方から長槍で突き崩され、叩き潰されるか、戦場を逃げ惑い背中から斬られたり、矢で射抜かれたり。
エリアス達には、どうすることもできない。
二千と言えばれっきとした集団だったが、数万の敵軍の中から敗走する味方を救出することができるほどの戦力はどこにもない。
大勢が倒れて行くのを、見ていることしかできない———。
「エリアス。
今は、生きて帰ることだけを考えましょう」
「……うん、分かっているよ、リアーヌ」
辛そうにしている様子に気づいてリアーヌがそう言い、エリアスは辛うじて笑顔を作ってうなずいてみせていた。
そうして。
阿鼻叫喚の戦場で撤退戦を戦ったリンセ伯爵家の手勢は、どうにか、西へ向かう抜け道の入り口にまでたどり着いていた。




